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ここ本瑞寺(ほんずいじ、神奈川県三浦市三崎)の寺域は三浦城跡主郭の南西海側に位置し城跡の一部に建立されている曹洞宗の寺院です。<br />             <br />当地は三浦半島衣笠を本拠とする豪族三浦氏の所領で房総との水運基地として城郭を構えていました。<br /> <br />源頼朝の配流先の伊豆挙兵には真っ先に支持を発し、鎌倉幕府創設以来頼朝の信任を得るなか譜代の御家人として重要な存在を示していました。<br /><br />この地は湾を一望する高台にあり、併せて城ヶ島がよく見える風光明媚な所で頼朝が三浦に造った桜・桃・椿の御所(別荘)の内「桜の御所」として特にお気に入りの所で、頼家・実朝ら歴々の将軍も訪れています。<br /><br />因みに桃の御所は「見桃寺」で椿の御所が「大椿寺」といわれています。<br /><br /><br /><br />2022年10月1日追記<br /><br />現地に建てられた説明板には下記のように紹介されています。<br /><br />『 桜の御所跡      (本瑞寺)<br /><br />建久の昔(1190年代)時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三崎に三つの御所を設けました。<br /><br />桜、桃、椿の御所がそれで、ここ本瑞寺は「桜の御所」のあったところです。<br /><br />すなわち、この地に多数の桜木を植え、あわせて城ヶ島の桜も望見するといった観桜の宴をしばしば催し、二代将軍頼家、三代将軍実朝もここを訪れています。<br /><br />本瑞寺はもと、海雲山(入松の浪切不動堂一帯)にありましたが、度々の類焼で、享保4年(1719年)にこの地に移りました。<br /><br />寺には、「康永3年(1344年)甲申3月」の銘がある神奈川県指定重要有形文化財の梵鐘があります。また、文政4年(1821年)7月建立の山門があり、江戸時代の木造建築としては、大変貴重です。<br /><br />なお、境内には、近代美術の先駆者、岩村透の墓及び胸像(朝倉文夫作)、彫刻家北村四海の墓及び作品があり、また、ホトトギス派の俳人、松本たかしの墓及び句碑も建てられています。    三浦市 』<br />

相模三崎  将軍頼朝が風光明媚な三崎を好み来遊時に滞在した三御所のうち桜の御所と称された『本瑞寺』散歩

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2012/05/04 - 2012/05/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

ここ本瑞寺(ほんずいじ、神奈川県三浦市三崎)の寺域は三浦城跡主郭の南西海側に位置し城跡の一部に建立されている曹洞宗の寺院です。
             
当地は三浦半島衣笠を本拠とする豪族三浦氏の所領で房総との水運基地として城郭を構えていました。
 
源頼朝の配流先の伊豆挙兵には真っ先に支持を発し、鎌倉幕府創設以来頼朝の信任を得るなか譜代の御家人として重要な存在を示していました。

この地は湾を一望する高台にあり、併せて城ヶ島がよく見える風光明媚な所で頼朝が三浦に造った桜・桃・椿の御所(別荘)の内「桜の御所」として特にお気に入りの所で、頼家・実朝ら歴々の将軍も訪れています。

因みに桃の御所は「見桃寺」で椿の御所が「大椿寺」といわれています。



2022年10月1日追記

現地に建てられた説明板には下記のように紹介されています。

『 桜の御所跡      (本瑞寺)

建久の昔(1190年代)時の将軍源頼朝は風光のすぐれた三崎に三つの御所を設けました。

桜、桃、椿の御所がそれで、ここ本瑞寺は「桜の御所」のあったところです。

すなわち、この地に多数の桜木を植え、あわせて城ヶ島の桜も望見するといった観桜の宴をしばしば催し、二代将軍頼家、三代将軍実朝もここを訪れています。

本瑞寺はもと、海雲山(入松の浪切不動堂一帯)にありましたが、度々の類焼で、享保4年(1719年)にこの地に移りました。

寺には、「康永3年(1344年)甲申3月」の銘がある神奈川県指定重要有形文化財の梵鐘があります。また、文政4年(1821年)7月建立の山門があり、江戸時代の木造建築としては、大変貴重です。

