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以前、岡崎へ家康公に関連する史跡を訪ねに行った際、飛行機の遅れで予定のいくつかを断念せざるを得なくなったことがありました。<br /><br />講義の終了後、豊橋在住の自衛官の知人と会うことになったので、この時に行けなかった所やその周辺など、改めて訪れてみることにしました。<br /><br />ただし2つの心配要素がありました。<br /><br />ひとつは天気。<br /><br />台風が沖縄を通過中のため、雨が降る予報が出ていました。<br /><br />もうひとつは自らの体調。<br /><br />移動に夜行バスを利用したのですが、冷房が強かったために腹痛になってしまい、何度もトイレに駆け込む程のひどい状態が続いていました。<br /><br />朝を迎え、天気の方は予報とは逆に快晴となったのですが、腹の調子は悪いままです。

三河へ 磔刑台に咲いた忠義の花

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2012/09/15 - 2012/09/17

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倫清堂

倫清堂さん

以前、岡崎へ家康公に関連する史跡を訪ねに行った際、飛行機の遅れで予定のいくつかを断念せざるを得なくなったことがありました。

講義の終了後、豊橋在住の自衛官の知人と会うことになったので、この時に行けなかった所やその周辺など、改めて訪れてみることにしました。

ただし2つの心配要素がありました。

ひとつは天気。

台風が沖縄を通過中のため、雨が降る予報が出ていました。

もうひとつは自らの体調。

移動に夜行バスを利用したのですが、冷房が強かったために腹痛になってしまい、何度もトイレに駆け込む程のひどい状態が続いていました。

朝を迎え、天気の方は予報とは逆に快晴となったのですが、腹の調子は悪いままです。

  • 講義を終えてから豊橋へ向かい、自衛官の友人と会食。<br /><br />つい楽しくて、食べ物・飲み物をたくさん胃袋に流し込んでしまいました。<br /><br />腹の調子が心配な時は朝食を抜くようにしているのですが、今回は行動開始も早かったため、ホテルで朝食が準備されるより早くチェックアウト。<br /><br />豊橋駅前のホテルから、飯田線に乗って豊川駅へ。<br /><br />まず朝一番で豊川稲荷参拝へと向かいました。<br /><br />ここまでは順調だったのですが、駅前のキツネのオブジェを見ながら、ここまで来た感慨にふけっていた所に、あの嫌な感覚。<br /><br />すぐ近くの公衆便所へ掛け込みました。<br /><br />このようなことが何回か続いたのですが、そのたびに書いていたら自分でも嫌になってしまうので、もう書きません。

    講義を終えてから豊橋へ向かい、自衛官の友人と会食。

    つい楽しくて、食べ物・飲み物をたくさん胃袋に流し込んでしまいました。

    腹の調子が心配な時は朝食を抜くようにしているのですが、今回は行動開始も早かったため、ホテルで朝食が準備されるより早くチェックアウト。

    豊橋駅前のホテルから、飯田線に乗って豊川駅へ。

    まず朝一番で豊川稲荷参拝へと向かいました。

    ここまでは順調だったのですが、駅前のキツネのオブジェを見ながら、ここまで来た感慨にふけっていた所に、あの嫌な感覚。

    すぐ近くの公衆便所へ掛け込みました。

    このようなことが何回か続いたのですが、そのたびに書いていたら自分でも嫌になってしまうので、もう書きません。

  • 豊川駅から豊川稲荷までの参道は、昭和の街を再現したような情緒あふれる街並みでした。<br /><br />10分も歩かないうちに、豊川稲荷の総門に到着。<br /><br />よく見えませんが、頭上には十六羅漢が祀られており、参拝者はこの十六羅漢の下をくぐって境内に入ることになります。

