2012/08/12 - 2012/08/12
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滝山氏照さん
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城攻めの中で小田原北条氏に属していた成田氏の本城である忍城(おしじょう、埼玉県行田市本丸)は石田三成の水攻めにも屈しなかったことで有名です。
戦国時代、行田周辺の武蔵武士の中から崎西郡成田郷(きさいぐんなりたごう・現在の熊谷市上之)を出自とする成田氏が台頭し、忍城を築城します。
文明11年(1479)、古河公方足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)の書状に「忍城」「成田」と出てくるところから既に築城されていたと判断されます。
当時の城主は成田顕泰(なりた・あきやす、1465?~1524)で、その後親泰、長泰、氏泰と4代に亘り約100年間忍城を支配していました。
忍城が築城された地勢状況は北側に利根川、南側に荒川にはさまれた扇状地で小さな川が乱流し、伏流水が集まって広大な沼地となっている地形を背景に、小島や自然堤防を巧みに利用して造られています。
永禄3年(1560)越後から上杉輝虎(謙信)の関東出陣に際し成田氏はそれまでの小田原北条氏の「他国衆」の立場を離れ旧宗主に属したものの、鶴岡八幡宮に於ける関東管領就任式において辱めを受ける事態になりこれを機に輝虎(謙信)と敵対関係となり再び北条氏の傘下に入ります。
天正18年(1590)いわゆる豊臣秀吉による小田原北条氏討伐に際しては、同氏に属している成田氏は城主氏長(うじなが、1542~1596)は精鋭の家臣を引き連れ、他の他国衆の城主と共に小田原城に籠城、忍城に残された士卒・兵・農民ら数千人は忍城に籠城します。
秀吉の使命を受けて石田三成は忍城を攻めますが、堅城の忍城を攻めあぐね、ここで水攻めにより一挙に落城させ秀吉の期待に応えたいと考えます。
ここで後世に名を残す約30Kmとなる「石田堤」を造りますが、忍城籠城兵による細工で堤防決壊、逆に石田側の将兵が水死することになり散々な状況に置かれます。
最終的には忍城は落城回避されますが、小田原城籠城の成田氏長が秀吉方に内通し功を挙げたことで忍城城兵の助命を受け入れる形で結果開城することになります。
徳川家康が江戸に入封してからは松平忠吉(まつだいら・ただよし、1580~1607)が当地に入り、寛永16年(1639)以降は阿部氏が文政6年(1823)までの間在城、以降松平(旧奥平)氏が桑名から転封され明治維新を迎えるまで在藩します。
2023年8月2日追記
現地郷土博物館にて購入した「常設展示解説図録」には「成田氏の台頭」、「成田氏の築城」及び「忍城の変遷」についてそれぞれ下記のごとく記載されています。
『 「成田氏の台頭」
鎌倉幕府の記録である「吾妻鑑」や「保元物語」、「平家物語」、「太平記」などの諸書に、行田及び周辺の武蔵武士の活躍が記されており、彼らが、激しく揺れ動く歴史の担い手として西に東に活躍したことが知られています。
行田及び周辺の武蔵武士の中から、やがて成田氏が台頭し、後に忍城を築城することになります。
成田氏の祖については、菩提寺である熊谷市龍渕寺に伝わる成田系図、新群書類従に記載される成田系図をはじめ数種類ありますが、藤原氏より出ているとされます。
成田氏の文献城の初見は、保元の乱を描いた『保元物語』の中に、成田太郎の名があり、他に別府、奈良、玉井のいわゆる成田四家がそろって源義朝軍として戦っています。このことから、系図に従い、成田太郎を助広と考えれば、藤原氏から出た成田氏が騎西郡成田郷(現在の熊谷市上之)を本領として定着するのは、平安時代中頃と考えられます。
成田氏の所領を示すのは、わずかに金沢文庫文書の中の『成田某跡注文』があるのみです。これによれば成田氏の所領は、騎西郡成田郷を本領とし、幡羅郡の一部が含まれていたようです。
さらには、文治5年の源頼朝の奥州平定後、成田助綱は、陸奥国鹿角郡郡司職を得たと思われ、その結果として、信濃安保文書文保2年関東下知状にみられるように成田家資の娘に鹿角郡柴内村が所領として与えられたようです。
その後成田氏の所領については、(1)京都八坂神社文書正中2年安保行員譲状案、(2)同八坂神社文書暦応2年成田基員譲案状にみられます。(1)は、行員から基員へ(2)は基員から泰員への所領の譲状です。
この譲状をみると、かつて成田氏の本領であった騎西郡成田郷の郡司職及び箱田、平戸村の知行分が、安保氏の本領として譲与され、また、鹿角郡の所領も安保氏の所領として譲与されています。
さらには、安保基員は、譲状において成田姓を称しているように、かつての成田氏の本領成田郷を継承するとともに成田氏をそのものをも継承しています。
これらは、文保2年関東下知状において、安保行員が祖母(成田家督の娘)の所領を継承した時、あるいはそれ以前の段階で、かつての成田氏の本領成田郷を継承し、以後、基員、泰員へとかつての成田氏の所領を代々継承していたことを意味します。
このように、成田氏は、鎌倉時代の末期頃、本領の成田郷を失うようになり、かわって、成田家資の娘が安保信員に嫁した縁を持って、武蔵国加美郡安保郷を本領とする安保氏の庶子筋であった安保信員系の安保氏が、かつての成田氏の所領を建武新政、南北朝の動乱の中から獲得していったと考えられています。
成田氏の所領を継承する過程で、安保基員は、成田基員と称し、嫡子筋の安保氏から独立していったものと考えられ、以後、戦国時代を戦いぬいた成田氏は、この安保系の成田氏であったといわれます。』