なお、境内には、近代美術の先駆者、岩村透の墓及び胸像(朝倉文夫作)、彫刻家北村四海の墓及び作品があり、また、ホトトギス派の俳人、松本たかしの墓及び句碑も建てられています。    三浦市 』

交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩

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  • 本瑞寺・山門<br /><br />訪問時は閉ざされていました。門の脇から境内に入ります。

    本瑞寺・山門

    訪問時は閉ざされていました。門の脇から境内に入ります。

  • 本瑞寺・本堂<br /><br />三崎湾の陽をいっぱい受けて本堂の青瓦がきらきら光っています。

    本瑞寺・本堂

    三崎湾の陽をいっぱい受けて本堂の青瓦がきらきら光っています。

  • 本瑞寺・城ヶ島遠望<br /><br />頼朝以下歴代の将軍たちが三浦氏が領する当別荘を訪れ、対岸城ヶ島に咲く桜と共に観桜の宴を楽しんだ事でしょう。

    イチオシ

    本瑞寺・城ヶ島遠望

    頼朝以下歴代の将軍たちが三浦氏が領する当別荘を訪れ、対岸城ヶ島に咲く桜と共に観桜の宴を楽しんだ事でしょう。

  • 本瑞寺・寺標と参道<br /><br />海岸側から本瑞寺参道を見上げます。急勾配で石段数も多く、登山に苦労します。<br />自分は三崎城跡から寺へ移動したので写真とは逆コースでした。

    本瑞寺・寺標と参道

    海岸側から本瑞寺参道を見上げます。急勾配で石段数も多く、登山に苦労します。
    自分は三崎城跡から寺へ移動したので写真とは逆コースでした。

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この旅行記へのコメント (1)

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  • 久良岐のよしさん 2016/07/24 13:35:52
    歴史認識の誤りを御指摘させて頂きます。
    ぶしつけですが、御投稿の本記事について歴史事実を誤認されておられるので御指摘させて頂きます。

    本記事内で滝山様は本瑞寺様を❝三浦家菩提寺❞とされていますが、それは事実誤認です。
    本瑞寺様は戦国時代の三浦家最後の御当主である三浦義意公の開基ではありますが、三浦義意公の菩提寺でもなければ、三浦義意公が名跡を継いだ佐原三浦家の菩提寺でもありませんし、義意公の実父である三浦道寸公の御実家である扇谷上杉家とも、ましてや鎌倉時代の三浦家本家とも全く無関係の御寺です。

    本瑞寺は戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した御寺でしが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した御寺です。移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない様です。
    御当地は戦国時代の三崎城址の一部でもあります。

    誤りを指摘するだけでは失礼なので、正しい菩提寺と関連史跡も御紹介させて頂きます。
    又、類似の誤りをされて諸神社仏閣で間違った参詣をされる方が多い様なので、これを機に小生のブログで正しい佐原三浦家と三浦本家関連の史跡の纏めも掲載し注意喚起をさせていただく事にしました。

    ※尚、以下の内容をそのまま部分的にでも掲載する場合は小生のブログへの誘導かハンネを共著として紹介する様に要求します。

    ●二伝寺…神奈川県藤沢市渡内
    三浦家の全ての直系子孫の祖先、平良分(たいらのよしふみ)公と初期御子孫の菩提寺。
    現在の二伝寺自体は北条氏時公(北条氏綱公御実弟)により曹洞宗として開基され、浄土宗大本山、鎌倉光明寺の正空和尚が開山と成って造営された寺院。
    それ以前の記録は残らないが藤沢市の蟠龍山宗賢院や伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺の礼を踏まえると、同所が古来より寺院だった可能性は有る。
    又、同所は、戦国時代に難攻不落を誇った玉縄城址の出城二伝寺砦でもあえい、秀吉の小田原征伐による戦国大名の北条家滅亡後は徳川家臣、大河内松平家の菩提寺と成った。大河内松平家は日光街道に杉並木を植林した一族。

