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いよいよ中山道69次も、大詰めに近づいてきました。今回は、石山寺にお参りして、大津宿を巡り、大津を抜けて山科駅まで歩きます。<br />京都三条大橋へのゴールは、次回に達成の計画です。<br />ゴールするのは、次回12月2日のお昼頃。その時間に三条大橋で、”万歳!、万歳!”をする予定。<br /><br />大津宿 第69宿 (日本橋より528.5?)<br />大津宿(おおつじゅく)は東海道53番目(→東海道五十三次,日本橋より480.4?)、中山道69番目(→中山道六十九次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。<br />琵琶湖舟運の港町として栄えた。札の辻で京町と八町がL字型に交差する。京町に街道の古い町並みが保たれている。<br /><br />

中山道 No48.石山寺にお参りして、大津宿を。今回は大津を抜けて山科駅まで。

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2010/11/12 - 2010/11/12

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ムッシュ

ムッシュさん

いよいよ中山道69次も、大詰めに近づいてきました。今回は、石山寺にお参りして、大津宿を巡り、大津を抜けて山科駅まで歩きます。
京都三条大橋へのゴールは、次回に達成の計画です。
ゴールするのは、次回12月2日のお昼頃。その時間に三条大橋で、”万歳!、万歳!”をする予定。

大津宿 第69宿 (日本橋より528.5?)
大津宿(おおつじゅく)は東海道53番目(→東海道五十三次,日本橋より480.4?)、中山道69番目(→中山道六十九次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。
琵琶湖舟運の港町として栄えた。札の辻で京町と八町がL字型に交差する。京町に街道の古い町並みが保たれている。

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  • 【石山寺の東大門】<br />これを潜り、しばらく参道を歩くと入口に。<br /><br />西国巡礼十三の札所。本堂は懸下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。また、『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。<br /><br />

    【石山寺の東大門】
    これを潜り、しばらく参道を歩くと入口に。

    西国巡礼十三の札所。本堂は懸下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀君の修補になるもの。また、『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。

  • 東大門の左右に金剛力士像。

    東大門の左右に金剛力士像。

  • 本堂広場前から仰ぎ見る多宝塔

    本堂広場前から仰ぎ見る多宝塔

  • 硅灰石(天然記念物)は寺名の由来となっている。

    硅灰石(天然記念物)は寺名の由来となっている。

  • 本堂内部です。

    本堂内部です。

  • 本堂から見下ろす裏山の紅葉

    本堂から見下ろす裏山の紅葉

  • 多宝塔。美しい均斉ある。美を持った鎌倉期の建築である。鐘楼、大門も共に鎌倉初期の建立になる。

    多宝塔。美しい均斉ある。美を持った鎌倉期の建築である。鐘楼、大門も共に鎌倉初期の建立になる。

  • 月見亭と芭蕉庵のある高台から見下ろす瀬田川。上方は瀬田の唐橋方面です。

    月見亭と芭蕉庵のある高台から見下ろす瀬田川。上方は瀬田の唐橋方面です。

  • 紫式部さん。

    紫式部さん。

  • 無優園付近の紅葉

    無優園付近の紅葉

  • 琵琶湖のしじみ貝をイメージしたオブジェ

    琵琶湖のしじみ貝をイメージしたオブジェ

  • 芭蕉句<br /><br />「石山の石にたばしる霞かな」元禄三年(1690年作)

    芭蕉句

    「石山の石にたばしる霞かな」元禄三年(1690年作)

  • ここまでは、街道番外編の”石山寺”訪問です。

    ここまでは、街道番外編の”石山寺”訪問です。

  • 「義仲寺境内 (大津市馬場1丁目)<br />義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、<br />佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。<br />門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。<br />「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。<br />境内にはこの句をはじめ。芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの<br />句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。<br />昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。」

    「義仲寺境内 (大津市馬場1丁目)
    義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、
    佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
    門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
    「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
    境内にはこの句をはじめ。芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの
    句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
    昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。」

