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JR両毛線足利駅又は東武伊勢崎線足利市駅徒歩から北方に9~14分、日本最古の学校である足利学校(栃木県栃木市昌平町)を訪問しました。<br /><br />足利学校の創建については奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など諸説があるようですが、歴史上明らかになるのは、永亨4年(1432)関東管領上杉憲実(うえすぎ・のりざね、1410~1466)が当地の領主となって衰退していた当学校を自ら再興し、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、学長を意味する「能化」(江戸時代には庠主と呼称)制度を設け、北は東北、南は沖縄に至る全国各地から入校があり、学長にあたる「能化」も各地の出身者に引き継がれています。<br /><br />足利学校で学んだ人物の中で一部紹介しますと、間直瀬道三(1507~1594)ですが、彼は享禄元年(1528)22歳の時足利学校に入り第6世庠主文伯に師事、天文14年(1545)京都に帰り、翌年足利義輝に謁し寵遇を受け、医学舎啓迪院を創設します。<br /><br />次に天海(?~1643)ですが、永禄元年(1560)から4年間足利学校にて第7世庠主九華に師事します。やがて出家して随鳳と称し、比叡山等で修行の後、天正17年(1589)駿府にて徳川家康に謁して、川越の喜多院住職、日光山管主となります。家康の死去に際しては葬儀の導師を勤め日光山を再興、また秀忠並びに家光の補佐をして幕政に貢献しています。<br /><br />また足利学校を訪問した主たる人物としては、林羅山(儒学者)が承応2年(1653)、渡辺崋山(画家)が天保2年(1831)、吉田松陰(幕末の学者)が嘉永5年(1852)、高杉晋作(幕末の志士)が万延元年(1860)、更に東郷平八郎(海軍大将)、大隈重信(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、渋沢栄一(実業家)、黒田清隆(洋画家)、井上馨(政治家)、乃木稀典(陸軍大将)、嘉納治五郎(講道館館長)、新渡戸稲造(教育家)、加藤高明(政治家)と枚挙に暇がありません。<br /><br />文案4年(1447)憲実は足利学校に対し3ヶ条の規定を定め、この中で同学校で教える学問は三註・四書。六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定、教員は僧侶であったが仏教の経典は寺院で学ぶものとして仏教色を排除した独特なカリキュラムであったようです。<br /><br />上記科目のほか教員によっては易学・兵学・医学なども教えていたので、戦国時代には当該学校出身者の中には戦国武将の側近として仕えていた人物もいたほどで代表的な人物としては天海僧正(生誕不明~1643)や曲直瀬道三(1507~1594)などが挙げられます。<br /><br /><br />2022年5月12日追記<br /><br />同所で入手の「足利学校」と題した冊子には下記の通り略歴があります。<br /><br />「 足 利 学 校 の 歴 史<br /><br />足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、しょう主(学長)制度を設けるなどして学校を再開したころからです。<br /><br />鎌倉建長寺住持の、玉隠永興(ぎょくいんえいよ)は、長亨元(1487)年の詩文の中で「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と賛美しております。<br /><br />また天文18年(1549)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。<br /><br />江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年幕をおろしましたが、足利学校の精神は現在に引き継がれています。<br /><br />昭和57年より、「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成2年江戸中期の姿に蘇りました。」

上野足利 鎌倉府関東管領の上杉憲実が自らが守護として領した上野国足利にあった衰退の学校を再興したという日本最古『足利学校』訪問

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2012/09/09 - 2012/09/09

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR両毛線足利駅又は東武伊勢崎線足利市駅徒歩から北方に9~14分、日本最古の学校である足利学校(栃木県栃木市昌平町)を訪問しました。

足利学校の創建については奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など諸説があるようですが、歴史上明らかになるのは、永亨4年(1432)関東管領上杉憲実(うえすぎ・のりざね、1410~1466)が当地の領主となって衰退していた当学校を自ら再興し、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、学長を意味する「能化」(江戸時代には庠主と呼称)制度を設け、北は東北、南は沖縄に至る全国各地から入校があり、学長にあたる「能化」も各地の出身者に引き継がれています。

足利学校で学んだ人物の中で一部紹介しますと、間直瀬道三(1507~1594)ですが、彼は享禄元年(1528)22歳の時足利学校に入り第6世庠主文伯に師事、天文14年(1545)京都に帰り、翌年足利義輝に謁し寵遇を受け、医学舎啓迪院を創設します。