    ●衣笠城址公園…神奈川県神奈川県横須賀市衣笠
    本家の三浦家歴代の居城。三浦本家が滅亡するまで三浦党の本拠地として機能したが、三浦家滅亡時に廃城と成った。
    石橋山合戦での源頼朝公蜂起に呼応し、三浦党は和田義盛公を陸軍大将として三浦義澄公を水軍大将として援軍を送るも大庭城を背後にして相模川を渡河出来ず間に合わず、そうこうする間に
    現地には一部分、土塁遺構と思しき連続した風化した盛土と、切岸と思しき地形が残存し、伝:本丸の広大な削平地と物見岩も現存する。
    周辺一帯には三浦家所縁(ゆかり)の神社仏閣と、廃寺史跡が現存する。


    ●大善寺…神奈川県横須賀市衣笠
    衣笠城址内に現存する鎌倉時代の三浦家の学問所の機能をした寺院。それ故(ゆえ)に山号も衣笠山と成っている。三浦家の文化醸成地の址。
    大善寺の裏手には、衣笠城本丸や物見岩と伝承する場所への入口。
    又、御当寺の周辺は石垣城では無い時代の城らしい人工的な切岸と思われる断崖地形が連続している。

    ●清雲寺…神奈川県横須賀市衣笠
    三浦家本家、分家の佐原三浦家の菩提寺。
    三浦家本家の菩提寺は本来は圓通寺だったが、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の煽りを受けて存続困難に成り廃寺と成った。その後、三浦分家の佐原三浦家の菩提寺として開基された、現在の清雲寺に明治時代に成り圓通寺の三浦本家の菩提は合祀された。

    ●満昌寺…神奈川県横須賀市衣笠
    源頼朝公への忠義第一の名将として有名な三浦義明公の菩提寺。源頼朝公によって三浦義明公の供養の為(ため)に開基された寺院。
    現在も頼朝公御手植えの躑躅(つつじ)が現存していて、頭を躑躅に突っ込むと賢く成ると伝承している。境内の三浦義明公の首塚とされる場所からは遺品が多数出土しており、事前に拝観予約すると御住職様の予定が空いていれば見学出来る。

    ●佐原城址…神奈川県横須賀市佐原
    戦国時代初期の大名、佐原三浦家の平安時代の居城。
    源義経の❝鵯越の逆落とし❞を立案した名軍師の佐原義連(さはらよしつら)公の時代からの居城。室町時代に成ると佐原家は佐原三浦家を名乗り三浦家本家と成り、居城を三浦市三崎町油壷の新井城へ転居した。
    城址は横須賀ダイヤランドテニスクラブ周辺一帯の山で宅地開発により城址遺構は確認出来ない。昭和初期まで地名にも城址の名残りが在ったが、地名の字(あざ)と小名(こな)の廃止により地名も現存せず。