  • 【義仲寺】ここは、旧中山道=東海道沿いです<br />木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉のお墓(塚)があります。義仲の愛妾「巴御前」が供養に建てた寺。<br />松尾芭蕉が遺言で、「骸は木曽塚に送るべし」により義仲の墓の隣に葬られた。<br /><br />『義仲寺』は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)近江守佐々木義文によって再興された。<br />山門脇には、巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑などがある。<br />この前の通りは、旧東海道。かつてはこの辺りは粟津ヶ原といい琵琶湖に面した景勝の地だったと。<br /><br />【義仲寺境内】<br />「義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。<br /> 門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。<br /> 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。<br />  昭和四十二年(1967)十一月に国指定の史跡となりました。」<br />                平成四年三月 大津市教育委員会

    【義仲寺】ここは、旧中山道=東海道沿いです
    木曽義仲、巴御前、松尾芭蕉のお墓(塚)があります。義仲の愛妾「巴御前」が供養に建てた寺。
    松尾芭蕉が遺言で、「骸は木曽塚に送るべし」により義仲の墓の隣に葬られた。

    『義仲寺』は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)近江守佐々木義文によって再興された。
    山門脇には、巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑などがある。
    この前の通りは、旧東海道。かつてはこの辺りは粟津ヶ原といい琵琶湖に面した景勝の地だったと。

    【義仲寺境内】
    「義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
     門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
     「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
      昭和四十二年(1967)十一月に国指定の史跡となりました。」
                    平成四年三月 大津市教育委員会

  • 芭蕉桃青  句碑<br />「行く春を あふミの人と おしみける」

    芭蕉桃青 句碑
    「行く春を あふミの人と おしみける」

  • 巴塚(巴御前の墓)<br />【巴塚(供養塔)】<br /> 木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。

    巴塚(巴御前の墓)
    【巴塚(供養塔)】
     木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死を覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり、各地を廻り当地に暫く止まり亡き義仲の菩提を弔っていたという。それより何処ともなく立ち去り信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。

  • 木曽義仲の墓

    木曽義仲の墓

  • 松尾芭蕉の墓

    松尾芭蕉の墓

  • 芭蕉<br />「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」<br /><br />芭蕉句碑<br />「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」<br />「病中吟」と題した芭蕉最後の句、元禄7年(1694)10月8日。<br />芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。享年51歳。<br />遺言に従って、遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜ここに埋葬した。

    芭蕉
    「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」

    芭蕉句碑
    「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
    「病中吟」と題した芭蕉最後の句、元禄7年(1694)10月8日。
    芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大阪の旅舎で亡くなられた。享年51歳。
    遺言に従って、遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角ら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。14日葬儀、深夜ここに埋葬した。

  • 伊藤若冲の描いた天井絵<br /><br />「翁堂(おきなどう)<br />正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師胸像を安置する。<br />正面壁上に「正風宋師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。<br />天井の絵は伊藤若冲筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師暇獅法師が明和六年(一七六九)<br />十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(一ハ五六)類焼、同五年再建。現在の肖像は明治二十一年(一八八八)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。芭董翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。」

    伊藤若冲の描いた天井絵

    「翁堂(おきなどう)
    正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師胸像を安置する。
    正面壁上に「正風宋師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。
    天井の絵は伊藤若冲筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師暇獅法師が明和六年(一七六九)
    十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(一ハ五六)類焼、同五年再建。現在の肖像は明治二十一年(一八八八)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。芭董翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。」

  • アートフルなマンホール

    アートフルなマンホール

  • 露國皇太子遭難之地<br /><br />ロシア皇太子ニコライが警備中の巡査に斬りつけられた大津事件の史跡。司法権の独立を守った判決で歴史に残る。<br /><br />「露国皇太子遭難地の碑<br />明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた<br />大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、<br />無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。」<br />「5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。<br />ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。<br />威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。」(ウィキペディア)<br />

    露國皇太子遭難之地

    ロシア皇太子ニコライが警備中の巡査に斬りつけられた大津事件の史跡。司法権の独立を守った判決で歴史に残る。

    「露国皇太子遭難地の碑
    明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた
    大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、
    無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。」
    「5月11日昼過ぎ、京都から琵琶湖への日帰り観光で、滋賀県庁にて昼食を摂った後の帰り道、ニコライ、共に来日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。
    ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。
    威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づくことができたのは津田が取り押さえられた後だった。」(ウィキペディア)

  • 京阪電鉄京津線は、これから大津市繁華街を路面電車として走る。

    京阪電鉄京津線は、これから大津市繁華街を路面電車として走る。

  • 大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅。現在は、<br />明治天皇聖跡碑が建つだけだが、江戸時代当時の本陣は広く、3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったという。その他に脇本陣1軒、旅籠71軒

