2012/10/06 - 2012/10/08
707位(同エリア1468件中)
倫清堂さん
今年は夏がいつまでも居座っていて、秋の訪れを必死になって妨げているようです。
さすがに出発地の仙台は、朝方はワイシャツ一枚では寒かったですが、目的地の大阪では少し歩くと汗ばむような陽気でした。
大阪での研修会を終えてすぐに京都に向かい、別な団体の研修会に参加。
京都の夜だけは少し雨に当たってしまいました。
京都の研修会はホテル本能寺会館で行われ、宿泊もできました。
事前にホテルを検索した時は、京都市内で低価格のホテルは全て満室でしたが、この研修会のおかげで京都に泊まることができました。
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夜が明けると天気は回復していました。
本能寺会館の最寄りのバス停から京都駅へ向かいます。
同じバス停なのに乗り場が2箇所あり、目的のバスが目の前を通過して行ってしまった時は焦りましたが、走って追いかけ乗車。
京都から琵琶湖線で膳所駅に向かい、京阪線に乗り換えて坂本駅を目指します。
膳所とは、なんとも京風の趣ある名前ですが、住所は大津市にあるそうです。
滋賀県内では最古の駅とのこと。
乗り換えた京阪石山本線も路面電車のような軌道路線で、このような風情は関東から北では絶対に味わえないものです。
そして、山伏の格好をした修行者や、将来お坊さんになる比叡山高校の学生たちなど、これまた見慣れない人たちが乗車して来ました。
以前に訪れたことのある近江神宮などを通過し、京都から1時間ほどで目的地の坂本駅に到着しました。
駅前広場のデザインに石垣を利用しているのは、穴太積み発祥の街なればこそ。
これから向かう日吉大社への参道は緩やかな上り坂ですが、道の両側には立派な石垣を備えた建物が並んでいます。
坂本の石垣を見て詠む
形(かた)問はずいはほ重ぬるあなふ積み
国守(も)る民もかくあるべきや -
10分も歩くと、境内との境界を示す赤い鳥居が見えて来ます。
その奥に見えるこんもりとした山が八王子山で、今日は奥宮が鎮座するこの山に登ることまで決意して来ました。 -
鳥居の先に、求法寺の走井堂。
神仏習合時代の名残でしょうか、神社の境内にお寺があります。
もともとは第4世天台座主安恵和尚が麓で暮らすための建物でしたが、第18世座主慈恵大師が比叡山に初めて登ることを決意して休憩したことから、求法寺と名付けられました。
御本尊は大師自作の元三大師木像。
元三大師とは慈恵大師良源大僧正ご本人のことで、観世音菩薩の化身として信仰を集めています。 -
イチオシ
ここから先へ進むためには、受付で入山料300円を納める必要がありますが、朝早いためか受付の小屋にひと気はありません。
求法寺で掃除をしていた女性に訪ねてみると、そのままお進み下さいと言われましたが、なんとも気持ちが許さないので、受付の窓の前に300円を置いて入りました。
小銭がなかったら、そのまま進んでしまったかも知れません。
かつてはここで禊をしたと思われる大宮川にかかる3つの石橋は、日吉三橋と呼ばれ、真ん中の走井橋には杉の巨木から伸びた枝がまるで像の鼻のように垂れ下がっています。
大宮橋を渡って先へ進むと、独特の形をした山王鳥居が目の前に現れました。
神道と仏教の教義が合わさった結果、このような形になったと言われています。
それにしても現し世とはかけ離れた聖域への入り口が開いている風景を前にすると、ごく自然に畏怖の精神が身体の底から湧いてくるような感覚になります。
この山王鳥居はちょうど東西に向かうように立てられており、東を向いて東の神々を、西を向いては西の神々を、それぞれ拝めるようになっているとのことです。日吉大社 寺・神社・教会
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右手に檻のようなものが見えたので近寄ってみると、猿が飼育されていました。
日吉大社の神のお遣いは猿。
物としては檻ですが、神社ではこれを神猿舎としています。
なぜ猿が神のお遣いとされたかには諸説あり、鎌倉時代に成立した『耀天記』には、神という漢字は申(さる)が示すと分解でき、神が現れる時には猿の姿を借りて現れるとの解釈が書かれています。 -
御朱印を押してもらうために社務所へ行くと、まだ準備が整っていないとのことで、西本宮の授与所へ一緒に来てほしいと案内されました。
