2012/11/03 - 2012/11/05
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倫清堂さん
今年は例年になく暑い日が続きました。
木々の葉が色づき始めるのも例年より遅めですが、それでも確実に日本列島は秋の色に染まりつつあります。
1年間の期限で行われる大阪での勉強会も、残り2回となりました。
今回も月曜の午前中まで関西に滞在できることになったので、柳生の里を中心に、紅葉も堪能できる場所を選んで訪れることにしました。
最近は新幹線を利用することが多かったですが、今回は仙台空港から全日空便で伊丹へ向かいます。
先日、戦時中に落とされたものと思われる不発弾が見つかったとのことで、仙台空港が閉鎖されるというトラブルがあったばかりです。
まだ処理されないうちの利用で、滑走路のどこかにはその不発弾と、自衛隊が築いた防護壁があるはずです。
検査場がいつもより混んでいるのは、同じように紅葉狩りを目的とする観光客が多い季節だからでしょうか。
飛行機は何事もなく離陸し、定刻より早く伊丹に到着しました。
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勉強会の開始は午後2時半。
伊丹空港には9時に到着のため、中途半端に時間が空いてしまいました。
これだけ頻繁に訪れていると、そろそろ新たに行きたい場所も限られて来ます。
この長いようで短い時間を有効に利用するためにどこを訪れればよいのか、前日の夜に地図と睨めっこをしながら考えた結論は、藤井寺の散策でした。
藤井寺という地名に馴染みはなく、せいぜい「藤井寺球場」という施設があることを知っているくらいですが、あとで調べるとすでにこの球場は解体されてしまって今は無いとのことです。
伊丹空港からモノレールに乗り、いつも降りている蛍池を通過、初めて千里中央で降りて御堂筋線で天王寺へ。
天王寺で重い荷物の大部分をコインロッカーに預け、身軽な状態で近鉄線に乗りこみ、藤井寺駅へ到着しました。
藤井寺という駅名から、近くに大きなお寺があることが予想されましたが、まずは最も遠い目的地の応神天皇陵を目指します。
線路に沿った細い道路や住宅街、そして高速道路の下や国道などを通り、およそ20分も歩いた頃に到着。
天皇陵の中で最も大きいのは仁徳天皇陵ですが、応神天皇陵はそれに次ぐ大きさで、人間の目の高さからはやはり大きな山にしか見えません。
第15代応神天皇は、神功皇后が三韓征伐に赴かれた際に既に胎内に宿られ、凱旋の途中で現在の福岡県でお生まれになったと記録されています。応神天皇陵古墳 名所・史跡
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今度は駅へ帰る方向に同じくらい歩き、仲哀天皇陵に参拝。
応神天皇の父帝である仲哀天皇は、記紀に伝えられる非業の最期がとても印象的です。
熊襲討伐のため神功皇后とともに九州におられた仲哀天皇は、神がかりとなった皇后「新羅討つべし」の託宣に従わなかったため、神の怒りに触れて突然崩じたのでした。
仲哀天皇は日本武尊の皇子でもあり、近くには日本武尊をはじめとする当時の天皇・皇族の陵墓が多く存在しています。仲哀天皇陵【岡ミサンザイ古墳】 名所・史跡
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あとは駅近くのお寺に寄って帰るだけと思って歩いていると、由緒あり気の神社を見つけました。
そこは辛國神社という名前で、七五三の参拝客の姿が何組も見られました。
『日本書紀』にも記載される古社で、今から約1500年前の雄略天皇13年の御創始。
この地方を治めていた物部氏が、その祖神である饒速日命をお祀りしたのが起こりで、物部氏に仕えていた辛國氏が祭祀を司っていたことから、辛國神社と称されるようになったとのこと。
辛國という名前からは、加羅の国が真っ先に連想されます。
応神天皇の時代には、非常に多くの渡来人が大陸から日本へやって来たことが分かっており、辛國氏もその中の一部族なのではないかと考えることが出来ます。辛国神社 寺・神社・教会
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最後に駅からすぐの場所に位置する葛井寺へ。
藤井寺の地名の元となったお寺なのだろうと予想していましたが、葛井寺と書いて「ふじいでら」と呼ぶとは知りませんでした。
聖武天皇の勅願により行基が開基した真言宗のお寺で、ここを氏寺とする葛井連とはもともと白猪氏を名乗る百済王族でした。
ここにも渡来人の影が見え隠れしています。
御本尊の千手観音は、千手観音としては国内最古のものの一つで、国宝に指定されています。