    豊川駅から豊川稲荷までの参道は、昭和の街を再現したような情緒あふれる街並みでした。

    10分も歩かないうちに、豊川稲荷の総門に到着。

    よく見えませんが、頭上には十六羅漢が祀られており、参拝者はこの十六羅漢の下をくぐって境内に入ることになります。

    豊川稲荷 寺・神社・教会

  • 豊川稲荷の境内はとても広く、多くの社殿が建てられています。<br /><br />正面から入って左側に鳥居があり、その奥に鎮座しているのが大本殿です。<br /><br />鳥居があり、お稲荷さまが祀られているため、鎮座と書きましたが、正式には豊川稲荷は神社ではなくお寺です。<br /><br />内陣の中央には寒巌義尹作の豊川咤枳尼真天の御本尊が、その両隣には伏見宮家から贈られた毘沙門天と有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩が安置されています。<br /><br />また、明治時代に有栖川宮家より下賜された「豊川閣」の大額が掲げられていることから、豊川稲荷そのものが「豊川閣」と称されることになったとのことです。

    豊川稲荷の境内はとても広く、多くの社殿が建てられています。

    正面から入って左側に鳥居があり、その奥に鎮座しているのが大本殿です。

    鳥居があり、お稲荷さまが祀られているため、鎮座と書きましたが、正式には豊川稲荷は神社ではなくお寺です。

    内陣の中央には寒巌義尹作の豊川咤枳尼真天の御本尊が、その両隣には伏見宮家から贈られた毘沙門天と有栖川宮家から贈られた聖観世音菩薩が安置されています。

    また、明治時代に有栖川宮家より下賜された「豊川閣」の大額が掲げられていることから、豊川稲荷そのものが「豊川閣」と称されることになったとのことです。

  • 奥の院へ向かう参道脇には、信徒によって奉納された小幟がずらりと並んで立てられています。<br /><br />その幟の奥に見えるのが三重の塔。

    奥の院へ向かう参道脇には、信徒によって奉納された小幟がずらりと並んで立てられています。

    その幟の奥に見えるのが三重の塔。

  • 大本殿の周辺が開かれた雰囲気であるのに対し、奥の院への参道は薄暗い森の中にあり、明と暗の世界観を思わせるものがありました。<br /><br />豊臣秀吉公の念持仏を奉祀する禅堂、名匠諏訪ノ和四郎による彫刻が施された奥の院、信徒が狐像を奉納する霊狐塚などがあります。<br /><br />豊川稲荷は曹洞宗に属します。<br /><br />縁起によると、鎌倉時代の禅僧で第84代順徳天皇の第三皇子寒巌義尹が留学先の宋から帰国する海路の途中で咤枳尼真天の加護を受けたのが始まりで、その教えを受け継ぐ東海義易が寒巌作による咤枳尼真天を祀るための寺を建てたのが、この妙厳寺=豊川稲荷なのだそうです。

    大本殿の周辺が開かれた雰囲気であるのに対し、奥の院への参道は薄暗い森の中にあり、明と暗の世界観を思わせるものがありました。

    豊臣秀吉公の念持仏を奉祀する禅堂、名匠諏訪ノ和四郎による彫刻が施された奥の院、信徒が狐像を奉納する霊狐塚などがあります。

    豊川稲荷は曹洞宗に属します。

    縁起によると、鎌倉時代の禅僧で第84代順徳天皇の第三皇子寒巌義尹が留学先の宋から帰国する海路の途中で咤枳尼真天の加護を受けたのが始まりで、その教えを受け継ぐ東海義易が寒巌作による咤枳尼真天を祀るための寺を建てたのが、この妙厳寺=豊川稲荷なのだそうです。

  • 森を一周して再び大本殿の近くまで戻ると、先ほどは目に入りませんでしたが、立派な庭園があることに気付きました。

    森を一周して再び大本殿の近くまで戻ると、先ほどは目に入りませんでしたが、立派な庭園があることに気付きました。

  • 最後に文化10年に改築された法堂へ。<br /><br />こちらには妙厳寺本尊の千手観音像が安置されています。<br /><br />この千手観音がどこからどのような経緯で来たのかは分かりませんが、咤枳尼真天については解釈が明確です。<br /><br />咤枳尼真天はインドで信仰される女神で、白狐に乗って稲束をかつぐ姿で知られていることから、日本では稲荷神に習合されました。<br /><br />強大な権限を持った明治政府でも、稲荷神を神社から引き離すことができなかったのは、稲荷神の掴みどころのない曖昧な性格が幸いしたのかも知れません。