神主さんは、日曜なので遅くなってしまったと言っていましたが、日曜だからそこ早めに開けておくものだと思っていたので、少し不思議でした。
西本宮の楼門は天正14年頃の造営と考えられ、現在は重要文化財に指定されています。
見上げると、屋根の四方には猿の彫刻があります。 -
日吉大社の御朱印は全8種。
新しい御朱印帳とともにお願いすると、日付だけ入れればよいように準備されているものを見せられました。
これから参拝客が増える時期を迎えるため、お客さんを待たせないための神社側の配慮なのです。
日付を入れてもらう間に、西本宮を参拝しました。
手前にある拝殿は柱だけで壁が無く、神楽殿のような造りだと思いました。
多くの神社では拝殿の手前で参拝するのですが、日吉大社では拝殿の奥の本殿まで進むことができます。
西本殿は国宝に指定され、楼門や拝殿と同じく天正年間の造営です。
日吉大社も織田信長公による比叡山焼き討ちで灰燼に帰してしまいましたが、いち早く復興したのがここ西本宮です。
建築様式は焼失前を忠実に再現し、正面だけでなく両側にも庇がつく日吉造りです。
御祭神は大己貴神。 -
新しい御朱印帳を受け取り(直接押してもらえなかったものを貼りつける分を別にすると、8冊目となりました)境内の最も西側に鎮座する西本宮から、東へ向けて順に参拝します。
宇佐宮は西本宮の東隣に鎮座。
慶長3年の造営で、東西両本宮と同じ日吉造り。
床下には大きな岩があり、かつて磐座信仰があったことを思わせます。
御祭神は田心姫神。 -
更に東隣には白山宮。
宇佐宮と同じ慶長3年の造立ですが、日吉造りではありません。
白山宮の本殿は開かずの御殿とされ、祭礼において開扉されず、社殿の前でお供え物が捧げられることになっています。
御祭神は菊理姫神。
以上三社は日吉大社の歴史の中では新しい神様のグループに分けられ、主に国家を守るために勧請された経緯があります。 -
東本宮へ向かう途中で石碑を発見。
新田義貞公戦勝祈願の碑でした。
宮方最強の武将である大楠公の討死後、足利軍は勢力を伸ばし、後醍醐天皇はついに足利尊氏との和睦を受け入れることになります。
その条件として足利が提示したのが、新田義貞公との縁切りでした。
後醍醐帝をはじめとする宮人たちは義貞公には伝えず、籠っていた比叡山を密かに抜け出そうとしますが、これを察知した新田家臣の堀口貞満が自分たちを斬ってから都へ還幸されるよう奏上すると、後醍醐天皇は恒良親王に譲位し、尊良親王とともに義貞公に預けられ、北陸へ落ち延びて再起の兵を集めるよう命じました。
義貞公は日吉大社を参拝し、出征遠路の無事と朝敵覆滅を祈願して、銘刀「鬼切」を奉納し、僅かな手兵とともに冬の北陸へと旅立って行ったのでした。 -
東本宮の楼門が見えて来ました。
楼門の造営時期については、標識を見落としてしまいましたが、本殿と同じ文禄4年ではないかと思います。 -
国宝の東本宮の本殿は修復工事中でした。
拝殿には二基の神輿が置かれていましたが、神輿収蔵館にあった七基が山王祭で渡御する神輿であり、こちらはどこから持ってきた神輿かは分かりません。 -
修復中の本殿の周りに組まれた足場に登り、工事の様子を見ることができます。
職人さんの作業には相当な集中力が求められるため、話しかけるのはもちろん、写真や動画の撮影も禁止されています。
国宝の本殿がどのようにして造られるのか、こうして公開してくれることは非常にありがたいことだと思い、足音をしのばせながら足場を歩きました。
昔から使われている木材はかなり傷んでいるようで、そこに新しい木材が補強するように組まれています。
日吉造りの屋根の、美しい勾配と複雑な庇の付き方が、骨組みの様子からもはっきり分かります。
工事現場から離れた場所には、桧皮葺の屋根の構造を説明する展示物が置かれていました。
東本宮の御祭神は、山を司る大山咋神。 -
イチオシ
本殿に向かって左側には、樹下宮が鎮座しています。
御祭神は鴨玉依姫神。
床下の下殿には、霊泉が湧いているとのこと。
樹下宮に限らず日吉大社の本殿には、それぞれ床下に下殿があり、明治になって行われた神仏分離までは仏像が安置され、仏事が営まれていました。
また、東本宮の本殿と拝殿を結んだ線は、樹下宮の両者を結んだ線と垂直となっており、それぞれ並行に並ぶ西本宮のグループとはこの意味でも対称をなしています。 -
境内に見慣れぬ種類の樹木がありました。
これは多羅葉の木と呼ばれ、肉厚の葉の裏側を尖ったもので傷つけると書いた字が黒く残ることから、葉書として用いられるようになったものです。