境内の藤棚は、初夏にはみごとな藤の花を咲かせることでしょう。
駅前の飲食店で昼食をとり、時間に余裕をもって勉強会へ向かいました。
勉強会は無事に終わり、天王寺で預けた荷物を手に宿泊先の船場へ。葛井寺 寺・神社・教会
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翌日、柳生へ向かう途中で少し遠回りをし、奈良県護国神社に参拝しました。
奈良へは何度も足を運んでいますが、時間の関係で毎回訪れることがかなわなかった神社です。
鎮座している高円山は、万葉集にも詠まれる景勝の地。
大和盆地を一望できるこの場所に、奈良県出身の英霊や消防団員など29245柱が祀られています。
この日はちょうど奉仕活動が行われており、様々な年代の男女が境内の清掃に励んでいました。 -
イチオシ
次に訪れたのは、忍辱山町にある円成寺(正式には圓成寺)。
紅葉の名所ということで、立ち寄ることに決めていました。
楼門の前に広がるのは、平等院鳳凰堂などと同じく池を中心とする浄土式庭園。
その水面に、まだ少し時期的には早いものの紅葉した木々が映り込み、浮世から隔絶された幻想的な風景を現しています。円成寺 寺・神社・教会
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御本尊の大日如来は、運慶による初期の作で国宝。
もとは本堂に安置されていましたが、現在は平成2年に再建された多宝塔に収められています。
記録には聖武天皇と孝謙天皇の勅願によって開創されたと伝えられますが、実際はそれより後の万寿3年に命禅上人が十一面観音を祀ったのが始まりであることが明らかになっています。
その後、寺門が栄えるも、応仁の乱の兵火が及んで主要伽藍は焼失し、更に明治維新で寺領を失って現在の規模にまで縮小されてしまいました。
観光客の数は多くありませんが、知られざる名所として愛されています。 -
いよいよ柳生の里に到着。
柳生の里は、後醍醐天皇による挙兵の舞台となった笠置山の南に位置しています。元弘の変では、柳生一族の当主の永珍が宮方に属して幕府軍と戦い、一度は所領を没収されますが、建武の中興がなって返還され、その後は代々尊皇の念の篤い地方豪族としてこの地に根を張って来ました。
家厳(石舟斎の父)の時、足利幕府の衰退によってそれまで属して来た畠山氏が力を失い、戦に敗れて筒井氏に臣従、後に松永久秀に寝返るなどの軽業も演じています。
そんな弱小の地方豪族が一躍中央に躍り出たのは、石舟斎が徳川家康公の御前で無刀取りを披露したのがきっかけでした。
相手を傷つけずに戦いに勝つという新陰流の理想が、家康公の国家運営の理想とぴったり一致したために、石舟斎の息子の宗矩が将軍家の剣術師範として登用されたのでした。
3代将軍家光公の時には1万石に加増されて大名に列し、宗矩は柳生藩の初代藩主となりました。
まず向かったのは旧柳生藩家老屋敷。
近くに車を停めて駐車場の場所を伺ったところ、あっさりと無しと言われたため、その門構えだけを見て去ることにしました。
柳生藩の財政を立て直した家老、小山田主鈴の隠居宅で、戦後は小説家の山岡荘八が買い取って作品の執筆に利用したりしていましたが、没後にその遺志によって奈良市に寄贈されました。旧柳生藩家老家敷 名所・史跡
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いわゆる柳生の里は小規模な集落で、見どころはほとんど徒歩圏内に位置しています。
市営の駐車場を見つけたので、そちらへ車を預けることにしました。
あとで調べたところ、この駐車場の場所に、かつては柳生の道場があったとのことです。
そして柳生の剣禅一如の思想を引き継ぐ道場は、菩提寺芳徳寺の近く、十兵衛の弟の友矩の屋敷があった場所に「正木坂剣禅道場」として生まれ変わりました。
駐車場から徒歩専用の坂道をしばらく登ると、正木坂剣禅道場と、更にその先に芳徳寺の本堂があります。芳徳寺 寺・神社・教会
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芳徳寺は柳生宗矩とも親交の深かった沢庵宗彭によって寛永15年に開山され、宗矩の末子の列堂義仙が第一世住持となりました。
柳生列堂は漫画『子連れ狼』における主人公拝一刀の宿敵、烈堂のモデルであることは明らかですが、実在した列堂は少年の時に京都で出家し、その後は僧として生涯を送った人物ですから、「裏柳生の総帥」などというイメージとはかけ離れた人生を送ったものであり、おそらく漫画を読んで一番驚くのは列堂本人でしょう。