    大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅。現在は、
    明治天皇聖跡碑が建つだけだが、江戸時代当時の本陣は広く、3階の楼上からの琵琶湖の眺めは絶景だったという。その他に脇本陣1軒、旅籠71軒

  • 大津宿本陣跡<br />「大津宿本陣跡<br />本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。<br />大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあったことから繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す 「明治天皇聖跡碑」 が建つのみです。」

    大津宿本陣跡
    「大津宿本陣跡
    本陣とは、大名や公家などが宿泊するために設けられた施設で、大津宿では大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)、肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市右衛門の脇本陣1軒が八丁筋におかれていました。八丁筋には、旅籠などが多数軒を連ね、旅行く人々を迎えていました。
    大津は、北国海道と東海道の合流地点であり、また湖上交通の拠点でもあったことから繁栄を極めました。しかし、現在は本陣に関する遺構などは残っておらず、大塚本陣のあったこの場所に、明治天皇の休憩所として利用されたことを示す 「明治天皇聖跡碑」 が建つのみです。」

  • 著作権フリー作品「木曽街道六十九次」画像を使用する<br /><br />『広重 木曽街道六拾九次之内 大津 七拾』<br />大津は、天智天皇が大和から遷都、律令国家の基盤を築こうとした歴史の地。<br />都が京に移ってからも、都への出入口として、 琵琶湖水運の中心地として、また、<br />北陸道、東海道、中山道の分岐点という要所に位置する宿として栄えた。中山道の宿場数は69であるが、この連作では出発地の日本橋を1番とし、最後の大津宿を70番とする朱印が入っている。

    著作権フリー作品「木曽街道六十九次」画像を使用する

    『広重 木曽街道六拾九次之内 大津 七拾』
    大津は、天智天皇が大和から遷都、律令国家の基盤を築こうとした歴史の地。
    都が京に移ってからも、都への出入口として、 琵琶湖水運の中心地として、また、
    北陸道、東海道、中山道の分岐点という要所に位置する宿として栄えた。中山道の宿場数は69であるが、この連作では出発地の日本橋を1番とし、最後の大津宿を70番とする朱印が入っている。

  • 【謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社】<br />幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。<br />一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。<br /><br /> 蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。<br />                             謡曲史跡保存会

    【謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社】
    幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も、孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
    一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。

     蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
                                 謡曲史跡保存会

  • 蝉丸神社上社。<br /><br />鉄道踏切を渡り神社に入る。

    蝉丸神社上社。

    鉄道踏切を渡り神社に入る。

  • 蝉丸神社の入口に建つ。

    蝉丸神社の入口に建つ。

  • 京阪電鉄京津線が国道を過ります。むろん踏切ありますよー。<br /><br />これって、珍しい風景ですよね。

    京阪電鉄京津線が国道を過ります。むろん踏切ありますよー。

    これって、珍しい風景ですよね。

  • 関蝉丸神社<br /><br />平安初期の歌人。百人一首にも登場。<br /><br />「これやこの行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸作)

    関蝉丸神社

    平安初期の歌人。百人一首にも登場。

    「これやこの行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸作)

  • 【逢坂山の関跡碑】<br />近江の国に置かれた山城の国との境の関所。646年頃設置され、延暦14年(795年)に廃止された。東海道や東山道と京都との行き来には必ず通らねばならない関所であった。<br />鈴鹿の関、不破の関とともに三関の一つ。

    【逢坂山の関跡碑】
    近江の国に置かれた山城の国との境の関所。646年頃設置され、延暦14年(795年)に廃止された。東海道や東山道と京都との行き来には必ず通らねばならない関所であった。
    鈴鹿の関、不破の関とともに三関の一つ。

  • 車石  車の轍が見えます。<br />車石<br /> 江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を果たしました。 これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が敷設されました。 その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を知る重要な文化財となっています。」

    車石  車の轍が見えます。
    車石
     江戸時代に逢坂越は、大津港で陸揚げされ京都へ運ばれた米俵などの輸送にも重要な役割を果たしました。 これら物資を運ぶ牛車が泥道で立ち往生しないように車石と呼ばれる石が敷設されました。 その工事は文化元年(1804)から翌2年にかけて行われました。車石は、今も京都・大津間の旧東海道沿いに残されており、当時としては画期的な街道整備を知る重要な文化財となっています。」