    最後に文化10年に改築された法堂へ。

    こちらには妙厳寺本尊の千手観音像が安置されています。

    この千手観音がどこからどのような経緯で来たのかは分かりませんが、咤枳尼真天については解釈が明確です。

    咤枳尼真天はインドで信仰される女神で、白狐に乗って稲束をかつぐ姿で知られていることから、日本では稲荷神に習合されました。

    強大な権限を持った明治政府でも、稲荷神を神社から引き離すことができなかったのは、稲荷神の掴みどころのない曖昧な性格が幸いしたのかも知れません。

  • 豊川駅から飯田線に乗り、豊川とは逆の方向へ向かいます。<br /><br />目指すは、戦国の歴史を大きく変えた長篠の戦いの地。<br /><br />武田信玄晴信公亡き後、武田家を継いだ勝頼公は徳川氏が治める三河へと侵出し、国境の長篠城を取り囲んだことで、長篠の戦いの火ぶたは切って落とされたのです。<br /><br />長篠の戦いと言えば三段撃ちで有名ですが、これは長篠の戦い全体において特に設楽原の戦いと呼ばれる一場面に過ぎず、長篠城では表に出ない外交工作や人間劇が繰り広げられたのでした。<br /><br />豊川駅から1時間弱で長篠城駅に到着。<br /><br />無人駅なので車掌さんに清算してもらい、いざ長篠城へと向かいました。

    豊川駅から飯田線に乗り、豊川とは逆の方向へ向かいます。

    目指すは、戦国の歴史を大きく変えた長篠の戦いの地。

    武田信玄晴信公亡き後、武田家を継いだ勝頼公は徳川氏が治める三河へと侵出し、国境の長篠城を取り囲んだことで、長篠の戦いの火ぶたは切って落とされたのです。

    長篠の戦いと言えば三段撃ちで有名ですが、これは長篠の戦い全体において特に設楽原の戦いと呼ばれる一場面に過ぎず、長篠城では表に出ない外交工作や人間劇が繰り広げられたのでした。

    豊川駅から1時間弱で長篠城駅に到着。

    無人駅なので車掌さんに清算してもらい、いざ長篠城へと向かいました。

  • 長篠城駅から長篠城跡までは、徒歩で10分もかかりません。<br /><br />細い一本道を歩いていると、搦手門跡の石組を見つけました。<br /><br />しかし、その辺の不要になった石をただ積んだだけのように見えます。<br /><br />説明書きもなく、貴重な遺構がこのような扱いをされてもよいものなのか、疑問に思いました。

    長篠城駅から長篠城跡までは、徒歩で10分もかかりません。

    細い一本道を歩いていると、搦手門跡の石組を見つけました。

    しかし、その辺の不要になった石をただ積んだだけのように見えます。

    説明書きもなく、貴重な遺構がこのような扱いをされてもよいものなのか、疑問に思いました。

  • 長篠城跡には、長篠城址史跡保存館が建てられています。<br /><br />到着したのは開館の9時前だったため、先に本丸を散策することにしました。<br /><br />実際に歩いてみると、散策できるほどの広さはありません。<br /><br />本丸の一部には飯田線の線路がかかってしまっており、ただでさえ狭い本丸跡地がますます削られてしまいました。<br /><br />長篠城は永世5年、今川氏親公に近かった菅沼氏によって築城され、その後は徳川氏と武田氏の間で取ったり取られたりという時代が続きました。<br /><br />状況が一変したのは元亀4年の晴信公の死によってでした。<br /><br />武田軍が一時的に兵を引いたのを好機とし、徳川軍は菅沼氏から城を奪い、城を拡張して奥平信昌公を城主に置いたのでした。<br /><br />三河の豪族であった信昌公は、武田氏が三河に侵出した時、一度は武田に属した経緯があります。<br /><br />しかし、奥平氏の協力は三河の守りには重要だったため、家康公はどうしても奥平氏の協力を得る必要がありました。<br /><br />そこで家康公がとった行動は、娘の亀姫を信昌公の嫁に入れる血縁外交でした。<br /><br />これによって信昌公は徳川氏に属することとなりますが、彼が武田氏を見限ったのは、やはり晴信公の死と勝頼公への不信があったのだと思います。