    ●鐙摺城址…神奈川県三浦郡葉山町〜逗子市桜山
    平安時代末期に葉山マリーナは小浜の入江と呼ばれた湊(みなと)で、同港は三浦党の相模湾側の水軍拠点として機能していた。
    300年余りの歴史を有する有名な和食店日影茶屋の前面に鐙摺城出丸と思しき旗立山が有る。
    源平盛衰記に❝旗立山は鐙摺山の北❞と記載されている事から嘗(かつ)ての鐙摺城址の城域は、現在の日影茶屋周辺の現在は桜山と呼ばれる逗子市の山と葉山町の堀内地区一帯の山に及ぶ事が、地名と地形から推測出来る。
    源頼朝公が伊勢平家(平清盛)に対して挙兵した石橋山の合戦に、三浦党は同地の小浜から三浦義澄(よしずみ)公を大将とした水軍を派遣するが小田原市の酒匂川辺りまで達するも、救援間に合わず頼朝公は伊豆半島より海路房総半島へ敗走した。
    それを聞いた三浦義澄公は鐙摺城へ撤退。小坪辺り(住吉城か?)で畠山重忠公率いる平家軍の大軍に遭遇した三浦党との間で開戦。その際に鐙摺城址の出丸と思われる規模の旗立山に三浦党の軍旗を掲げたのが旗立山地名の由来。

    ●旗立山(鐙摺城址の出丸か?)…神奈川県三浦郡葉山町
    鐙摺城址の項目で説明した通り、平安時代の三浦家の要害の一部。
    旗立山には源頼朝の初期の通婚の妻女の父親であった伊東祐親の実父の御廟所が在る。
    伊東祐親は頼朝公と三娘の間に生まれた子、千鶴御前(頼朝公の男児と伝わるが名前の後に付く敬称が❝御前❞である事からして伊東祐親の三女本人の名だろう、子は❝千鶴御前の子❞とするべき)を見て怒り狂って家来に命じて溺死さた上に、三女は源頼朝公と離縁させて江間四朗(後の北条義時)に嫁がせてしまったとされる。この江間家四朗を北条義時と別人とする説も有るが、鎌倉幕府2代執権の北条泰時は庶長子なのに北条得宗家の嫡流に成り幕府の首相と成っている事、又、生前の頼朝公から可愛がられ初名が❝頼時❞だった事から千鶴御前と推定する歴史ファンも多いが証拠は無い。
    同地に伊東祐親の供養塚を築いたのは三浦義澄公で、伊東祐親の長女は三浦義澄公の正妻だった縁に由(よ)る。
    ※仮に北条泰時公が伊藤祐親三女と頼朝公の実子だとしたら三浦一族が源頼家公・実朝公の将軍家御兄弟を見殺しにしたり、和田合戦の際に北条義時・北条泰時親子に加担した事は伊東家の血筋を優先した利害関係に基づくと説明出来る為、小生も北条泰時公の頼朝公御落胤説を否定出来ない。

    ●怒田城址…神奈川県横須賀市吉井
    三浦一族で三浦長者と呼ばれた初代鎌倉幕府侍所別当職の和田義盛公の築城した和田家初期の居城で三浦水軍の最重要拠点だった。
    同地は縄文時代〜平安時代末期の城として活用された時期まで、半島で城址は浪に現れていた入江を抱える港湾の城だった。
    現在も城址の麓(ふもと)には❝船倉❞の地名が残り、衣笠〜佐原〜怒田各城址の下を流れる川は嘗ての湾の名残。
    源頼朝公の石橋山合戦での蜂起に援兵を送ろうとしたが間に合わず参戦出来なかった三浦家は、畠山重忠公率いる伊勢平家(平清盛)方の大軍に攻められる。その際に、主城の衣笠城より堅固な和田家が水軍と共に管理する怒田城への撤退を族長の三浦義明公に進言するが却下された。
    しかし、義明公が衣笠城へ敵勢を引き付けた事で三浦軍は房総半島へ逃げる事が出来て兵力温存に成功し、それによって源頼朝公の関東制覇が成功する事に繋がった。