次に天海(?~1643)ですが、永禄元年(1560)から4年間足利学校にて第7世庠主九華に師事します。やがて出家して随鳳と称し、比叡山等で修行の後、天正17年(1589)駿府にて徳川家康に謁して、川越の喜多院住職、日光山管主となります。家康の死去に際しては葬儀の導師を勤め日光山を再興、また秀忠並びに家光の補佐をして幕政に貢献しています。

また足利学校を訪問した主たる人物としては、林羅山(儒学者)が承応2年(1653)、渡辺崋山(画家)が天保2年(1831)、吉田松陰(幕末の学者)が嘉永5年(1852)、高杉晋作(幕末の志士)が万延元年(1860)、更に東郷平八郎(海軍大将)、大隈重信(政治家)、徳富蘇峰(評論家)、渋沢栄一(実業家)、黒田清隆(洋画家)、井上馨(政治家)、乃木稀典(陸軍大将)、嘉納治五郎(講道館館長)、新渡戸稲造(教育家)、加藤高明(政治家)と枚挙に暇がありません。

文案4年(1447)憲実は足利学校に対し3ヶ条の規定を定め、この中で同学校で教える学問は三註・四書。六経・列子・荘子・史記・文選のみと限定、教員は僧侶であったが仏教の経典は寺院で学ぶものとして仏教色を排除した独特なカリキュラムであったようです。

上記科目のほか教員によっては易学・兵学・医学なども教えていたので、戦国時代には当該学校出身者の中には戦国武将の側近として仕えていた人物もいたほどで代表的な人物としては天海僧正(生誕不明~1643)や曲直瀬道三(1507~1594)などが挙げられます。


2022年5月12日追記

同所で入手の「足利学校」と題した冊子には下記の通り略歴があります。

「 足 利 学 校 の 歴 史

足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、上杉憲実(室町時代)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、しょう主(学長)制度を設けるなどして学校を再開したころからです。

鎌倉建長寺住持の、玉隠永興(ぎょくいんえいよ)は、長亨元(1487)年の詩文の中で「足利の学校には諸国から学徒が集まり学問に励み、それに感化されて、野山に働く人々も漢詩を口ずさみつつ仕事にいそしみ、足利はまことに風雅の一都会である」と賛美しております。

また天文18年(1549)年にはフランシスコ=ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、「学徒三千」といわれるほどになりました。

江戸時代の末期には「坂東の大学」の役割を終え、明治5年幕をおろしましたが、足利学校の精神は現在に引き継がれています。

昭和57年より、「史跡足利学校跡保存整備事業」を実施し、平成2年江戸中期の姿に蘇りました。」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 足利学校東端景色<br /><br />中世期の館に見られる水堀と土塁にて境界が造作されています。<br /><br />

    足利学校東端景色

    中世期の館に見られる水堀と土塁にて境界が造作されています。

  • 足利学校南東端景色

    足利学校南東端景色

  • 足利学校案内板

    足利学校案内板

  • 足利学校南端

    足利学校南端

  • 裏門<br /><br />学生や一般人の通用門として使用されていました。

    裏門

    学生や一般人の通用門として使用されていました。

  • 入徳門<br /><br /><br />入徳門(にゅうとくもん)はいわば正門で、扁額は天保11年(1840)に掲げられています。<br />尚 現在の建物は裏門を移築したものといわれています。<br /><br /><br /><br />

    入徳門


    入徳門(にゅうとくもん)はいわば正門で、扁額は天保11年(1840)に掲げられています。
    尚 現在の建物は裏門を移築したものといわれています。



  • 学校門を一望<br /><br />入徳門から学校門に導く通りです。

    学校門を一望

    入徳門から学校門に導く通りです。

  • 足利学校復元碑<br /><br />説明では指定地の東側にあった東小学校を移転して江戸中期宝暦年間の姿に復元したそうです。

    足利学校復元碑

    説明では指定地の東側にあった東小学校を移転して江戸中期宝暦年間の姿に復元したそうです。

  • 正一位霊験稲荷社

    正一位霊験稲荷社

  • 正一位霊験稲荷社縁起

    正一位霊験稲荷社縁起

  • 旧遺蹟図書館<br /><br />足利学校が廃校になった以後、明治36年(1903)に遺蹟図書館が開設、書物を継承し現在に至っています。<br />尚 建物は大正4年(1915)に建てられ市の重要文化財に指定されています。<br />

    旧遺蹟図書館

    足利学校が廃校になった以後、明治36年(1903)に遺蹟図書館が開設、書物を継承し現在に至っています。
    尚 建物は大正4年(1915)に建てられ市の重要文化財に指定されています。

