2008/06/27 - 2008/06/27
281位(同エリア306件中)
ムッシュさん
旧街道「中山道」を鴻巣宿氷川神社より荒川堤を経由して熊谷宿までウォーキング。
関東平野の中央部田園地帯が荒川沿いに広がるで住宅街です。
第二次大戦の爆撃もあり、大半が焼け野原になったせいか、道中に昔の面影はあまりありません。
普段歩くこともない地区ですが、曇り空と風に助けられながら、それでも暑い熊谷方面に向けて汗ダクになり、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの観光です。
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
-
-
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望 英泉 』天保6- 8年
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景である。旅路の目印となる榎が疎らに植えられこうげんの縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景では雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。(ウイッキペディア) -
中山道 鴻巣
-
-
【吹上神社】(鴻巣市本町)
日枝神社(山王社)を勧請して吹上地区の鎮守としました、明治時代に稲荷神社と氷川神社を合祀して吹上神社となりました、当社は暴れ神輿で知られています。 -
吹上宿の外れに、間の宿・吹上宿の石碑と案内板がある
【吹上「間の宿」】
中山道の街道筋にあたる吹上は、鴻巣と熊谷の「間の宿」として発展した街。江戸期、幕府公認の宿場ではありませんでした。
しかし、それにもかかわらず重要視されたのは、日光東照宮を警護する。武士たちの「日光火の番道」と、中山道が町の中央部で交差すること。また鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったため、その中間に休憩する場所として「お休み本陣」や馬次ぎの「立場」を設置する必要があったからです。
年に30家もの大名が江戸や国元へと行列を飾り、多くの文人や墨客たちも足をとどめた「吹上宿」。中でも信濃の俳人小林一茶や加舎白雄、狂言師で戯作者でもあった太田南畝、浮世絵師の池田英泉などはそれぞれ特異な作品を残しています。そして江戸以来、吹上の名物は「忍のさし足袋」と荒川の「うなぎ」、「榎戸の目薬」も街道の名品にかぞえられていました。
この場所は、かっての中山道が鉄道の開通によって分断された地点にあたっています。 -
【吹上間の宿碑】 吹上の案内板
中山道六十九次のうち江戸日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の熊谷宿との中間地点に位置する街道沿いの集落であった吹上村に「吹上間の宿」が出来た。鴻巣-熊谷間は4里6町40間(約16.5㎞)と他の宿場に比べて距離が開きすぎたため、旅人の需要が自然に発生したものであり、吹上村は非公式の休憩地・中継地として機能した。また、中山道は吹上村を追分として千人同心街道と交わっており、この吹上村は北は終点日光東照宮へ、南は八王子宿付近の千人同心町に繋がっている。 -
【権八延命地蔵堂(鴻巣市)】
歌舞伎の鈴ケ森に登場する白井権八が路銀に困窮し、地蔵の前で上州絹商人を殺害し、金子三百両を奪った、これを見ていた地蔵に「他言するな」と口封じをしたところ地蔵が「わしは言はぬがぬしも言うな」と答えたところから権八物言い地蔵とも呼ばれた。権八はその後捕えられ、延宝八年(1680)鈴ケ森の刑場で磔になりました。(webより)
権八はその後捕えられ、延宝八年(1680年)鈴ケ森の刑場で磔になりました。
【権八延命地蔵堂(鴻巣市)】
熊谷宿の手前、荊原の外れにあって御堂に納められた石地蔵で、「権八延命地蔵」「権八物言い地蔵」「権八地蔵」「物言い地蔵」などとも言う。このあたりで辻斬りをしたという平井権八(鳥取藩士)が、傍に立っていたこの地蔵に口封じをしたとの伝説がある。平井権八は歌舞伎の演目「鈴が森」の登場人物・白井権八にあたる。鳥取から江戸に向かう途中で路銀に困った権八は、通りすがりの上州の生糸商人を斬殺し、金300両を強奪した。その現場で事の一部始終を見ていたかのように佇む地蔵尊に権八が「今の事は他言してくれるな」と戯言を言ったところ、石造りの地蔵が「吾(わ)れは言はぬが 汝(なれ)言うな」と言い返したという。史実の平井権八は延宝7年(1679年)に悪運も尽き、豊島郡大井村の鈴が森刑場にて磔刑に処されている。なお、地蔵の銘文には、火防のため元禄11年(1698年)建立とある。背後は荒川の土手である。 -