  • 蝉丸の歌碑<br />「 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」<br /><br />この歌碑は、蝉丸神社境内にも建立されている。

    蝉丸の歌碑
    「 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」

    この歌碑は、蝉丸神社境内にも建立されている。

  • 「枕草子」を書いた、清少納言の歌碑

    「枕草子」を書いた、清少納言の歌碑

  • 東海道五十三次 大津・走井茶店。この絵は、解説掲示板です。<br />左端に、「走井茶屋」。<br />*この名水は、第13代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に「どんな小さな茶屋にもいつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている。」と記されている。関の清水走井などの清冽な水で立てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。<br />「走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関」 清輔 (大津市観光課)

    東海道五十三次 大津・走井茶店。この絵は、解説掲示板です。
    左端に、「走井茶屋」。
    *この名水は、第13代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に「どんな小さな茶屋にもいつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている。」と記されている。関の清水走井などの清冽な水で立てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。
    「走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関」 清輔 (大津市観光課)

  • 蝉丸神社。奥の石段を上る。<br />「蝉丸神社の由来<br />当社は天慶九年(九四六年)蝉丸を主神として祠られております。<br />蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。その後、万治三年(一六六〇年)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豐玉姫命を合祀してお祀りしております。<br />これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさか乃せき 蝉丸」

    蝉丸神社。奥の石段を上る。
    「蝉丸神社の由来
    当社は天慶九年(九四六年)蝉丸を主神として祠られております。
    蝉丸は盲目の琵琶法師とよばれ、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものです。その後、万治三年(一六六〇年)現在の社が建立され、街道の守護神猿田彦命と豐玉姫命を合祀してお祀りしております。
    これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさか乃せき 蝉丸」

  • 左が旧東海道、鉄道は京阪電車京津線、右が名神高速

    左が旧東海道、鉄道は京阪電車京津線、右が名神高速

  • 【月心寺】<br />画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の別邸で、没後に寺院として改められた。室町期の絵師・相阿弥(そうあみ)作と伝わる池泉回遊式の庭園は見事で、走井の名水や小野小町百歳像を安置する小町堂などがある。

    【月心寺】
    画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の別邸で、没後に寺院として改められた。室町期の絵師・相阿弥(そうあみ)作と伝わる池泉回遊式の庭園は見事で、走井の名水や小野小町百歳像を安置する小町堂などがある。

  • 【走井の泉】<br />*枕草子に登場する走井の泉がある月心寺。境内には芭蕉の句碑「大津絵の筆のはじめは何仏」がある。走井餅は石山寺の名物になっている。<br />【月心寺(げっしんじ)】<br />臨済宗系単立寺院 京・大津への玄関口逢坂山の関所を控える、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた「走井茶屋の跡」。<br />境内には今も枯れることなく「走井の名水」が湧き出ている。逢坂関を越えた山が迫る狭い土地で、街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち、谷間を埋めており大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していた。<br /><br />走井茶屋は、安藤広重作「東海道五十三次」の大津宿にも描かれているのだ。<br />「東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。<br />米俵を運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが偲ばれます。」<br />

    【走井の泉】
    *枕草子に登場する走井の泉がある月心寺。境内には芭蕉の句碑「大津絵の筆のはじめは何仏」がある。走井餅は石山寺の名物になっている。
    【月心寺(げっしんじ)】
    臨済宗系単立寺院 京・大津への玄関口逢坂山の関所を控える、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた「走井茶屋の跡」。
    境内には今も枯れることなく「走井の名水」が湧き出ている。逢坂関を越えた山が迫る狭い土地で、街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち、谷間を埋めており大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していた。

    走井茶屋は、安藤広重作「東海道五十三次」の大津宿にも描かれているのだ。
    「東海道の中でも最も栄えた大きな宿場でした。「走り井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」とある有名な泉のある茶屋のありさまが描かれています。
    米俵を運ぶ車が連なる図は、大消費地京都を間近にひかえ、物流の流通が盛んであったことが偲ばれます。」