その列堂時代の一山堂宇は宝永8年の火災によって焼失し、廃藩後は山門や梵鐘なども売り払われるなど廃寺の危機にありましたが、尾州柳生家の末裔である柳生基夫氏によって再興への道が開けたのでした。
芳徳寺の本堂には本尊の釈迦如来三尊の他、沢庵和尚坐像と但馬守宗矩坐像が安置され、信仰の対象となっています。
また併設される資料館には、石舟斎所用の仕込み杖や当時の練習で用いられていた袋韜、書画などが展示されています。 -
本堂の奥へ進むと、柳生一族の墓所へと道が続いています。
以前は中宮寺の境内にあった柳生家の墓所は、芳徳寺の開山によって全てこちらへ移されたのでした。
ちらほら見えた観光客も、さすがにここまで来る人はいないようで、自分一人だけが、が森閑とする木々の間で柳生家の人々の御霊とともにひと時を過ごすことが出来ました。 -
墓所の中で特に目立つ大きさの石塔は、石舟斎の師匠であった上泉信綱の供養塔で、まさに別格という扱いで存在感を示していました。
上泉信綱は上野国出身の兵法家で、剣聖とまで呼ばれる程の剣の達人でした。
上野国時代は長野氏に仕えて武田氏や北条氏の大軍を相手に戦い、長野氏が滅亡してからは、武田信玄による仕官への誘いを断って浪人となり、諸国流浪の果てに柳生の里へ辿り着いたのでした。
当時の柳生では、宗厳(後の石舟斎)が道場を開いて多くの弟子を抱えており、本人も剣の腕には相当な自信を持っていましたが、信綱どころかその弟子の疋田文五郎にも敵わず、己の未熟さを弟子入りを決断し、その際に「無刀取り」の開眼を目指すよう指示されたと言われています。
信綱はその後京都を訪れ、弟子の一人である丸目蔵人佐を将軍義輝公の師範として送り込みました。
その間に石舟斎は無刀取りを編み出したため、柳生へ戻った信綱から印可状を授かり、新陰流を引き継ぐことになったのでした。
そして信綱は柳生にとどまり、晩年を過ごしたと考えられています。
どこで亡くなったかは定かではありませんが、いくつかの古文書には柳生で生涯を終えたと記され、山岡荘八もその解釈で小説を書いています。 -
次に、先ほどの坂道にあった分かれ道を、芳徳寺とは反対の方向へ進みます。
この道が、食後に訪れようと考えていた天石立神社へ続いていることが分かったため、予定を変更することになりました。
芳徳寺から市民墓地などを通る山道を歩くと、石の鳥居が見えて来ます。
自然の巨石が到る処に見られるこの場所は、天岩戸開きの時に手力男命が投げた岩戸が落ちて来た伝説の地でもあり、石舟斎はここで日々剣の修業に励んでいたと言われています。
現在の参道が当時からあるものなのかは分かりませんが、参道以外はほとんど人の手が入っていない山のようで、油断したら崖の下に転がり落ちてしまいそうです。天石立神社 寺・神社・教会
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天石立神社には社殿はなく、御神体の巨石をお祀りしています。
常駐する神職もなく、普段はよほどの訳知りの人しか参拝に来ないような僻地に鎮座していますが、『延喜式神名帳』にも記載される由緒ある神社です。
注連縄を張った神域には、前伏磐・前立磐・後立磐の3つの巨石があり、これらはそれぞれ天石戸別神・豊石窓神・櫛石窓神の神体岩として信仰されています。
大自然というものは、このように不思議な形の岩を不思議な姿で表わすものなのかと、感心する他ありませんでした。
このような神聖な場所で、自然と一体となりながら修業を積んだことで、石舟斎は無刀取りを開眼することが可能となったのでしょう。 -
イチオシ
神社から更に奥へ行った場所には、一刀石と呼ばれる丸い巨石があります。
石舟斎が修行をしているところに天狗が現れ、その立ち合いの最中に斬ってしまったという伝説の石です。
山岡荘八の小説にも登場し、天狗は石舟斎の命を狙う刺客という設定で現れます。
本当に日本刀でこれほどの巨石を斬れるのか、試したことがないので出来るとも出来ないとも答えられません。
ただ、石舟斎が斬ったという言い伝えが長い間信じられて来たということに、石舟斎という剣豪の偉大さが証明されていることだけは間違いありません。
天岩戸の降り落ちける大和国柳生の天石立神社にて一刀石ををろがみて詠む
岩断てど人斬らぬ太刀なしにして
平らけき世や切り開かるる一刀石 自然・景勝地
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芳徳寺と天石立神社を回って約1時間、もとの駐車場に戻って来ました。
そろそろ昼食時ですが、柳生の里には2軒の食堂しかありません。
そのうちのひとつ、柳生茶屋に入って、ふるさと定食を注文。
ほどなく黒餅などが入ったうどんと葉っぱの巻いてある寿司のセットが運ばれて来ました。
歴史のある食堂らしく、壁にはありし日の「十兵衛杉」の写真がかけられていました。
