三浦海岸・三崎旅行記(ブログ) 一覧に戻る
相模国三浦半島に本領を置き、鎌倉幕府創設期第一の功労者で、以降有力御家人の立場を維持し、宝治の乱(1247)では執権北条氏との闘争に敗れた三浦氏の三崎城(みうらじょう、神奈川県三浦市城山町)を訪問しました。<br /><br />築城時期は不明ですが源頼朝が伊豆で旗揚げをした治承4年(1180)以前から三浦氏は一族を含め本拠の衣笠城から半島海岸部に進出、さらに南総にも足掛りを持っていたと思われます。<br /><br />具体的には三崎にも規模はともかく既に商業活動の中心地であり、古代から上総国との往来の交通路とも相まって房総半島各地との商業活動に従事していたのではないかと考えられています。<br /><br />三崎城が歴史上脚光を浴びてきたのは15世紀後半で、扇谷上杉氏から養子として入った三浦同寸義同(みうら・どうすん・よしあつ、1451~1516)で、やがて管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の争い(長享の乱、1487~1505)では扇谷上杉氏に与し勝利の結果、鎌倉時代の三浦氏没落領地没収から悲願の三浦半島を回復、相模国中央部から三浦郡まで支配するに至り、これを機に義同は三崎城を近隣の新井城・浦賀城と共に拡張整備に努めます。<br /><br />最大の勢力である小田原北条氏が小田原から東進すると義同らは一時的には協力関係もあったものの、小田原北条氏が南武蔵での戦い(権現山の戦い、1510)で大敗戦しますと一旦武蔵攻略を取りやめ相模国の完全支配に戦略を切り替えます。<br /><br />かくして必然的に小田原北条氏による三浦半島への攻撃が活発化し、それまで岡崎城に隠居していた義同は、住吉城(現逗子市)に移り更に遮断性と防御性に優れた新井城に軍勢を集中し北条軍勢を迎えます。<br /><br />結果永正13年(1516)新井城は落城、義同は嫡男義意は兵士共々打ち出でて討死(義同は城内で自害説あり)、前後して当三浦城も小田原北条軍勢の攻撃を受けたものと思われます。明確な説明はできませんが、当城での戦いの始終が不明とすれば、戦力は全て義同が籠もる遮断性・防御性の高い新井城に集約されたため守備勢力は僅かで、たちまちの内に占拠されたのではなかったのかと自分勝手に考えてしまいます。<br /><br />当城跡は三崎港を見下ろす丘陵先端部に築かれており、前面は城ヶ島が控え極めて防御性が高くいわゆる「海城」と分類されます。加えて東側には浦賀城、西側には約2Kmに新井城がそれぞれ控えており、江戸湾ににらみを利かす上で戦略上極めて重要な地域であります。<br /><br />然しながら義同父子らは三崎城ではなく新井城にて北条軍勢を迎えたのか首をかしげるところですが、実際双方の城跡を見ると戦力的に北条軍と互角ではなく軍勢に限界があった為、防御力優先の選択の結果と考えます。また江戸城から支援し易い距離を計算しての事も念頭にあったのかも知れません。<br />                   <br />従い扇谷上杉氏の後詰(軍勢支援)を得るため持ち堪えようとの見立てがあったものの、玉縄城に拠点を置く北条軍により阻止され実現できず「もはやこれまで」という事になったのでしょうか。<br /><br /><br />2023年5月28日追記<br /><br />現場の説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「三 崎 城 跡<br /><br />この辺り一帯は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀をいく重にも組み合わせた中世の山城で、築城の年月は不詳であるが永正15年(1518年)7月11日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に滅ぶとき、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗を続けたという。<br /><br />その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円を拡げていったが、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後をまもる重要な支城であるとともに水軍の根<br />拠地でもあったといわれている。<br /><br />落城の後、北条氏はこの城に5代にわたり兵を置いたことからいまに北条山の地名が残っている。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡にともない三崎城は廃城となった。  <br />                         三 浦 市 」<br /><br />

相模三浦 宝治合戦で没落したが足利尊氏側で戦功あげ悲願の三浦半島を回復するも後期に小田原北条氏との戦いで敗れた三浦氏水軍基地の『三崎城』訪問

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2012/05/04 - 2012/05/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

相模国三浦半島に本領を置き、鎌倉幕府創設期第一の功労者で、以降有力御家人の立場を維持し、宝治の乱(1247)では執権北条氏との闘争に敗れた三浦氏の三崎城(みうらじょう、神奈川県三浦市城山町)を訪問しました。

築城時期は不明ですが源頼朝が伊豆で旗揚げをした治承4年(1180)以前から三浦氏は一族を含め本拠の衣笠城から半島海岸部に進出、さらに南総にも足掛りを持っていたと思われます。

具体的には三崎にも規模はともかく既に商業活動の中心地であり、古代から上総国との往来の交通路とも相まって房総半島各地との商業活動に従事していたのではないかと考えられています。

三崎城が歴史上脚光を浴びてきたのは15世紀後半で、扇谷上杉氏から養子として入った三浦同寸義同(みうら・どうすん・よしあつ、1451~1516)で、やがて管領山内上杉氏と扇谷上杉氏の争い(長享の乱、1487~1505)では扇谷上杉氏に与し勝利の結果、鎌倉時代の三浦氏没落領地没収から悲願の三浦半島を回復、相模国中央部から三浦郡まで支配するに至り、これを機に義同は三崎城を近隣の新井城・浦賀城と共に拡張整備に努めます。