    ●岡崎城址…神奈川県伊勢原市岡崎〜平塚市岡崎
    鎌倉時代に三浦義明公の御実弟で猛将名高い岡崎義実(よしざね)公によって築城された。
    縄張(なわばり=城の設計)は典型的な扇谷上杉家流の群郭式縄張と沼田に囲まれた平山城。周囲は縄文時代〜弥生時代の古代に海だったので沼地だった。
    室町時代には三浦家を相続した佐原三浦家の城と成った。
    戦国時代初期に小田原を攻略した北条早雲・氏綱親子によって攻められるが、三浦道寸(どうすん)公が籠城する岡崎城は守り堅く、攻略に10年を要した。
    佐原三浦家は相模守護として相模国内の大半に領地を保持したが三浦時高が当主の代に犬懸(いぬかけ)上杉家の上杉禅宗が鎌倉公方(くぼう=将軍)の足利持氏(もちうじ)公に反抗して引き起こした❝上杉禅宗の乱❞の際に、三浦時高は犬懸上杉家を支持した為に戦後、鎌倉公方によって相模守護職を解任された。
    永享の乱の際に最初は足利持氏(もちうじ)公に属したが、後に相模守護を解任された経緯も有って裏切り、鎌倉を占領し山内上杉勢と室町幕府勢を誘引した。
    時高は無嗣(むし=男児がいない)の為、戦後、元鎌倉公方家臣の扇谷(おおぎがやつ)上杉家の上杉氏定の孫の三浦高救(みうらたかもと)公が扇谷上杉家から三浦家に養子に入り継いだ。三浦高救公の実子が三浦道寸(どうすん)公。
    三浦道寸公の嫡子が明治時代に流行した架空時代劇小説❝桜の御所❞の主人公でヒロイン❝小桜姫❞の恋人役の❝三浦 荒次郎 義意(よしおき)❞公。
    三浦高救公は実家の扇谷上杉家当主が討死した際に、三浦家を子の義意公に相続せ御自身は三浦の家名を捨てて実家の扇谷上杉に復姓しようとするが、養父の三浦の所領が扇谷上杉家の傘下に入る事に成ってしまう事から三浦時高の怒りを買って、三浦高救公・道寸公親子は三浦家から追放される。
    その後、道寸公は、この岡崎城で挙兵し三浦家に復帰し三浦時高は死亡した。その後、岡崎城は小田原城の北条家によって落城させられる。

    ●扇谷山(せんこくさん)海蔵寺…神奈川県鎌倉市扇谷
    臨済宗の寺院で鎌倉公方足利持氏によって命を受けた、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定公によって開基された。
    井戸を掘ると海水が湧いてしまう事の有る鎌倉市街において水質の良さで十本指に入る事から鎌倉十井(じっせい)の一つと呼ばれた❝底抜の井❞や、❝十六の井❞と呼ばれる神秘的な洞窟の中の井戸を寺領に持つ寺院。

    ●網代山海蔵寺…三浦市三崎町小網代
    曹洞宗の寺院で三浦義同(よしあつ)道寸公によって開基された寺院で、三浦道寸公、三浦荒次郎義意公の菩提寺。
    新井城址に当たる油壷マリンパーク近くに三浦道寸公と三浦義意公の御廟所を所有する寺院でもある。
    新井城址北側の港である小網代湾の直ぐ傍に在る事から、往時は新井城址の北の鬼門鎮護の寺院だった事も推測出来る。
    寺名から三浦道寸公の実家である扇谷上杉家が開基した臨済宗の鎌倉市に所在する扇谷山海蔵寺と無関係では無いと推測出来る。
    本来、扇谷上杉家も佐原三浦家も臨済宗の信徒だが、この海蔵寺が曹洞宗なのは曹洞宗の信徒であった伊勢氏流北条家の伊勢宗瑞(北条早雲)公が道寸公・義意の供養として御茶湯領を保護した際に改宗して曹洞宗と成った可能性が有る。
    ※一般参詣不可、非公開。
    明治時代の小説❝桜の御所❞の小桜姫伝説を流布した自称霊能者とカルト団体のせいで、道寸公と義意公に敬意も無ければ仏教に対する信仰心も無い観光客が本堂も拝まずに帰ったり、建築物だけ写真を撮って帰る等の乱入が相次いだ為の処置。
    ※私見だが歴史偉人の菩提寺としては当然の対応で、カルト団体と自称霊能者と商業利用しようとした連中に問題が有るので御住職の御心痛は理解出来る。