    長篠城跡には、長篠城址史跡保存館が建てられています。

    到着したのは開館の9時前だったため、先に本丸を散策することにしました。

    実際に歩いてみると、散策できるほどの広さはありません。

    本丸の一部には飯田線の線路がかかってしまっており、ただでさえ狭い本丸跡地がますます削られてしまいました。

    長篠城は永世5年、今川氏親公に近かった菅沼氏によって築城され、その後は徳川氏と武田氏の間で取ったり取られたりという時代が続きました。

    状況が一変したのは元亀4年の晴信公の死によってでした。

    武田軍が一時的に兵を引いたのを好機とし、徳川軍は菅沼氏から城を奪い、城を拡張して奥平信昌公を城主に置いたのでした。

    三河の豪族であった信昌公は、武田氏が三河に侵出した時、一度は武田に属した経緯があります。

    しかし、奥平氏の協力は三河の守りには重要だったため、家康公はどうしても奥平氏の協力を得る必要がありました。

    そこで家康公がとった行動は、娘の亀姫を信昌公の嫁に入れる血縁外交でした。

    これによって信昌公は徳川氏に属することとなりますが、彼が武田氏を見限ったのは、やはり晴信公の死と勝頼公への不信があったのだと思います。

    長篠城址 名所・史跡

  • 信昌公が信昌を名乗るまでは、貞昌という名前でした。<br /><br />長篠城が厳しい籠城戦に耐えたからこそ、織田・徳川同盟軍は設楽原で武田軍に壊滅的な打撃を与えることができたのだと、信長公は非常に高く彼を評価したのです。<br /><br />そして、自らの偏諱「信」の字を与え、信昌を名乗ることを許したのでした。<br /><br />城を取り囲む1万5000の武田軍に対し、籠城した奥平軍はわずか500の兵しかありませんでした。<br /><br />これほどの兵力差がありながら城が持ちこたえた例は、大楠公による千早城の攻防など数える程度です。<br /><br />それほどまで強固な守りを可能にしたのは、やはり天然の地形を利用した縄張が一番の理由でしょう。<br /><br />豊川と宇連川の合流する断崖が三方からの攻撃を遮断し、残り1方を堀と石垣で固めれば、どんな大軍も攻めようがありません。<br /><br />あとは援軍が来るまで、籠城する兵士たちが裏切ることなく団結を維持してくれればよいのですが、実はこれが最も難しい条件だったりするのです。