  • 字降松(かなふりまつ)<br /><br />学生が読めない文字を書いた札をこの樹木の枝に付けておくと、学校長である和尚がこれを見てふり仮名を付けたり注釈を付けたりして学生との交流を深めた松でこれを字降松と名づけたそうです。

    字降松(かなふりまつ)

    学生が読めない文字を書いた札をこの樹木の枝に付けておくと、学校長である和尚がこれを見てふり仮名を付けたり注釈を付けたりして学生との交流を深めた松でこれを字降松と名づけたそうです。

  • 杏壇門(きょうだんもん)<br /><br />寛文8年(1668)の創建で、明治25年(1892)に町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け同30年(1897)に再建されました。

    杏壇門(きょうだんもん)

    寛文8年(1668)の創建で、明治25年(1892)に町の大火の飛び火により屋根門扉が焼け同30年(1897)に再建されました。

  • 孔子廟(聖廟)<br /><br />寛文8年(1668)幕府4代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。

    孔子廟(聖廟)

    寛文8年(1668)幕府4代将軍家綱の時に造営されたもので、中国明時代の聖廟を模したものと伝えられています。

  • 月桂樹<br /><br />海軍大将東郷平八郎が手植えしたといわれた月桂樹です。明治39年(1906)当学校を訪れた際手植えしたと思われます。

    月桂樹

    海軍大将東郷平八郎が手植えしたといわれた月桂樹です。明治39年(1906)当学校を訪れた際手植えしたと思われます。

  • 孔子座像(木像)<br /><br />頭巾を被り儒服をつけた姿は、行教像といい弟子達の教育にあたる姿で、像の背中や底には墨書きがあり、当時の代官である長尾憲長(1503〜1550)の名前があります。

    孔子座像(木像)

    頭巾を被り儒服をつけた姿は、行教像といい弟子達の教育にあたる姿で、像の背中や底には墨書きがあり、当時の代官である長尾憲長(1503〜1550)の名前があります。

  • 小野篁座像(木像)<br /><br />小野篁(おののたかむら、802~852)は平安時代の公家で歌人学問に優れ野相公(やしょうこう)と呼ばれた人物です。

    小野篁座像(木像)

    小野篁(おののたかむら、802~852)は平安時代の公家で歌人学問に優れ野相公(やしょうこう)と呼ばれた人物です。

  • 南庭園全景<br /><br />南庭園は鶴がはばたくように見える入り組んだ水際です。

    南庭園全景

    南庭園は鶴がはばたくように見える入り組んだ水際です。

  • 方丈全景

    方丈全景

  • 方丈正面<br /><br />方丈は学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された所です。

    方丈正面

    方丈は学生の講義や学習、学校行事や接客のための座敷として使用された所です。

  • 方丈玄関

    方丈玄関

  • 方丈内部

    方丈内部

  • 方丈内部

    方丈内部

  • 裏門<br /><br />内部から見た裏門で日常的に使用する門ですが、学校の裏に位置しないのになぜ裏門といわれるのか不明だそうです。

    裏門

    内部から見た裏門で日常的に使用する門ですが、学校の裏に位置しないのになぜ裏門といわれるのか不明だそうです。

  • 土塁<br /><br />

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 上杉憲実顕彰碑<br /><br />足利学校中興の祖として顕彰された上杉憲実は関東管領として名を刻まれています。<br />

    上杉憲実顕彰碑

    足利学校中興の祖として顕彰された上杉憲実は関東管領として名を刻まれています。

  • 衆寮(しゅうりょう)<br /><br />学生が勉強したり生活したりした建物です。

    衆寮(しゅうりょう)

    学生が勉強したり生活したりした建物です。

  • 庫裡・書院<br /><br />学校の台所で食事など日常生活が行われていた所や学校長の書斎や応接の部屋であった所です。

    庫裡・書院

    学校の台所で食事など日常生活が行われていた所や学校長の書斎や応接の部屋であった所です。

  • 北庭園<br /><br />北庭園は亀のように見える水際となっています。

    北庭園

    北庭園は亀のように見える水際となっています。

  • 足利尊氏像

    足利尊氏像

  • 足利尊氏説明

    足利尊氏説明

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 義臣さん 2013/02/14 07:23:31
    小学校
    その以前は 此処は 小学校が有りました

    子供たちの歓声が聞こえ 嬉しかった時代がりました

    小学校が消え 調査がはじまり

    このような立派な建物が出来ました。

    寂しいような 復元されて良かったような

    複雑なきもちです

    付近も整備されて良かったのですが。

                    義臣

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