『 「成田氏の築城
忍城の風景を描いたものに、永正6年(1509)に訪れた連歌師宗長が書いた「宗長日記」(東路のつと)があります。その中に
武州成田下総守顕泰亭にて
”あしかものみきは雁の常世かな”
水郷也、館のめぐり四方沼水幾重ともなくあしの
霜がれ、甘餅町四方へかけて、水鳥おほく見えわたり
たる様なるべし・・・・・
とあります。忍城が築かれた地域は、北を利根川、南は荒川にはさまれた沖積地で、利根・荒川の乱流地帯であったとともに、荒川扇状地末端よりやや東へはなれた地域であり、扇状地下を伏流としてきた荒川の水が多く自噴する地域でした。
忍城の中心部分は、こうした伏流水が寄り集まる広大な沼沢、低湿地にあり、島城に残る微高地あるいは自然堤防を巧みに利用して築城された城でした。
陸城された当時の忍城の景観を描いた古図は残されていませんが、天正年間、つまり水攻めを受けた頃の忍城については、わずかに数種残されています。その絵図を見ると、広い沼の中に点在する島状の微高地・自然堤防を巧みに結びつけ城の中核部分とし、沼の周囲に広がる深田(泥田)を天然の要害としているのがわかります。
忍城の築城時期及び築城者については、これまで一定しませんでした。
これまでの説を大別すると(1)応永年間(1394~1427)(2)文明年間(1469~86)(3)延徳2年(1490)(4)永正年間(1504~1520)に分けられます。(1)は成田龍淵寺記、妻沼聖天宮棟札写、長久寺縁記他により、成田家時築城説。(2)は新編武蔵風土記稿、北条五代記などで築城者不明。(3)は、成田記、龍淵寺成田系図他で、延徳元年着手、2年後完成。成田親泰説。(4)は、武蔵誌で、成田親泰説。等でした。また、最近では、文明年間初頃、成田顕泰築城説もあります。
従来、成田記を中心とした親泰延徳2年築城説が取られてきましたが、この説は、別府文書文明11年(1479)足利成氏書状によって否定されます。つまりこの書状によって、この段階で、忍城があり、城主が成田であったことが認められています。このことはまた、自動的に(4)の永正年間説も否定されるものです。
次に、応永年間家時築城説ですが、これも成立しがたいものがあります。つまり、忍城の中心部分はかつてのもち田(持田)郷になります。このもち田郷は、園田文書養和元年(1181)源頼朝下文により、上野国の新田義重の所領となって以来、新田氏が相伝し、寛元2年(1244)岩松氏に移り、正木文書永亨8年(1436)岩松持国本領所々注文にも武州もち田郷とあります。岩松氏からもち田郷が離れたのは、寛正2年(1461)の持国の処刑以降と考えられます。
成田郷を本領とする安保系成田氏が、もち田郷をも組み入れた忍城を築城するには、やはり、寛正2年以降何らかの恩賞によりもち田を獲得しない限り不可能であり、離散集合を繰り返した当時にあって、もち田をいつ獲得したかについては、現在資料は残されておりません。文明11年には成田氏を城主とする忍城はすでに築城されており、この間18年間の中で築城されたと考えなければならず、系図上では顕泰の代となります。』
『 城のうつりかわり
平安時代中頃以降、崎西郡成田郷を本領とする成田氏は、武蔵武士として活躍しますが、鎌倉時代末期北条氏と運命を共にします。旧成田氏の本領であった成田郷及び箱田村平戸村は、縁戚の故をもって安保行員が継承し、子の基員の代には嫡子系の安保氏から独立し成田姓を称するようになります。この安保系の成田氏が以後の成田氏長に至る系譜で続群書類従本成田系図が家時以降この安保成田氏の系譜が挿入されているといわれる由縁です。
忍城は、岩松氏からもち田郷が離れ、成田氏の所領となった時から、別府文書文明11年の足利成氏の書状以前には築城されていたとみなければなりません。
両公方・両上杉の争いから戦国時代末期の上杉謙信後北条氏との関係まで、離合集散を繰り返し戦国時代を生きぬいてきた成田氏も、豊臣秀吉の関東平定お大波の中に忍城を開城することになりました。
徳川家康の関東入国後、松平家忠が忍城整備にあたり、天正20年(1592)家康4男松平忠康(のちに忠吉と改める)忍城主となります。
天下分け目の関ヶ原の役後慶長5年(1600)忠吉が尾張清洲城へ移った後は、一時、酒井忠勝が城主となった他は、約31年間城番の置かれた城となりました。この城番の時代に忍城周辺の河川改修、農業基盤整備等が進められました。
寛永10年(1633)松平信綱が城主となり、約5年間程在城します。この間寛永12年老中になるとともに、同14年には、九州島原の乱の平定のため派遣されています。
寛永16年(1639)信綱とともに将軍家光の側近として活躍した阿部忠秋が忍城主となります。以後約184年間阿部氏の時代であり、忍城修築、城下町の整備等、阿部氏によって進められました。
文政6年(1823)急な国替えがあり、忍の阿部氏が白河城へ、白河の松平氏が桑名城へ、桑名の松平氏が忍城へと移りました。家康長女亀姫と奥平信昌との4男忠明を祖とする(奥平)松平氏は、忍移封後、異国船警備や幕末の動乱に巻き込まれ、わずか48年間余りで明治を迎えます。
明治維新の戦果をまぬがれた忍城は、明治6年頃主要な建物は全て競売に付せられ、あるいは転用され、あるいは破却されてしまい、かつての面影は全て失いました。」
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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