    信昌公が信昌を名乗るまでは、貞昌という名前でした。

    長篠城が厳しい籠城戦に耐えたからこそ、織田・徳川同盟軍は設楽原で武田軍に壊滅的な打撃を与えることができたのだと、信長公は非常に高く彼を評価したのです。

    そして、自らの偏諱「信」の字を与え、信昌を名乗ることを許したのでした。

    城を取り囲む1万5000の武田軍に対し、籠城した奥平軍はわずか500の兵しかありませんでした。

    これほどの兵力差がありながら城が持ちこたえた例は、大楠公による千早城の攻防など数える程度です。

    それほどまで強固な守りを可能にしたのは、やはり天然の地形を利用した縄張が一番の理由でしょう。

    豊川と宇連川の合流する断崖が三方からの攻撃を遮断し、残り1方を堀と石垣で固めれば、どんな大軍も攻めようがありません。

    あとは援軍が来るまで、籠城する兵士たちが裏切ることなく団結を維持してくれればよいのですが、実はこれが最も難しい条件だったりするのです。

  • その点、長篠城に籠った500人の兵士たちの主君に対する忠誠は不動のものでした。<br /><br />そして信昌公もまた、血縁となった徳川家康公を裏切ったりするどころか、必ず援軍が来るその時まで城を守る信念を貫いたのでした。<br /><br />その信義の操の陰に、一人の奥平家臣の功績があります。<br /><br />彼の名は鳥居強右衛門勝商。<br /><br />城の守りは固いものの、武田軍の兵による火矢で兵糧庫を焼かれてしまい長期籠城が不可能となったため、援軍を要請する必要が生じたのでした。<br /><br />そこで、幾重にも取り囲む武田の包囲を突破し、家康公の居城である岡崎城へ駆け込む者を募ったところ、鳥居強右衛門が手を挙げたのでした。<br /><br />雑兵だった彼は得意の水泳術を活かして崖下の川を渡り、農民や樵に偽装して厳重な包囲をかいくぐり、みごとその外へと抜け出すことに成功したのでした。<br /><br />岡崎城では、同盟を組んでいる織田の軍隊が到着し、今にも長篠城救援の兵を送ろうとしているさなかでした。<br /><br />強右衛門はここで自らの役目を終えたとは考えず、仲間たちが待つ長篠城へ急いで戻り、一時でも早くこのことを伝えようと、再び武田軍の包囲の中へと飛び込んで行ったのでした。

    その点、長篠城に籠った500人の兵士たちの主君に対する忠誠は不動のものでした。

    そして信昌公もまた、血縁となった徳川家康公を裏切ったりするどころか、必ず援軍が来るその時まで城を守る信念を貫いたのでした。

    その信義の操の陰に、一人の奥平家臣の功績があります。

    彼の名は鳥居強右衛門勝商。

    城の守りは固いものの、武田軍の兵による火矢で兵糧庫を焼かれてしまい長期籠城が不可能となったため、援軍を要請する必要が生じたのでした。

    そこで、幾重にも取り囲む武田の包囲を突破し、家康公の居城である岡崎城へ駆け込む者を募ったところ、鳥居強右衛門が手を挙げたのでした。

    雑兵だった彼は得意の水泳術を活かして崖下の川を渡り、農民や樵に偽装して厳重な包囲をかいくぐり、みごとその外へと抜け出すことに成功したのでした。

    岡崎城では、同盟を組んでいる織田の軍隊が到着し、今にも長篠城救援の兵を送ろうとしているさなかでした。

    強右衛門はここで自らの役目を終えたとは考えず、仲間たちが待つ長篠城へ急いで戻り、一時でも早くこのことを伝えようと、再び武田軍の包囲の中へと飛び込んで行ったのでした。

  • 事前の下調べで、鳥居強右衛門が刑死した場所に顕彰碑が立てられていることを知っていました。<br /><br />長篠城からすぐの場所であるのは間違いないのですが、詳しい場所は調べてもはっきりせず、現地で確認すればよいと考えていました。<br /><br />案内看板を見つけて確認してみたところ、確かに距離的には目と鼻の先なのですが、豊川を渡った先にあり、そこまで続く道路は意地悪なほど遠回りをしているのです。<br /><br />距離にしておよそ2キロメートル。<br /><br />しかもはっきりとした場所までは分からないので、探すための時間も必要になるかも知れません。<br /><br />次に乗る電車が来るまで、残された時間はあと1時間半。<br /><br />保存館の開館時刻となっていましたが、迷うことなく顕彰碑を求めて歩き出したのでした。