最大の勢力である小田原北条氏が小田原から東進すると義同らは一時的には協力関係もあったものの、小田原北条氏が南武蔵での戦い(権現山の戦い、1510)で大敗戦しますと一旦武蔵攻略を取りやめ相模国の完全支配に戦略を切り替えます。

かくして必然的に小田原北条氏による三浦半島への攻撃が活発化し、それまで岡崎城に隠居していた義同は、住吉城(現逗子市)に移り更に遮断性と防御性に優れた新井城に軍勢を集中し北条軍勢を迎えます。

結果永正13年(1516)新井城は落城、義同は嫡男義意は兵士共々打ち出でて討死(義同は城内で自害説あり)、前後して当三浦城も小田原北条軍勢の攻撃を受けたものと思われます。明確な説明はできませんが、当城での戦いの始終が不明とすれば、戦力は全て義同が籠もる遮断性・防御性の高い新井城に集約されたため守備勢力は僅かで、たちまちの内に占拠されたのではなかったのかと自分勝手に考えてしまいます。

当城跡は三崎港を見下ろす丘陵先端部に築かれており、前面は城ヶ島が控え極めて防御性が高くいわゆる「海城」と分類されます。加えて東側には浦賀城、西側には約2Kmに新井城がそれぞれ控えており、江戸湾ににらみを利かす上で戦略上極めて重要な地域であります。

然しながら義同父子らは三崎城ではなく新井城にて北条軍勢を迎えたのか首をかしげるところですが、実際双方の城跡を見ると戦力的に北条軍と互角ではなく軍勢に限界があった為、防御力優先の選択の結果と考えます。また江戸城から支援し易い距離を計算しての事も念頭にあったのかも知れません。
                   
従い扇谷上杉氏の後詰(軍勢支援)を得るため持ち堪えようとの見立てがあったものの、玉縄城に拠点を置く北条軍により阻止され実現できず「もはやこれまで」という事になったのでしょうか。


2023年5月28日追記

現場の説明板には下記の通り記載されています。

「三 崎 城 跡

この辺り一帯は城山といい、古城の跡である。三崎城は海にのぞみ丘陵に地の利を得、土塁、空堀をいく重にも組み合わせた中世の山城で、築城の年月は不詳であるが永正15年(1518年)7月11日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に滅ぶとき、三崎城もまた落城した。その際囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れなお抵抗を続けたという。

その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円を拡げていったが、三崎城は三浦一族累代の居城新井城の背後をまもる重要な支城であるとともに水軍の根
拠地でもあったといわれている。

落城の後、北条氏はこの城に5代にわたり兵を置いたことからいまに北条山の地名が残っている。しかし天正18年(1590)豊臣秀吉に攻められ小田原北条氏の滅亡にともない三崎城は廃城となった。  
                         三 浦 市 」

交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
  • 三崎港周辺地図<br /><br />油壺から京急バスで三崎港下車、眼前には青い海と空が迫り、左前方高台には城ヶ島に繋がる自動車道路が見えます。<br />自分が目指す三崎城跡は海岸と反対の山手にある市役所周辺にあり、比較的急な坂道を登ってゆきます。

    三崎港周辺地図

    油壺から京急バスで三崎港下車、眼前には青い海と空が迫り、左前方高台には城ヶ島に繋がる自動車道路が見えます。
    自分が目指す三崎城跡は海岸と反対の山手にある市役所周辺にあり、比較的急な坂道を登ってゆきます。

  • 三崎港<br /><br />潮の香りがする港周辺は活気があります。三崎港右側前方には魚市場があり、海の幸を求めて観光客が多数店内に向かっています。

    三崎港

    潮の香りがする港周辺は活気があります。三崎港右側前方には魚市場があり、海の幸を求めて観光客が多数店内に向かっています。

  • 三崎城跡石碑<br /><br />三崎市役所玄関横を更に奥まで歩きますと、通りの北側に三崎中学校、通りの南側に体育館及び青少年会館がありまして周辺には土塁が一部残っていますがその他の遺構は宅地化のため何もありません。

    三崎城跡石碑

    三崎市役所玄関横を更に奥まで歩きますと、通りの北側に三崎中学校、通りの南側に体育館及び青少年会館がありまして周辺には土塁が一部残っていますがその他の遺構は宅地化のため何もありません。

  • 三崎城縄張図<br /><br />風雨のためか図面がかなり薄くなっておりはっきり見えません。

    三崎城縄張図

    風雨のためか図面がかなり薄くなっておりはっきり見えません。

  • 土塁<br /><br />三崎中学校に見られる土塁が左側に確認されます。

    土塁

    三崎中学校に見られる土塁が左側に確認されます。

  • 土塁

    土塁

  • 三崎港一部<br /><br />前面の福祉会館から三崎港を展望しますが、急峻な崖を見下ろす自然の要害は見事な光景で往時の城郭が偲ばれます。

    三崎港一部

    前面の福祉会館から三崎港を展望しますが、急峻な崖を見下ろす自然の要害は見事な光景で往時の城郭が偲ばれます。

  • 青少年会館<br /><br />この辺りが2郭で土塁もしっかりと残されています。<br /><br /><br /><br />

    青少年会館

    この辺りが2郭で土塁もしっかりと残されています。



  • 主郭跡<br /><br />体育館辺りが主郭だったそうですが今ではその遺構など全くありません。

    主郭跡

    体育館辺りが主郭だったそうですが今ではその遺構など全くありません。

  • 慰霊堂<br /><br />まだまだ土塁があります。

    慰霊堂

    まだまだ土塁があります。

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