東本宮本殿の改修は来年平成25年に竣工予定とのこと。
平成25年は、伊勢神宮と出雲大社の式年遷宮が重なる珍しい年ですが、その上日吉大社までが新しくなるとのことで、特別な何かが起こる年なのかも知れません。 -
これから、いよいよ八王子山への登山。
神主さんの話では、普通に歩くと片道30分、健脚の人なら20分ほどで奥宮に到着できるとのこと。
足に自信はあるのですが、最近心臓には自信がなくなって来たので、30分で登ろうと自分に言い聞かせます。
その上り口には、一段一段が膝くらいまである石段があって、両側に奥宮の遥拝所があります。
急ぐ旅ならここで遥拝して済ませるのですが、幸い今回は時間に余裕があります。
一段ずつ、足元を確かめるようなつもりで登り始めたのでした。 -
いざ前へ進むとなぜか足取りは早くなってしまうのは、せっかちな性格からなのでしょうか。
それとも、一度立ち止まると次に歩み出すのがつらくなるからでしょうか。
八王子山は標高381メートルしかありませんが、そこに辿り着くまでの道のりはたったの1キロしかなく、きつい傾斜が続いているのです。 -
もうすぐ奥宮という所で、また石段が現れました。
遠くから見ると、まるで目の前に壁が出来てしまったような風景でした。
その石段を越えると、ようやく奥宮の社殿が見えて来ます。
向かって右が牛尾宮、左が三宮宮。
御祭神はそれぞれ大山咋神荒魂と鴨玉依神姫荒魂です。
社殿は拝殿と本殿が一体となっている懸造りで、日本の舞台建築のルーツと言われています。
ここまで登るだけでも一苦労なのに、一枚一枚が巨大な岩を石段に組み、その更に上にこのような複雑で大規模な建築物を建ててしまった当時の人たちは、一体どのような超人だったのでしょうか。 -
参道の石段は牛尾宮と三宮宮の間を少しだけ続き、中央にそびえる金大巌の手前で終わっていました。
金大巌は、神が降り立つ磐座として古代から信仰されていたと考えられます。
ここで行き止まりのように見えますが、先ほどの神主さんが金大巌から先に行くと琵琶湖がよく見えると言っていたのを思い出しました。
よく見ると岩の右側に細い道があり、先へ進めると言えなくもありません。
だめなら引き返せばよいことだし、少しお邪魔することを神様にお詫びして、先へ進んでみることにしました。
確かに道のようになってはいますが、周囲に立っている木に掴まって歩かないと危険なほど、険しい山道となっています。 -
イチオシ
そして、ちょうど社殿の屋根より少し高い位置まで登った時、目の前になみなみと水を湛えた琵琶湖の眺めが出現したのでした。
神様より高い位置に登ってしまったという罪悪感はありましたが、神々しいまでに光を放つ琵琶湖の眺めは、ここにも神がおられることを実感するのに充分でした。
その時、後方でガサガサと木が揺れる音。
熊が現れたらおしまいだと思い一瞬で振り向くと、なんとそこに登山リュックを背負った一人の中年男性の姿。
ここは散歩道だと言って、先ほど苦労して登って来た山道をひょいひょいと下って行ってしまいました。
牛尾山に登りて詠む
やま神の御面(みおも)うつせるかがみなり
あふみのみなもくもりなければ -
登山のおじさんほど足軽には歩けませんでしたが、下山中も特に事故はなく、日吉大社を後にしました。
参拝客も徐々に増えて来ているようで、ちょうどよい時間に来たと安堵しました。
次に滋賀院門跡に向かいます。
途中、やはり穴太積みの石垣の上に年代物の建物が建っているのを発見。
比叡山の里坊でしょうか。
厳しい修行に耐えたお坊さんと云えども、やはり一定の年齢を超えると身体は弱り、山の上での生活は出来なくなります。
そのような人たちは、山を下りて里坊での生活に移ることになるため、最盛期には100を超える里坊が立ち並んでいたということです。 -
その里坊の中でも最も格が高いのが、これから目指す滋賀院です。
徳川家康公の側近であった天海大僧正が、後陽成天皇から京都の御所の高閣を下賜され、元和元年に移築しました。
まずはその天海大僧正の廟所である慈眼堂をお参りします。
天台宗の僧であった天海は、家康・秀忠・家光と3代の将軍に仕え、信長公によって焼かれた比叡山の復興に尽力しました。 -
現代の建物があったので確認すると、天台宗務庁でした。
天台宗を開いた最澄は、近江国国分寺で出家し、比叡山で修業をするなど、もともとこの地域とは深い関わりを持っていました。
第18次遣唐使として、空海とともに入唐。
天台山に登って天台教学を学び、帰国後に比叡山延暦寺を開いて天台宗の開祖となったのでした。