    ●本瑞寺…神奈川県三浦市三崎町
    戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した寺院。その後、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転した。
    移転先に選ばれたのが源頼朝公の❝桜の御所❞と言う別荘地だった現在地だった事もあり、鎌倉時代の三浦家以来の御寺と勘違いされる方も少なくない。
    御当地は戦国時代の北条氏規の居城の三崎城址の一部だった。昭和初期まで土塁も一部残存していた事が三崎町公認の三崎城の縄張図から確認出来る。

    ●小桜姫について
    明治時代に村井弦斎と言う作家が❝都新聞=現在の東京新聞❞に連続架空時代劇小説として掲載した❝桜の御所❞と言う名前の小説の登場人物で架空の人物。
    その小説のヒロインとして実在した人物を元にヒロインとして小桜姫を創作し搭乗させたのが始まり。
    それ以前に全ての歴史遺物に❝小桜姫❞の人物名は登場しない。又、一般的に歴史上、名前の記録が残る女性は極少数。小桜姫に関しては完全に明治時代以降に登場する名前。
    小説では小桜姫は金沢北条(かねさわほうじょう)家の姫とされる。
    しかし御夫君の三浦義意(よしおき)公には、房総半島の小大名の真里谷武田家から来た正妻と側室がいた事実しか無い。その姫様の内、側室だった方がモデルに成っていると推測出来る。
    小説❝桜の御所❞のシナリオは❝真里谷の姫の最後の悲話❞に、義意公の時代よりも約200年前に実在し鎌倉幕府滅亡と同時に❝既に滅亡した金沢北条家❞と、義意公の死後に三浦家の一族が活躍した❝鶴岡八幡宮合戦の話❞を混ぜて脚色した創作小説で史実では無い。しかし新井城落城と主人公三浦義意公の存在が実在した為に、明治時代に流行小説の舞台として観光客向けに小説内の小桜姫の物語や実際の歴史伝承が混同され、明治時代に小説のロケ地と思われる場所が観光名所と成り、自称:小桜姫神社の舞台等が日本中に登場した。実際の小桜姫神社の舞台は真里谷家の姫の悲話の有る諸磯神明社の境内地と三浦家旧臣の御子孫と地元民も伝えている。
    後世、歴史に疎(うと)い人間が、小桜姫の存在や小説ロケ地巡礼地を歴史事実上の境内やと誤認した。
    小桜姫を金沢北条氏としたのは、時代の違う家をヒロインの実家にする事で架空小説であり歴史小説では無い事を明確に読者に理解させる意図が窺える。にも拘(かかわ)らず、歴史に無学な一部の自称霊能者が事実と誤認して、平成に入ってから紹介してしまったので多くの縁結びを祈願する女性に誤解を与える事に成った。
    しかし実在した三浦義意公の側室は実在した真里谷武田家の姫がいたので、小桜姫を真里谷家の姫とするならば御利益は否定出来ない。
    但し、自称霊能者が小桜姫としているのは架空の戦国時代の金沢北条家の姫であって、真里谷家の姫では無い。仮に真里谷家の姫で有るならば、明治時代以前に小桜姫と言う名前は伝承していない。
    更に自称霊能者やカルトや商業利用を目論む輩等によって小桜姫神社と誤って違う弁財天を祀る洞窟を紹介しているケースが有るので、本記事内で区別して指摘しておく。

