2012/05/04 - 2012/05/04
359位(同エリア829件中)
滝山氏照さん
源頼朝の鎌倉幕府創設に大きく貢献し、幕府では三浦半島を所領とっする最大の御家人三浦氏の末裔三浦義同(みうら・よしあつ、1451ー1516)、同荒次郎義意(あらじろう・よしおき、1496ー1516)親子が小田原北条氏の攻撃に耐えて最後に戦った要害の新井城(あらいじょう、神奈川県三浦市三崎町)を訪問しました。
そもそも三浦氏は源頼義・義家親子の前九年の役で多大な貢献をし、その結果相模国守である頼義から三浦半島に土地を拝領し現在の衣笠を本拠として一族を成した豪族です。
頼朝時代には自領が鎌倉に隣接している事も幸いにして御家人として最有力な立場でありましたが、頼朝没後は合議に加わる御家人同士の反目が日常的となる中で、外戚とは言え発言力乏しい立場の北条氏は御家人同士を戦わせ勢力を削がせて幕府における優位性を築き上げていきます。
最終的には宝治元年(1247)、執権北条時頼(ほうじょう・ときより、1227ー1263)と拮抗する三浦泰村(みうら・やすむら)光村(みつむら)兄弟勢との武力対立(宝治の乱)にが起こり、ついに幕府創設以来50年経過で北条氏は宿敵を倒し初めて安定勢力となります。
上述の通り宝治の乱で三浦氏の嫡流が滅びましたが、この中で一族の行動に加担せず生き残ったのが佐原十郎義連の血を引く佐原盛連(さはら・もりつら、生誕不詳~1233)の遺児達で北条氏と縁故関係にあたるため北条氏側に立った事情があります。
宝治合戦に三浦一族が滅びますと、佐原盛連の遺児たちは三浦介に任命され、三浦宗家の家督継承が許され、遺児の中で盛時(もりとき、生没不詳)は三浦介と共に三浦家棟梁として認知されますが、幕府の待遇はかつての三浦氏のものではなく、あくまでも北条氏の一家来ままの扱いでした。
鎌倉時代末期、足利尊氏が鎌倉幕府に対し挙兵しますと、当時の三浦氏棟梁時継(ときつぐ、?~1335)は足利尊氏方について戦い、建武政権樹立後は時継は相模国及び武蔵国の地頭に任命されます。
南北朝時代になりますと三浦氏は関東の混乱にうまく立ち回り相模国守護を勝ち取りますが、鎌倉公方と管領上杉禅秀との争い(禅秀の乱)では当然ながら足利氏側に立ちますが守護職を降ろされ、扇谷上杉氏の傘下に組み込まれます。
三浦時高時代になりますと主家である扇谷上杉氏から養子として義同(よしあつ)が三浦氏家督を継ぎますが、その後時高に実子(高徳)が生まれたため不和となりいったん三浦家を出て出家し同寸(どうすん)と号します。
三浦氏内紛に乗じて明応3年(1494)、義同は祖父大森氏の支援の下新井城を攻めて時高・時海教父子を滅ぼし改めて三浦氏家督を掌握、その後家督を嫡子義意(よしおき)に譲り、自らは平塚市北部の岡崎城に移ります。
一方駿河国今川家の内紛を取りまとめた客将伊勢新九郎(いせ・しんくろう、後の北条宗瑞)は晴れて当主となった今川氏親(いまがわ・うじちか、1471~1526)より興国寺城に所領を与えられ戦国大名として目覚め、次に小田原城奪還を巡って策略により城主大森氏を駆逐し関東進出の足掛りを築きます。
当時関東における影響力は管領山内上杉氏でこれに対抗する為三浦義同と義同の出身家扇谷上杉氏と連携を求め、立河原の戦いで勝利するなど暫くは順調に進展しますがまもなく両者は対立します。
やがて相模国に於ける覇権を巡り早雲と義同との衝突は時間の問題であり、ついに永正9年(1512)早雲は挙兵し岡崎城(現平塚市)を攻めると、義同は住吉城(現逗子市)に逃れ更に新井城へ退却、嫡男義意とともに籠城する一方、扇谷上杉氏の援軍を待ちますが駆けつけた太田資康(おおたすけやす、1476~1513)軍は玉縄城(神奈川県鎌倉市城廻)に配された北条軍勢に撃退され自らは討死します。
北条軍の包囲を受け新井城への支援を期待できなくなった義同・義意父子は、強固な水軍を背景に2000名の兵士と共に抵抗を続けて約3年余戦いますが、義同は上総へ立退き再建を期す忠臣の進言をも退け1516年7月11日に自ら城門を開き最後の戦いに挑みここに450年に亘る名門三浦氏は滅亡します。
かくして、小田原北条氏は武蔵国と三浦半島の分岐点に玉縄城(現鎌倉市)を配置したことで、江戸城から支援に駆けつけた扇谷上杉氏軍を阻止撃破し、他方では三浦義同父子を滅亡させ完全に三浦半島を制圧、相模国の安定を確保すると共に本格的な武蔵国展開に向けての足固めをすることになります。
203年5月22日追記
現地に建てられた説明板には下記の通り記されています。
「 新 井 城 址