最澄の没後、通訳のために唐に同行した門弟義真が天台宗初代座主に就任。
その後、円仁や良源、天海など、天台宗からは優れた僧が出ています。 -
滋賀院は天台宗の寺院で、法親王が住職を務める門跡の一つに数えられます。
拝観料を支払うと、他に誰もいないにもかかわらず、係の方が内部を案内してくれました。
内部には、天海大僧正が家康公から拝領した甲冑や、不滅の灯明がともる灯籠、天台座主が日吉大社を参拝する際に乗る駕籠などがあります。
最も奥には内仏殿があり、手を合わせて来ました。 -
係の方の説明によると、勅使や皇族方だけが通ることのできる勅使門の壁には白い横線が5本入っているが、これは最も格の高い建物にしか用いることができず、御所も5本であるとのことです。
格が下がると、4本・3本というように横線の数も少なくなるというので、これから京都の寺院を見学する時は、意識して見ようと思いました。 -
宸殿の西側には小堀遠州による庭園があり、ここは撮影してもよいことになっております。
ひととおり見学を終え、次にケーブルカーに乗って比叡山に登ることを説明すると、ケーブルカーの発車時間を教えてくれました。
あまり時間がないので、急ぎ足で次の目的地に向かいました。 -
次の目的地である日吉東照宮に行くためには、また急な石段を登らなくてはなりません。
息を切らせながら石段を登った先に、色が落ちてはいるものの、極彩色に彩られた東照宮の社殿が見えて来ました。
御祭神は徳川家康公・日吉大神・豊臣秀吉公。日吉東照宮 寺・神社・教会
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日光をはじめとする全国の東照宮は権現造りの様式ですが、その発祥はここ日吉東照宮であると言われおり、家光公が神君家康公を祀るのに相応しい様式を天海に考えさせた結果生れた建築様式なのです。
元和9年に造営されたものの直後に再建が着工され、寛永11年に勅使をお迎えして盛大に正遷座が行われました。
その秋には日光東照宮が着工された事実から、日光の東照宮のひな形として再建されたと考えられます。
かつては延暦寺の管轄下にありましたが、明治の神仏分離令以降は日吉大社の管轄となりました。 -
多くの神社の中では珍しく、社殿内部も撮影自由とされています。
さすがに畏れ多いので本殿の方にはカメラを向けられませんでしたが、拝殿の金のふすまに描かれた日本画など、目とフイルム(SDカードかな)に焼き付けて来ました。
参拝を終え、ケーブルカーの駅へと向かいます。
日吉東照宮からは徒歩約3分。
滋賀院の係の方が教えてくれた時刻に、なんとか間に合いました。 -
坂本ケーブルの距離は日本一。
単線ですが、両駅から同時に発車した車輛がちょうど中間点ですれ違えるよう、そこだけ複線になっています。
終着駅のケーブル延暦寺駅へは約11分で到着。
かなり肌寒いです。 -
ケーブル延暦寺駅の駅前広場からも、琵琶湖を眺めることができます。
ここまで宿を出てから何も飲んでいないことを思い出し、水分を補給。 -
比叡山というと祈りの場所としての静謐なイメージしかありませんでしたが、実際に訪れてみると完全に観光地化されてしまっていました。
ケーブルカーがあることや、地図上でドライブウェイを確認できることから、半ば予想はしていましたが、真剣に聖なるものと向き合いたい人にとっては生きづらい世の中になったものだと思います。
特にあの比叡山を斬り裂くように延べられた比叡山ドライブウェイからは、何か禍々しい感情、日本という国への憎悪に近いものしか感じられません。
司馬遼太郎氏は『街道をゆく』の中で、たくさんの無名僧の墓が延暦寺の目の届かぬうちに掘り返され、人骨が捨てられた事実に触れ、「中世のひとびとがあれほど怖れた鬼というのはこういうひとびとや所業のことをいうのであろう」と批判しています。 -
駅から10分ほど歩くと、延暦寺の根本中堂に辿り着きます。
比叡山は東塔・西塔・横川の3地域に分けることができ、バスを使ってそれぞれを行き来することができます。
延暦寺総本堂の根本中堂は東塔にあり、現在は国宝に指定されています。
最澄が比叡山に入山して3年後、ここに小さな堂を建てたのが始まりで、正式には一乗止観院と称します。
もちろん信長公によって焼かれ、家光公によって再建されました。
本堂の中へ入り、不滅の灯明を見ながら手を合わせました。
不滅の灯明は、最澄が一乗止見院を創建した時に灯した火を一度も絶やさず現在に伝えているものですが、実は焼き討ち時に一度絶えています。