  • 走井の泉<br />枕草子では、「井は、ほりかねの井、玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしき」とある。<br /><br />【走井】<br />この名水は、第十三代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。 安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に「どんな小さな茶屋にもいつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている。」と記されている。<br />  関の清水走井などの清冽な水で立てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。<br />  「走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関  清輔」<br />                             大津市観光課

    走井の泉
    枕草子では、「井は、ほりかねの井、玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしき」とある。

    【走井】
    この名水は、第十三代成務天皇の御誕生の時、産湯に用いられたと伝えられる。 安永年間スウェーデン人ツンベルブが江戸に赴いた紀行に「どんな小さな茶屋にもいつも米で作った白か緑の小さな菓子がある。旅人や輿夫はこれを買って茶とともに食べる。茶はいつも飲めるように用意されている。」と記されている。
      関の清水走井などの清冽な水で立てられた茶とともにとったのが、その菓子の名のおこりである。
      「走井の かけひの水の すずしさに越えもやられず 逢坂の関  清輔」
                                 大津市観光課

  • 【髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)】<br />山科にある東海道(三条街道・平安京の三条大路)と大津海道(伏見街道・大津宿と伏見宿を結ぶ街道)の分岐点である。大津追分道標<br /><br />『道標』<br />正 面:みきハ京みち<br />右側面:柳緑花紅<br />東海道と京街道の追分でがここ。<br />東海道57次と言う場合はここ髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となるのだ。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。<br />大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け<br />伏見道を使ったのだと。<br />この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカ。<br />そして『蓮如上人御塚』碑。石碑には「明和三丙」と刻まれていると。<br />いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されていたのであった。<br /><br />

    【髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)】
    山科にある東海道(三条街道・平安京の三条大路)と大津海道(伏見街道・大津宿と伏見宿を結ぶ街道)の分岐点である。大津追分道標

    『道標』
    正 面:みきハ京みち
    右側面:柳緑花紅
    東海道と京街道の追分でがここ。
    東海道57次と言う場合はここ髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となるのだ。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼ぶ。
    大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け
    伏見道を使ったのだと。
    この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカ。
    そして『蓮如上人御塚』碑。石碑には「明和三丙」と刻まれていると。
    いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されていたのであった。

  • 【山科(四宮)六地蔵の六角堂(徳林庵)】<br />柳谷山臨済宗南禅寺派の寺。南禅寺の雲英禅師がその祖。仁明天皇の第4の宮人康親王の菩提を弔うために草創した。この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処。地花堂本尊は、参議小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれる。<br />京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えた。<br /><br />	<br />【徳林庵】<br />柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる。仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。<br />  この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれ、京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。<br />  江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。<br />                           京都市<br /><br />【縁起】<br />山科地蔵尊は、山科廻(めぐり)地蔵、四ノ宮地蔵とも呼ばれています。<br />霊験大なる事で有名なこの尊像は今より約1150年前の平安時代に小野篁公(おののたかむら)によって作られた霊像です。<br />  初め伏見六地蔵の地に、六体の内のひとつとしてあった尊像は、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西東法師等の手により、厄病退散、都往来の路上安全、庶民の福来結縁を祈願し、都街道の出入り口六ヶ所に一体ずつ分置されました。<br />  この時より約850年の間、山科地蔵尊は、六地蔵めぐりの伝統行事の歴史と共に、東海道を往来する人々を、あたたかく見守り続けているのです。<br />  また尊顔が美しく新しく見えるのは、百年に一度、化粧直しをされる為です。<br /><br />「山科地蔵と徳林庵<br />山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。<br />徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」

    【山科(四宮)六地蔵の六角堂(徳林庵)】
    柳谷山臨済宗南禅寺派の寺。南禅寺の雲英禅師がその祖。仁明天皇の第4の宮人康親王の菩提を弔うために草創した。この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処。地花堂本尊は、参議小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれる。
    京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えた。


    【徳林庵】
    柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる。仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。
      この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水といわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれ、京の町から諸国、諸地方へ向う東海道の出口にあたり、物詣や疫病の送り御霊会などの交流から道祖神塞神の信仰となり、地蔵菩薩信仰として栄えた。また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。
      江戸時代には検校位を有する盲人が、毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を演じ、親王の御霊を慰めたという。
                               京都市