三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっています。
引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることができず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は、関東大地震による隆起で、往時の面影は薄らいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手勢で三年間籠城することができました、三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心に巡らされている空堀や土塁に往時を忍ぶことができます。
三 浦 市 」
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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京急油壺マリンパーク
京急三崎口から親子連れ満員バスにて油壺終点下車、汗をかきかき油壺マリンパークをめざします。既に駐車場は満車状況、帽子をかぶって誘導員も額に汗を噴出し車輌を臨時駐車場に案内しています。
自分は別な目的で来場、早速新井城跡を訪れるため親子連れのグル?プと別れます。(9時までにマリンパークに入場すると料金が安いとのことで離れた終点バス停から急ぎ足の親子が目立ちます)
お城巡りの立場としては、100%遺構が消えてしまい、ただただ呆然としてしまいます。マリンパ?ク開発の前段階で何か工夫ができなかったのかと思い残念です。 -
義同(よしあつ)墓所への路
義同の墓の所在地を駐車場の車輌誘導員に確認して小網代湾方面に向けて小路を下って行きます。 -
三浦義同墓
小路の途中を右折し更なる路を直進すると正面突き当たりに義同の墓が認められます。亜熱帯性と思われる樹木が義同墓所を左右から見守っています。 -
三浦義同墓・近景
墓碑には「従四位下 陸奥守道寸義同公之墓」と刻された墓石が海からの風を凌いだと思われかなり痛んでいる様子が窺えますが、義同が小田原北条氏との最後の決戦に向けた覚悟を知る事ができます。 -
イチオシ
三浦義同墓
時間の経過を感じさせる素朴で逞しい墓のあり様は、苦難に耐えた小田原北条氏との戦いに臨む姿が迫ります。どなたのか判りませんが新しく塔婆が傍らに立てられています。 -
三浦義同墓・展望
墓所の背後には樹間の向こうに小網城湾側の海岸が急涯を通して迫っています。 -
イチオシ
横堀海岸
義同の墓所を離れ、小路に戻りそのまま下りますと波緩やかな見晴らしの良い砂浜状の湾岸が視野に入ります。 -
横堀海岸
家族連れのバーべキュー姿が見受けられたりして賑やかな楽しい雰囲気がありました。 -
三浦義意(よしおき)墓所
海岸から戻り油壺マリンパーク臨時駐車場からやや離れた所に息子である義意の墓があります。 -
油壺周辺地図
小網代湾と油壺湾に挟まれ、北・西・南側涯面が切立つ、いわゆる握りこぶし状の半島部は真に敵を寄せ付けない籠城戦にふさわしい地勢となっています。 -
南側海岸ハイキングコース
油壺からいわゆる「こぶしの手首」方向に戻り、東大地震研究所への入口
の隣から南側ハイキングコースの小道に入ります
小道右手は地震研究所の敷地ですが土塁らしきものが奥に向けて続いています。 -
油壺湾
小道左手は樹間から油壺湾が青々とした姿で東西に広がっています。 -
空堀
小道の右側にある地震研究所側の土塁は途中で内側に向きを変え、新たに空堀を造っています。
地震研究所への立入は禁止されていますが、内部は明らかにされていませんので自分としては興味深い場所といえます。 -
油壺湾景色
石碑が建っている休憩所からは油壺湾の奥もしっかりと展望可能となります。
地名の由来は包囲された三浦軍将兵が討死、残る者は投身して湾一帯が地で染まり油を流したような状態になった事によるそうです。 -
油壺石碑
「かながわの景勝50選」となっています。 -
田辺大愚句碑
石碑の向こうに油壺湾が見てとれます。 -
荒井浜海岸
なだらかで静かな海岸線が印象的です。この日も大勢の観光客が訪れています。 -
油壺観光地図
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荒井浜付近
荒井浜の他所々に土塁が散見されます。
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