しかし、慈覚大師円仁が山形立石寺に分けていた火が存続していたたため、それを再建した延暦寺に戻し、現在に至っています。
延暦寺に詣でて詠む
みほとけのをしへの道をひとの意に
照らしてたえぬ日枝のともし火比叡山延暦寺 寺・神社・教会
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根本中堂の側に、伝教大師童形像。
昭和12年、全国の小学校児童による1銭醵出金によって立てられたものです。
柔和な表情をしています。 -
根本中堂の先には大講堂があります。
初代天台座主となって義真和尚によって建てられた、学問研鑽のための建物です。
4年ごとに行われる法華大会広学堅義の会場となります。 -
まだ充分に時間は残っているのですが、万が一のことを考えると居ても立ってもいられなくなるのが、分かり切った自分の性格です。
帰りはバスで京都に戻る予定だったので、バス停まで行って時刻表を確認することにしました。
バス停は広大な駐車場の一画にあり、本数は少なく、また事前調査した時刻とは少しずれた時刻表だったので、確認してよかったと思いました。
そしてバス停の近くで、元亀の兵乱殉難者鎮魂塚を見つけました。
元亀の兵乱とは信長公による焼き討ちのことです。
記録によると、比叡山で惨殺されたのは僧俗あわせて2000名にも上るとされます。
今の感覚で言えば言葉に出来ないほど残酷な仕打ちですが、抵抗勢力としての宗教団体を悉く排除したおかげで、日本の政治が特定の宗教によって左右されなくなったという評価も可能です。
我々にできることは、尊い犠牲の上にある今の世の中で、かつての失敗を繰り返さないよう努力することと、それら犠牲者への感謝を忘れずに生きること。
塚に建てられた宝塔には「世界鎮護」の文字が刻まれ、織田軍の戦没者と信長公自身にも追善供養を施しています。 -
バス停近くの売店に入ると、そば屋が営業していました。
正午前でまだ座席に余裕があったので、ここで昼食をとるために何気なくそばを注文。
それを食べながらふとカウンターを見ると、「鶴喜そば」の文字。
なんと、坂本で最も有名な老舗のそば屋の支店だったのでした。
坂本にある本店は、その建物自体が登録有形文化財に指定されています。
もちろんそばの歴史も古く、比叡山の僧が断食の行の後で弱った胃腸を、まず鶴喜のそばを食べてならすのが慣習でした。
大正天皇が行幸された際、鶴喜のそばをお気に召され、その後昭和天皇の崩御まで宮中に年越しそばとして納められていたそうです。
味付けはしつこくもなく薄くもなく、奇をてらったものではないものの記憶に残る美味しさでした。鶴喜そば 比叡山・大講堂店 グルメ・レストラン
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その後、国宝殿を見学。
国宝とは、国が定める国宝の意味ではなく、最澄の言葉「一隅を照らす。これ則ち国宝なり」から取られたものとのこと。
特別展として円仁の生涯を取り上げていて、東北人としては嬉しい思いでした。
まだ帰りのバスには時間がありますが、かなり歩いたので右膝の古傷もうずき出したため、これ以上の散策は諦め、予定を変更して京都側へのロープウェイとケーブルカーを使って下山することにしました。
しかし何より、観光地を一人で歩くことに精神的な疲労を覚えたのだと思います。
西塔・横川はもちろん、東塔も一部しか見ることができませんでしたが、いずれまた登る機会もあるでしょう。
バスにて比叡山山頂駅まで移動。
ますます気温が下がった実感がありました。
京都駅には、指定した新幹線の発車時刻より2時間も前に着いてしまいました。 -
そこでやめておけばよいのに、東寺まで歩いて行ってしまいました。
あとから考えて、やはり自分にブレーキをかけられなくなっていたのだと思います。
東寺は、雨が降った場合の行き先として考えていましたが、時間が余ったので強行してしまったのでした。
なぜ東寺にこだわったかというと、秋の特別拝観の一環として「弘法大師行状絵巻の世界」が行われていたからです。
伝教大師が開いた寺院を巡った後、弘法大師の生涯を描いた絵巻作品を見ることができる。
なんともぜいたくな一日となりました。
なお、東寺の壁を確認したところ、白い横線は5本入っていました。東寺(教王護国寺) 寺・神社・教会
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