    事前の下調べで、鳥居強右衛門が刑死した場所に顕彰碑が立てられていることを知っていました。

    長篠城からすぐの場所であるのは間違いないのですが、詳しい場所は調べてもはっきりせず、現地で確認すればよいと考えていました。

    案内看板を見つけて確認してみたところ、確かに距離的には目と鼻の先なのですが、豊川を渡った先にあり、そこまで続く道路は意地悪なほど遠回りをしているのです。

    距離にしておよそ2キロメートル。

    しかもはっきりとした場所までは分からないので、探すための時間も必要になるかも知れません。

    次に乗る電車が来るまで、残された時間はあと1時間半。

    保存館の開館時刻となっていましたが、迷うことなく顕彰碑を求めて歩き出したのでした。

  • 便利な時代になったもので、スマートフォンの地図機能を利用すれば、おおよその自分の位置が分かります。<br /><br />これを持っていなければ、強右衛門の顕彰碑を探すことなど不可能だったのではないでしょうか。<br /><br />しかし機械は万能ではなく、地図のデータが最新ではないこともあります。<br /><br />今回はまさにそれでした。<br /><br />豊川にかかる橋を渡ったところまではよかったのですが、その先がどちらへ進めばよいのか、地図上でははっきりしません。<br /><br />ここで選んだ道は結局行き止まりだったため、10分ほど時間を失ってしまい、更に焦ることとなったのでした。<br /><br />秋の彼岸を間近にひかえた9月中旬ですが、気温は35度近くまで上がっています。<br /><br />滝のような汗が流れる一方で、腹痛から来る悪寒にも耐えながら、目指す石碑まで一歩一歩足を進めると、その先は大規模工事中の道なき道。<br /><br />飯田線の鳥居という駅を発見し、どうしても見つからない時はここから乗ろうと決め、更に先へ進みました。<br /><br />工事現場の看板によると、第二東名の建設工事だということです。

    便利な時代になったもので、スマートフォンの地図機能を利用すれば、おおよその自分の位置が分かります。

    これを持っていなければ、強右衛門の顕彰碑を探すことなど不可能だったのではないでしょうか。

    しかし機械は万能ではなく、地図のデータが最新ではないこともあります。

    今回はまさにそれでした。

    豊川にかかる橋を渡ったところまではよかったのですが、その先がどちらへ進めばよいのか、地図上でははっきりしません。

    ここで選んだ道は結局行き止まりだったため、10分ほど時間を失ってしまい、更に焦ることとなったのでした。

    秋の彼岸を間近にひかえた9月中旬ですが、気温は35度近くまで上がっています。

    滝のような汗が流れる一方で、腹痛から来る悪寒にも耐えながら、目指す石碑まで一歩一歩足を進めると、その先は大規模工事中の道なき道。

    飯田線の鳥居という駅を発見し、どうしても見つからない時はここから乗ろうと決め、更に先へ進みました。

    工事現場の看板によると、第二東名の建設工事だということです。

  • 建設途中の道路というのは、それまであった道を分断したり迂回させたりして建設が進められるものですから、旅人としての自分にはとても不気味な存在なのです。<br /><br />しかしさすが鳥居強右衛門。<br /><br />目安をつけた場所に差し掛かると、顕彰碑の場所を示す看板がかけられているのを発見し、ようやく安心感が生れました。<br /><br />結局強右衛門は長篠城に帰還することができず、武田の兵に捕えられてしまいます。<br /><br />取り調べによって織田・徳川の援軍到着が近いことを知った勝頼公は強右衛門に、援軍は来ないから諦めて城を明け渡すよう大声で伝えろと要求し、褒美として武田家臣として厚遇することを約束したのでした。<br /><br />強右衛門はこの要求を呑み、本丸に声が届く所まで連れて行かれました。<br /><br />彼の目には、籠城戦で傷つきやせ細った仲間たちの姿があったはずです。<br /><br />そして彼は大声で、「織田と徳川の軍が間もなく来るぞ。それまで何としても城を守るのだ」と叫んだのでした。<br /><br />激怒した勝頼公は城から見える所で強右衛門を磔にかけ、長篠城の兵たちが見守る中で殺害。<br /><br />しかし強右衛門に勇気づけられた長篠の兵士たちは籠城戦を戦い抜き、援軍が来るまでしのぎ切ることが出来たのでした。<br /><br />この顕彰碑は強右衛門が磔にされた場所に立てられたもので、だれが置いたのか花が供されていました。

    建設途中の道路というのは、それまであった道を分断したり迂回させたりして建設が進められるものですから、旅人としての自分にはとても不気味な存在なのです。

    しかしさすが鳥居強右衛門。

    目安をつけた場所に差し掛かると、顕彰碑の場所を示す看板がかけられているのを発見し、ようやく安心感が生れました。

    結局強右衛門は長篠城に帰還することができず、武田の兵に捕えられてしまいます。

    取り調べによって織田・徳川の援軍到着が近いことを知った勝頼公は強右衛門に、援軍は来ないから諦めて城を明け渡すよう大声で伝えろと要求し、褒美として武田家臣として厚遇することを約束したのでした。

