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享保5年(1720)伊豆国下田から移設された浦賀奉行所(うらがぶぎょうしよ、神奈川県横須賀市西浦賀)は京急浦賀駅下車徒歩約20分の西浦賀の地にあります。<br /><br />現在は企業の社宅となっており遺構らしきものは周辺とを分ける石垣の他は何もなく、跡地を知らせる標柱、案内板が建っているだけです。<br /><br />当時の浦賀奉行所の規模は東西86m、南北75mの敷地で、奉行所や奉行の館、長屋、砲術練習場などが配置されていたそうです。<br />また奉行所前の海岸には番所が配置され、当地に移り住んだ廻船問屋たちが奉行所の指示で船の江戸湾に向かう積荷検査をする事になっていました。<br /><br />19世紀に入り外国船が頻繁に日本周辺に来航し、その対応が浦賀奉行所業務の主軸となり、具体的には幕府老中直属の支配の下、とりわけ外国との交渉の窓口として対応する事になります。<br /><br />特筆すべきは嘉永6年(1853)6月3日、アメリカペリー艦隊が来航し浦賀港沖に停泊、幕府高官との面談を求める場面であります。<br /><br />浦賀奉行所では浦賀奉行と称して与力の香山栄左衛門(かやま・えいざえもん、1821~1877)が応対し、交渉結果ぺリー司令官要求を受け入れ将軍宛の大統領親書を日本側全権として浦賀奉行・戸田氏栄伊豆守(とだ・うじよし・いずのかみ、1799~1858)並びに井戸弘道石見守(いど・ひろみち・いわみのかみ、生年不詳~1855)の両名が久里浜にて接受することになります。<br /><br />大統領親書の開国通商を求めますが幕府は回答を1年猶予を求めたため、翌年再度来航回答を迫ります。<br /><br />約1ヶ月に亘る交渉の結果全12ヶ条からなる日米和親条約締結に至り、伊豆国下田に交渉場所を移し、和親条約の細目を定めた下田条約の締結を行い、これによりペリー艦隊は下田を離れます。<br /><br />やがて日米修好条約締結を機に、安政の大獄、桜田門外の変へと目まぐるしく展開、ついに慶応3年(1867)の大政奉還により幕府の終焉を迎え翌年新政府発足により浦賀奉行は廃止されます。<br /><br /><br />2022年7月17日追記<br /><br />フェンス前に建てられた説明板には下記のごとく記載されています。<br /><br />『 浦賀奉行所跡<br /><br />奉行所は、享保5年(1720)に伊豆下田から浦賀に移されました。業務は「船改め」をはじめ、地方役所、警察、裁判所、海難救助など広範囲にわたりました。<br /><br />異国船が姿を見せるようになると、江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになり、その格は、長崎奉行所に次ぐものとなりました。<br /><br />敷地は東西86メートル、南北75メートルの広さで、現在は掘割の石垣と正門付近の石橋の一部を残すのみとなりました。』<br />

相模浦賀 伊豆国下田よりその機能を移設しペリー来航による開国の地で造船業で発展した『浦賀奉行所跡』散歩

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2012/05/04 - 2012/05/04

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滝山氏照

滝山氏照さん

享保5年(1720)伊豆国下田から移設された浦賀奉行所(うらがぶぎょうしよ、神奈川県横須賀市西浦賀)は京急浦賀駅下車徒歩約20分の西浦賀の地にあります。

現在は企業の社宅となっており遺構らしきものは周辺とを分ける石垣の他は何もなく、跡地を知らせる標柱、案内板が建っているだけです。

当時の浦賀奉行所の規模は東西86m、南北75mの敷地で、奉行所や奉行の館、長屋、砲術練習場などが配置されていたそうです。
また奉行所前の海岸には番所が配置され、当地に移り住んだ廻船問屋たちが奉行所の指示で船の江戸湾に向かう積荷検査をする事になっていました。

19世紀に入り外国船が頻繁に日本周辺に来航し、その対応が浦賀奉行所業務の主軸となり、具体的には幕府老中直属の支配の下、とりわけ外国との交渉の窓口として対応する事になります。

特筆すべきは嘉永6年(1853)6月3日、アメリカペリー艦隊が来航し浦賀港沖に停泊、幕府高官との面談を求める場面であります。

浦賀奉行所では浦賀奉行と称して与力の香山栄左衛門(かやま・えいざえもん、1821~1877)が応対し、交渉結果ぺリー司令官要求を受け入れ将軍宛の大統領親書を日本側全権として浦賀奉行・戸田氏栄伊豆守(とだ・うじよし・いずのかみ、1799~1858)並びに井戸弘道石見守(いど・ひろみち・いわみのかみ、生年不詳~1855)の両名が久里浜にて接受することになります。

大統領親書の開国通商を求めますが幕府は回答を1年猶予を求めたため、翌年再度来航回答を迫ります。

約1ヶ月に亘る交渉の結果全12ヶ条からなる日米和親条約締結に至り、伊豆国下田に交渉場所を移し、和親条約の細目を定めた下田条約の締結を行い、これによりペリー艦隊は下田を離れます。

やがて日米修好条約締結を機に、安政の大獄、桜田門外の変へと目まぐるしく展開、ついに慶応3年(1867)の大政奉還により幕府の終焉を迎え翌年新政府発足により浦賀奉行は廃止されます。


2022年7月17日追記

フェンス前に建てられた説明板には下記のごとく記載されています。

『 浦賀奉行所跡

奉行所は、享保5年(1720)に伊豆下田から浦賀に移されました。業務は「船改め」をはじめ、地方役所、警察、裁判所、海難救助など広範囲にわたりました。

異国船が姿を見せるようになると、江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになり、その格は、長崎奉行所に次ぐものとなりました。

敷地は東西86メートル、南北75メートルの広さで、現在は掘割の石垣と正門付近の石橋の一部を残すのみとなりました。』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 浦賀奉行所跡案内板

    浦賀奉行所跡案内板

  • 浦賀奉行所跡標柱<br /><br />奉行所には与力10名、同心50名が勤務していました。尚奉行については天保15年(1844)〜文久2年(1862)は2名制(1名は浦賀奉行所、他の1名は江戸役所にて幕府との連絡役)で初代から53名の旗本が従事しており、開国前後の安政年間では長崎奉行職よりも上席の地位として待遇されています。<br /><br /><br /><br />

    浦賀奉行所跡標柱

    奉行所には与力10名、同心50名が勤務していました。尚奉行については天保15年(1844)〜文久2年(1862)は2名制(1名は浦賀奉行所、他の1名は江戸役所にて幕府との連絡役)で初代から53名の旗本が従事しており、開国前後の安政年間では長崎奉行職よりも上席の地位として待遇されています。



  • 浦賀奉行所正面<br /><br />奉行所正面(南側)の堀の石垣により区分けがされています。当時は幅が広くそして深い水堀だったのでしょうか。

    浦賀奉行所正面

    奉行所正面(南側)の堀の石垣により区分けがされています。当時は幅が広くそして深い水堀だったのでしょうか。

  • 浦賀奉行所東<br /><br />奉行所東側の堀の石垣により区分けがされています。<br /><br />

    浦賀奉行所東

    奉行所東側の堀の石垣により区分けがされています。

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