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享保5年(1720)下田奉行所が浦賀に移設されると浦賀奉行所に付属する所として実務面を担当する船番所が置かれます。<br /><br />ここでは江戸に入る船の関所として武器の出入や女の無断出国を取り締まるだけではなく、江戸に運ばれる商品の流通品、特に米、酒、味噌などを中心とした生活必需品をチェックして定期的に勘定奉行に報告される仕組みとなっています。<br /><br />江戸に向かう船舶の積荷改めについて実際の作業をしていたのが廻船問屋と呼ばれる人々で、下田奉行所廃止に伴い下田から移ってきたいわゆる下田問屋が主体として西浦和と東浦和の問屋も加わって従事していました。<br /><br />船番所での船改めは浦賀奉行所の重要な業務ですが、その他に現代で言えば警察署・裁判所・市役所をもあわせて担当していましたのでかなりハードな役割であったと思われます。<br /><br /><br />2022年7月17日追記<br /><br />現地説明板には次のように紹介されています。<br /><br />『 船番所跡<br /><br />18隻に入る頃から国内では背かつ物資の生産量が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌から木綿や薪までの11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計100軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。<br /><br />そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。<br /><br />その船番所があったのがこの場所です。<br />                    浦賀観光協会 』<br />

相模浦賀 浦賀奉行所出先機関で「船改め」業務の委託先である廻船問屋100軒が対応した『船番所跡』散歩

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2012/05/04 - 2012/05/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

享保5年(1720)下田奉行所が浦賀に移設されると浦賀奉行所に付属する所として実務面を担当する船番所が置かれます。

ここでは江戸に入る船の関所として武器の出入や女の無断出国を取り締まるだけではなく、江戸に運ばれる商品の流通品、特に米、酒、味噌などを中心とした生活必需品をチェックして定期的に勘定奉行に報告される仕組みとなっています。

江戸に向かう船舶の積荷改めについて実際の作業をしていたのが廻船問屋と呼ばれる人々で、下田奉行所廃止に伴い下田から移ってきたいわゆる下田問屋が主体として西浦和と東浦和の問屋も加わって従事していました。

船番所での船改めは浦賀奉行所の重要な業務ですが、その他に現代で言えば警察署・裁判所・市役所をもあわせて担当していましたのでかなりハードな役割であったと思われます。


2022年7月17日追記

現地説明板には次のように紹介されています。

『 船番所跡

18隻に入る頃から国内では背かつ物資の生産量が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸へ出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌から木綿や薪までの11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計100軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。

そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。

その船番所があったのがこの場所です。
                    浦賀観光協会 』

交通手段
私鉄 徒歩
  • 浦賀湾地図<br /><br />鋭角V字の深く入り込んだ浦賀湾は地図で見るとおり天然良港となっています。

    浦賀湾地図

    鋭角V字の深く入り込んだ浦賀湾は地図で見るとおり天然良港となっています。

  • 東浦賀を一望<br /><br />写真の中央には東叶神社が確認、その奥の山の頂上は浦賀城跡で見晴らしの良い場所となっており晴天にははるか房総半島が見渡せます。

    東浦賀を一望

    写真の中央には東叶神社が確認、その奥の山の頂上は浦賀城跡で見晴らしの良い場所となっており晴天にははるか房総半島が見渡せます。

  • 対岸の船着場<br /><br />船の到着を待っている利用客が絶えません。<br /><br />

    イチオシ

    対岸の船着場

    船の到着を待っている利用客が絶えません。

  • 現在の船着場<br /><br />住民の便のために市道の一部として東西を結ぶ「浦賀の渡船」が運航しています。利用料金は大人¥150、小中学生¥50となっています。<br />就航は7時~18時までの時間です。

    現在の船着場

    住民の便のために市道の一部として東西を結ぶ「浦賀の渡船」が運航しています。利用料金は大人¥150、小中学生¥50となっています。
    就航は7時~18時までの時間です。

  • 船番所説明板<br /><br />江戸時代には西浦賀側に奉行所設置され、奉行所付属の船番所では江戸に向かう船舶は全て積荷の検査を受ける事になっていました。

    船番所説明板

    江戸時代には西浦賀側に奉行所設置され、奉行所付属の船番所では江戸に向かう船舶は全て積荷の検査を受ける事になっていました。

  • 船番所跡説明板

    船番所跡説明板

  • 浦賀港引揚記念碑<br /><br />

    浦賀港引揚記念碑

  • 引揚げ場所説明<br /><br />江戸時代の船番所でありましたが、太平洋戦争後では南方から数十万人もの引揚者が当桟橋に帰国の第一歩を記し、思い出深い地となっています。

    引揚げ場所説明

    江戸時代の船番所でありましたが、太平洋戦争後では南方から数十万人もの引揚者が当桟橋に帰国の第一歩を記し、思い出深い地となっています。

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