    強右衛門はこの要求を呑み、本丸に声が届く所まで連れて行かれました。

    彼の目には、籠城戦で傷つきやせ細った仲間たちの姿があったはずです。

    そして彼は大声で、「織田と徳川の軍が間もなく来るぞ。それまで何としても城を守るのだ」と叫んだのでした。

    激怒した勝頼公は城から見える所で強右衛門を磔にかけ、長篠城の兵たちが見守る中で殺害。

    しかし強右衛門に勇気づけられた長篠の兵士たちは籠城戦を戦い抜き、援軍が来るまでしのぎ切ることが出来たのでした。

    この顕彰碑は強右衛門が磔にされた場所に立てられたもので、だれが置いたのか花が供されていました。

  • 勝頼公が要求した裏切りは、武士にとって最も恥ずべき行為のはずでした。<br /><br />このようなことを相手方の雑兵にまで強いるようでは、武田家の滅亡も当然の流れだったのではないかと思います。<br /><br />本来であるなら強右衛門の叫びは、敵であっても褒めたたえるべき勇気ある行いです。<br /><br />それに怒って公開処刑をするような主君に、武田家の家臣たちは未来を見ることは出来なかったのではないでしょうか。<br /><br />石碑に手を合わせ、長篠城へと引き返します。<br /><br />その途中には、馬場信房公の墓。<br /><br />武田四天王の一人として武田家を支えた信房公も、設楽原の戦いで討死した一人ですが、勝頼公には疎んじられていたと伝えられます。

    勝頼公が要求した裏切りは、武士にとって最も恥ずべき行為のはずでした。

    このようなことを相手方の雑兵にまで強いるようでは、武田家の滅亡も当然の流れだったのではないかと思います。

    本来であるなら強右衛門の叫びは、敵であっても褒めたたえるべき勇気ある行いです。

    それに怒って公開処刑をするような主君に、武田家の家臣たちは未来を見ることは出来なかったのではないでしょうか。

    石碑に手を合わせ、長篠城へと引き返します。

    その途中には、馬場信房公の墓。

    武田四天王の一人として武田家を支えた信房公も、設楽原の戦いで討死した一人ですが、勝頼公には疎んじられていたと伝えられます。

  • やはり保存館を見学できるだけの時間は残っていませんでした。<br /><br />少し心残りではありましたが、鳥居強右衛門磔死之碑まで歩いて行けたことに、自分の中では最大の満足を得ていました。<br /><br />駅に戻って電車を待つ間、服全体にしみ込んだ汗が鬱陶しい思いでしたが、小さな駅舎のそばで何やら曰くありげな植え込みを見つけました。<br /><br />説明書きによると、この木の名前は「さかさ桑」とのこと。<br /><br />勝頼公が長篠の戦いに敗れて落ち延びる際、民家で食べ物を得た際に使った桑の箸を土に差したところ、その後大きく成長したとの伝説が残されています。<br /><br />勝頼公の最期はあまりに惨めなものでしたが、彼自身はそこまで無能な武将だったわけではなく、偉大すぎる父が残した遺産と、その父をこよなく尊敬する家臣団が、彼を重圧によって潰してしまったと見ることも出来ます。<br /><br />ほぼ時間通りに電車が駅に着き、長篠をあとにしました。

    やはり保存館を見学できるだけの時間は残っていませんでした。

    少し心残りではありましたが、鳥居強右衛門磔死之碑まで歩いて行けたことに、自分の中では最大の満足を得ていました。

    駅に戻って電車を待つ間、服全体にしみ込んだ汗が鬱陶しい思いでしたが、小さな駅舎のそばで何やら曰くありげな植え込みを見つけました。

    説明書きによると、この木の名前は「さかさ桑」とのこと。

    勝頼公が長篠の戦いに敗れて落ち延びる際、民家で食べ物を得た際に使った桑の箸を土に差したところ、その後大きく成長したとの伝説が残されています。

    勝頼公の最期はあまりに惨めなものでしたが、彼自身はそこまで無能な武将だったわけではなく、偉大すぎる父が残した遺産と、その父をこよなく尊敬する家臣団が、彼を重圧によって潰してしまったと見ることも出来ます。