十兵衛杉は、柳生十兵衛が諸国漫遊の旅に出るときに植えたもので、樹齢300年を超えていましたが、昭和48年に落雷によって枯死してしまいました。
枯れた幹は他の樹木に囲まれてひときわ高く、柳生の里に入った時に車内からすぐに見つけることができました。
枯れてしまったのは残念ですが、残された貴重な写真を見ながら、こうして柳生の名物を味わうことが出来たのは幸せでした。 -
食事を終え、柳生陣屋跡へと向かいました。
もとはこの場所に柳生宗矩によって芳徳寺が建立され、更に陣屋(今で言う役所)を建築し、子の宗冬によって増築整備されましたが、延享4年の火災によって焼失してしまったとのことです。
最近までは小学校が建てられていましたが、今はその姿もなく、基礎となった石組みだけが残されています。旧柳生藩陣屋跡 公園・植物園
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陣屋跡から「正木坂」を通って西側へ移動すると、そこには柳生八坂神社。
もともと春日大社の第四殿比売大社を祀っていましたが、承応3年に柳生宗冬が素戔嗚尊の分霊を勧請し、拝殿は天石立神社のものを移築して、八坂神社と改められました。
参拝を終え、更に宇陀へと足を延ばすことにしました。
山道を1時間ほどかけて移動。
途中、道の駅針テラスに休憩のために寄ると、バイクの愛好家など物凄い数のドライバーでにぎわっていました。
こんな山奥にあるのに、これまで見たどの道の駅よりも規模の大きな施設でした。 -
宇陀では八咫烏神社に参拝。
『続日本紀』によると、八咫烏神社は慶雲2年の創祀。
御最新の建角身命は八咫烏の化身で、神武天皇の御東遷に際して熊野山中から大和への道案内をしたと伝えられています。
南北朝時代には後醍醐天皇から篤く信仰されましたが、吉野朝の式微とともに神社も衰退し、江戸中期には廃絶寸前にまで追い込まれていました。
しかし同じく賀茂建角身命を祀る下鴨神社の神職の働きかけによって再興され、例大祭においては下鴨神社の奉幣使が使わされるほど大切にされました。 -
こうして下鴨神社の影響を強く受けて現在に至る八咫烏神社ですが、創祀の頃の御祭神は八咫烏であって建角身命とはされず、両者は『古事記』編纂の課程で結び付けられた可能性もあることから、神社も下鴨神社によって同一化させられたと解釈することも出来ます。
八咫烏とは一体何なのか、もとから3本足の烏として言い伝えられているのか、この宇陀地方の伝承を調べる必要がありそうです。
宇陀の八咫烏神社に詣でて詠む
ひむかより還りたまひて日嗣がるる
御子たてまつる姿たのもし -
宇陀では他にも行きたい所がありましたが、帰りがあまり遅くなっても良くないので、帰途につくことにしました。
最後に立ち寄ったのは、天理市に鎮座する大和神社。
ただのやまとではなく、おおやまと神社と読みます。
御祭神の日本大国魂大神は日本全土の地主神。
日本創成期には天照大神とともに宮中に祀られていましたが、第10代崇神天皇の御代に疫病が流行し、神威を畏みて天照大神を豊鍬入姫命に託して笠縫に、大国魂大神を渟名城入媛命に託して長岡岬に祀らせました。
後者がその後現在地に遷座したのが、大和神社です。
その後、大国魂大神の神威は鎮まらず、渟名城入媛命がやせ細って祭祀が出来なくなったため、倭迹迹日百襲姫命の託宣に従って大田田根子に大物主神を祀らせ、神武天皇の功臣椎根津彦の子孫、市磯長尾市を神主として祀らせたところ、疫病は収束したと記録されています。
その後の大和神社では、市磯長尾市の子孫の大倭氏が代々奉祀を続けて来ました。大和神社 寺・神社・教会
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現在の御正殿は宮中三殿式の特異な御社殿となっています。
境内には他に7社の摂社・末社、少し離れた場所に御旅所坐神社が鎮座しています。 -
日本帝国海軍が誇った世界最大の戦艦大和には、大和神社の御分霊が祀られていました。
艦が帰還するたび、艦長以下幕僚らが奉謝の特別参拝を行っていました。
大東亜戦争末期に戦艦大和は沖縄出撃の途上、米軍による猛攻を受けて沈没し、艦と運命をともにした伊藤整一海軍大将以下2736柱の英霊は、祖霊社に合祀されました。
神々が人と直接関わった時代から、近代文明の行きつく先であった国家を総動員する戦争の時代を経ても、日本という国が一本の柱で貫かれているのは、時代時代に生きた人たちによる努力の賜物です。
そのことを常に胸に収めながら、自分なりの国家への貢献をして行きたいと思ったところで、今回の旅は閉じたいと思います。
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