    ●小桜姫の名の由来について
    村井弦斎が小説❝桜の御所❞を執筆した場所が、現在の三浦市三崎町1丁目に所在する本瑞寺だった。御当寺に滞在して書き上げた。
    本瑞寺は平安末期〜鎌倉時代に征夷大将軍の源頼朝公が桜の花見の為(ため)にに築いた別荘❝桜の御所❞跡地。往時は境内地と対岸の城ヶ島に多くの桜が植林されていたと伝承する。
    本瑞寺は小説で小桜姫の夫の三浦義意(よしおき)公が、歴史史実として戦国時代初期に三崎町三崎漁港の入舩(いりふね)地区に造営した御寺だが、江戸時代の三崎町の大火で享保4年(1719年)に現在地へ移転したのが現在の本瑞寺。その義意公の事績と、源頼朝公時代の桜の御所のイメージが小説に盛り込まれた。

    ●小桜姫の御主人、三浦義意公と佐原三浦家の歴史事実について
    三浦義意(よしおき)公が継いだ佐原三浦家は、平安時代末期〜鎌倉時代の有力武士の三浦家の分家に当たる家系で、鎌倉時代に本家が滅亡した後に佐原三浦家が名跡を継ぎ、室町時代に鎌倉公方の有力家臣として活躍した家。
    但(ただ)し、三浦義意公の実父の三浦義同(よしあつ)入道(にゅうどう:僧籍に入る事)道寸(どうすん)公は、鎌倉公方の家老の扇谷(おおぎがやつ)上杉家から、佐原三浦家へ戦国時代初期に養子に入った実在した人物。
    関東に於(お)いて韮山城城の伊勢宗瑞(北条早雲)公、江戸城の太田道灌公と並び称された名将が三浦道寸公。
    佐原三浦家と伊勢(北条)家は、扇谷上杉家が山内上杉家と和議してしまった事によって伊勢(北条)家と古河公方家(こがくぼうけ=鎌倉公方足利持氏公の子孫)の外交的な問題で対立するまで扇谷上杉家と古河公方家を支えた盟友だった。
    やがて古河公方家―山内上杉家連合の成立により孤立した伊勢(北条)家は独立し北条家を名乗り関東の領地の支配権の正当性を主張して大森藤頼を攻め小田原城を奪取する。すると三浦道寸公は実母が大森藤頼の実父大森氏頼の娘であり大森藤頼は義兄弟に当たる為に、三浦家はやむなく伊勢家と対立するしか無く成る。
    ここに岡崎城に大森家を匿(かくま)った三浦家と、伊勢家の戦端が開かれ、以後、断続的に10年に及ぶ岡崎城の攻防が繰り広げられた。
    その後、岡崎城が落城すると、瞬く間に北条家は藤沢市の扇谷上杉家の初期の居城だった大庭城、逗子市の三浦家の住吉城を攻め落として、新井城に迫り、新井城では名将三浦義意公の奮戦と指揮により日本最長の約4年間の籠城戦を展開した後に佐原三浦家は滅亡した。
    しかし房総半島の佐原三浦家分家の正木家が戦国時代に小弓公方足利義明・里見義豊と結び逆襲し、三浦半島を一時取返し鎌倉まで攻め込んだ鶴岡八幡宮合戦を起こした。しかし里見義豊が源頼朝公以来の武家の八幡信仰の総本社格であった鶴岡八幡宮と鎌倉市街で放火の上乱暴狼藉を働いてしまった為に支配するに至らず、寧(むし)ろ北条氏綱による鶴岡八幡宮再建事業が行われるに至って北条家による相模国支配の正当性が確立されて、三浦家残党の正木家は三浦家の故地に復帰する機会を逸してしまった。
    ※横浜市磯子区域にも鎌倉以来の三浦家の一族である平子家(ひらこ/たいらこ)がいたが、小生は平子家も鶴岡八幡宮合戦で正木家に呼応して、後に北条家によって駆逐されたと推測している。

    以上、長文にて失礼致しますが、小生の些末な目で得た知識と、武将達の御子孫達や郷土史家の皆様を訪ねて御教示頂いた事柄で御座います。

    乱筆失礼 久良岐のよし

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