    【縁起】
    山科地蔵尊は、山科廻(めぐり)地蔵、四ノ宮地蔵とも呼ばれています。
    霊験大なる事で有名なこの尊像は今より約1150年前の平安時代に小野篁公(おののたかむら)によって作られた霊像です。
      初め伏見六地蔵の地に、六体の内のひとつとしてあった尊像は、後白河法皇の深い信仰を受け、平清盛、西東法師等の手により、厄病退散、都往来の路上安全、庶民の福来結縁を祈願し、都街道の出入り口六ヶ所に一体ずつ分置されました。
      この時より約850年の間、山科地蔵尊は、六地蔵めぐりの伝統行事の歴史と共に、東海道を往来する人々を、あたたかく見守り続けているのです。
      また尊顔が美しく新しく見えるのは、百年に一度、化粧直しをされる為です。

    「山科地蔵と徳林庵
    山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
    徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」

  • 道標<br />伏見じぞう

    道標
    伏見じぞう

  • 『四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の『徳林庵 地蔵堂』があった。<br /><br />『臨済宗南禅寺派 徳林院』寺標。<br />「山科地蔵と徳林庵<br />山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。<br />徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。<br />境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」<br /><br /><br />「徳林庵<br />柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派 の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる<br />仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。<br />この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水と<br />いわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一木から刻んだ大地蔵の一といわれ<br />京の町から諸国諸地方へ向う東遊道の出口にあたり物詣や疫病の送り御霊会などの<br />交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩薩信仰として栄えた。<br />また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。<br />江戸時代には検校位を有する盲人が毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を奉じ親王の御霊を慰めたという。」<br /><br />「山科地蔵徳林庵<br />旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。<br />また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。<br /><br />六地蔵巡り<br />850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」<br /><br /><br /><br />『徳林庵山門』<br />「山科地蔵徳林庵」<br />旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。<br />また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。<br /><br />六地蔵巡り<br />850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」

    『四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の『徳林庵 地蔵堂』があった。

    『臨済宗南禅寺派 徳林院』寺標。
    「山科地蔵と徳林庵
    山科地蔵は、小野篁(たかむら)公により852年に造られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあった。後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。以後、山科地蔵は東海道の守護佛となり、毎年8月22日、23日の六地蔵巡りが伝統行事となった。
    徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡禅師が1550年に開創した。
    境内には、人康親王、蝉丸供養塔(室町時代)、茶所の四休石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、飛脚の釜がある。」


    「徳林庵
    柳谷山と号し、臨済宗南禅寺派 の寺である。南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる
    仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したものという。
    この地はもと十禅寺の開山人康親王が、隠栖された処で、地名も四の宮泉水と
    いわれている。地花堂本尊は、参議小野篁が一木から刻んだ大地蔵の一といわれ
    京の町から諸国諸地方へ向う東遊道の出口にあたり物詣や疫病の送り御霊会などの
    交流から道祖神塞神の信仰となり地蔵菩薩信仰として栄えた。
    また堂後には、四の宮明神と人康親王を祀る供養塔があり、また蝉丸塔ともよんでいる。
    江戸時代には検校位を有する盲人が毎年一回全国から参集して琵琶の奥技を奉じ親王の御霊を慰めたという。」

    「山科地蔵徳林庵
    旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。
    また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。

    六地蔵巡り
    850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」



    『徳林庵山門』
    「山科地蔵徳林庵」
    旧東海道沿いに建つ寺院です。地蔵尊は、小野篁作で、1157年に後白河天皇の勅命により、京の都の主要六か所に安置された地蔵のうちの一体です。それ以降、京都に入る際の厄除けの場所、東海道の門番として、今もなお多くの人が訪れます。
    また、琵琶法師の祖として知られる人康親王、蝉丸ゆかりの寺でもあります。

    六地蔵巡り
    850年の伝統を持つ行事で、8月22日、23日に都の主要街道にある伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)そして、山科地蔵(徳林庵)の六体の地蔵を巡り、お礼を集めて家の入口に吊るすと、厄病退散、家内安全の護符になるとされています。」

  • 六地蔵さん<br />『わらべ六地蔵尊』

    六地蔵さん
    『わらべ六地蔵尊』

  • 山科駅

    山科駅

  • 直進で6km歩めば、三条大橋なり。そこがゴールです。

    直進で6km歩めば、三条大橋なり。そこがゴールです。

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