この土手に通じる坂道を上がるとパノラマ風景が見れる【熊谷堤】です。
-
-
【熊谷堤】
熊谷堤(熊谷八丁堤)は天正二年(1574)針形城主北条氏邦(うじくに)が荒川の氾濫に備えて堤を築き、江戸時代には忍藩が修築を行いました。
堤の中は広大な河川敷の農地でありまして川の流れは見えません。
明治16年、桜が1000本近くに増えたが、戦災などで失われ、今は1本もない。 -
旧中山道は、この熊谷堤の上である現在でも約2.5km続いている
荒川土手は、これが旧中山道であり、関東平野のど真ん中と言う感じで見晴らしが良く、気持ちの良い旧街道である -
【久下神社】(熊谷市久下)
この地を領した久下直光が勧請し、元は熊久伊奈利社と称しましたが、明治時代に20数社を合祀して久下神社となった。境内の御神燈は嘉永4年(1851)の建立です。
『吾妻鏡』建久三年(1192)の条に「是武蔵国熊谷久下境相論事也」として、
熊谷直実とその一族である久下直光が将軍源頼朝の前で境界争いをしたことが
記されている。当地は、右の話に登場する久下直光の在所であり、自ら深く三島大神を崇敬していた久下直光は、その鎮守として地内に二つの三島社を創建した。
これが当社の始まりであると伝えられている。
この二つの三島社のうち、荒川の近くにあったものは外三島、街道(中仙道)の近くにあったものは内三島と呼ばれていたが、当社の母体となったのはこのうちの内三島の方である。
江戸時代に新川河岸が開かれると、その付近に多くの人が住むようになり、明治の初めに新川村が誕生するが、外三島はその村社として祀られるようになった。
一方、内三島の方は中山道に沿って栄えていた旧来の久下村の鎮守であったことから久下村の村社となり、明治四十三年に地内の無格社一〇社を合祀している。
【久下一里塚跡碑】
江戸の日本橋を起点する中山道は、板橋・志村を経て戸田の渡しから埼玉県へ入る。慶長9年(1604)幕府は、大久長安に命じて、この街道に一里塚を築かせた。一里塚は道の両側に方五間(9m四方)の塚を築き、その上に榎や欅を植えたもので、街道に風情を添え、旅人には里程の目印になったり憩いの場所にもなった。
柳樽には、
“くたびれた奴が見つける一里塚”
という句もある。 -
【権八地蔵】
ここに伝わる伝承も、吹上の「権八地蔵」と同じである。
後方の緑は、荒川の土手(堤)です。丁度、久下橋がありパノラマ風景が見れる。 -
【権八地蔵】
元禄11年(1698)造立された地蔵であり、江戸時代平井権八の物語と結びつけた「物言い地蔵」として有名です。石地蔵としては、県内最古のものと推察されています。
江戸時代、江戸から中仙道を進んでいた平井権八が、久下堤で信州の商人に遭遇し、その商人の持金を奪って殺してしまった。ふと傍を見ると石地蔵が立っていることに気づいた。権八に良心が甦ったか地蔵に向かって「このことは、誰に言ってくれるな」と、地蔵は「我は言わぬが汝言うな」と口をきいたという逸話が言い伝えられています。 -
-
ランチ場所
-
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景 英泉画】
英泉は熊谷宿として画面右手奥に蛇行する荒川の八丁堤道を、そして画面左手に立場久下村のみかりや茶屋を描いています。
店先には”あんころとうんとん(うどん)”と描かれた看板があり。
床几には上半身裸の馬子が煙管をくわえ、後ろの馬は飼葉桶に頭を入れて秣(まぐさ)を喰っています。画面の右手には権八地蔵を描き、傍らの道標には「左 深谷二里廿町」「右 おしぎょうだ道」と記されています。
三組のそれぞれの位置関係は距離的に離れていますが、構図として、一つの画面に纏めている。
荒川の土手を背にして右手にブロック塀の家があり,茶屋みかりや跡の説明板がある。『みかりやは、旅人を相手にした茶屋で, 「 しがらぎごぼうと久下ゆべし 」 と、いうことばがあるように柚餅子が名物だった。 忍藩の殿様が鷹狩りをすると,ここで休んだので,御狩屋と呼ばれた・・・・・・
次へ 中山道NO-6熊谷宿から深谷宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10282598/
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
熊谷(埼玉) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
18