2012/08/12 - 2012/08/12
152位(同エリア274件中)
滝山氏照さん
JR高崎線籠原(かごはら)駅から北東に約3Kmに東別府神社があり、この地がかつての別府城(べっぷじょう、埼玉県熊谷市東別府)と言われております。
城主は成田助高(なりた・すけたか)の二男行隆(ゆきたか)が別府の地に住み別府氏と名乗ることに始まると伝えられています。
元久元年(1204)行高の息子能行(よしゆき)と行助(ゆきすけ)が領地の配分について争い、行隆は当別府の地を半分ずつ知行するよう遺言したと伝えられています。
別府城は行隆から能行に継がれ、戦国時代には長清(ながきよ)まで12代に亘り居城していましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原北条氏討伐に際し小田原北条氏側に付いた為秀吉派遣軍に攻撃を受け落城別府氏は所領没収となり、その後は廃城となります。
築城時期は定かではありませんが、15世紀から16世紀後半と思われ、築城者は別府長清ではないかと推測されます。
城郭の周辺には空堀と土塁が東西及び南北に約100mの四角形に巡らされておりとりわけ北側と西側には見事な土塁が認められ、典型的な中世城郭跡と言えます。
2023年8月5日追記
現地建立の説明板には次のごとく記載されています。
「 埼玉県指定史跡 「 別 府 城 跡 」
昭和16年3月31日指定
「別府城跡」は、平安時代末期から室町時代における別府氏の居館跡であり、東西やく100メートル、南北約90メートルの屋敷地が残されている。土塁と堀の保存状態も良好で、その規模は、堀が幅約5メートル、深さ約2・3メートル、土塁は高さ約2メートルである。城跡の敷地面積は約36,000m2である。
別府城跡に建立された東別府神社は、創建年代不詳であるが、別府氏(藤原氏)の氏神として大和奈良の春日神社を勧請、天正18年(1590)の落城まで、城の鎮守だったと伝わる。明治42年(1909)に埋鳥の村社榛名神社を合祀、東別府神社と改称したとされる。
別府という地名の由来については、平安時代末期頃に「別府符」(追加開墾状)によって開墾されたという説のほか、国府の支庁である別府が置かれたことによるとも考えられている。熊谷市と深谷市との境界周辺に所在する国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」では7世紀後半から11世紀前半までの「郡家」(郡役所跡)が確認されている。これらの説からも、別府の地は古くから開発された所であることが推定される。
別府氏については諸説あるものの、『成田氏系図』によると、平安時代末期、成田氏の成田助高の次男である行高が別府の地を支配し別府氏を名乗ったのが始まりとされている。幸隆の長男である義行が別府の東部に居住し、「東別府氏」となり、次男の行助が別府の西部に館を構え「西別府氏」となったという伝承がある。別府の歴史を今に伝える「別府城跡」は、地元の人々の信仰と尽力によって貴重な文化遺産として現在に継承されている。
令和3年3月 熊谷市教育委員会 」
(2021)
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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別府城跡入口
今では東別府神社となっておりその石標が建立しています。 -
別府城跡
神社石標の傍らに「史跡 別府城跡」が確認されます。 -
東別府神社第一鳥居
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別所城跡石碑
別所城に関する説明が記されています。別府氏12代にわたる居城であったと説明あります。 -
東別所神社第二鳥居
鳥居の向こうには拝殿が控えています。 -
東別所神社拝殿
どちらかといえば地味な拝殿で境内もこじんまりしています。 -
東別所神社拝殿扁額
「東別所神社」と刻してます。 -
東別府神社本殿
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社殿改修の碑
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イチオシ
土塁と空堀
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空堀
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土塁
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土塁と空堀
見事な土塁が立派に残っています。 -
土塁と空堀
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イチオシ
空堀
なだらかな空堀の向こうには池が施されています。 -
土塁
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土塁と空堀
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土塁
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