    ほぼ時間通りに電車が駅に着き、長篠をあとにしました。

  • 飯田線で豊橋方面に戻り、三河之宮駅で降りました。<br /><br />ここからは車で移動です。<br /><br />三河一宮と伝えていたのですが、知人は尾張一宮と勘違いして危うくそちらへ行ってしまうところだったと笑っていました。<br /><br />愛知県は旧令制国のうち尾張と三河から成り立っており、どちらにも一之宮が鎮座しています。<br /><br />一之宮巡礼をしていて思うのは、明治時代に日本全国を線路で結んだ際、その両方のお社へのアクセスを考慮して駅を開設した、人々の敬神の心の重さです。<br /><br />三河国一之宮の砥鹿神社は、駅から歩いても行ける距離に鎮座しています。<br /><br />本宮山で大己貴命をお祀りしたのが最初で、古文献によると、国土開拓を終えた大己貴命が日本各地の巡幸を終え、最後に鎮まったのが本茂山(本宮山)だったとのこと。<br /><br />現在は、本宮山のお社は奥宮として参拝客を集めているとのことですが、今回はそこまで行く余裕がないので、里宮のみ参拝することにしました。

    飯田線で豊橋方面に戻り、三河之宮駅で降りました。

    ここからは車で移動です。

    三河一宮と伝えていたのですが、知人は尾張一宮と勘違いして危うくそちらへ行ってしまうところだったと笑っていました。

    愛知県は旧令制国のうち尾張と三河から成り立っており、どちらにも一之宮が鎮座しています。

    一之宮巡礼をしていて思うのは、明治時代に日本全国を線路で結んだ際、その両方のお社へのアクセスを考慮して駅を開設した、人々の敬神の心の重さです。

    三河国一之宮の砥鹿神社は、駅から歩いても行ける距離に鎮座しています。

    本宮山で大己貴命をお祀りしたのが最初で、古文献によると、国土開拓を終えた大己貴命が日本各地の巡幸を終え、最後に鎮まったのが本茂山(本宮山)だったとのこと。

    現在は、本宮山のお社は奥宮として参拝客を集めているとのことですが、今回はそこまで行く余裕がないので、里宮のみ参拝することにしました。

    砥鹿神社 寺・神社・教会

  • 時代は下り文武天皇の御代、大宝年間のこと。<br /><br />天皇の病を癒すために勅使として遣わされた草鹿砥公宣卿は、三河の山中で道に迷ったものの、そこに現れた老翁に助けられて無事に祈願を済ませることができました。<br /><br />天皇の病も平癒し、卿はこの老翁に礼を述べるための勅使として再び遣わされると、老翁は山麓に新たに宮を建てることを望んだため、現在の里宮が建立されたのでした。<br /><br />素直に読めば、この老翁は大己貴命の化身ということになるでしょう。<br /><br />そして草鹿砥公宣卿が病気平癒祈願を行ったのが大己貴命を祀る奥宮で、神が止まったという「止所(とが)」という言葉に草鹿砥公宣卿の名前から2文字を借りて、「砥鹿神社」を称するようになったと考えることができます。

    時代は下り文武天皇の御代、大宝年間のこと。

    天皇の病を癒すために勅使として遣わされた草鹿砥公宣卿は、三河の山中で道に迷ったものの、そこに現れた老翁に助けられて無事に祈願を済ませることができました。

    天皇の病も平癒し、卿はこの老翁に礼を述べるための勅使として再び遣わされると、老翁は山麓に新たに宮を建てることを望んだため、現在の里宮が建立されたのでした。

    素直に読めば、この老翁は大己貴命の化身ということになるでしょう。

    そして草鹿砥公宣卿が病気平癒祈願を行ったのが大己貴命を祀る奥宮で、神が止まったという「止所(とが)」という言葉に草鹿砥公宣卿の名前から2文字を借りて、「砥鹿神社」を称するようになったと考えることができます。

  • 駐車場の隅には、末社の荒羽々気神社が鎮座しています。<br /><br />御祭神は大己貴命の荒魂とされますが、アラハバキの神は実は正体がはっきりしていません。<br /><br />奥宮の荒羽々気神社は東海唯一とされ、東北のアラハバキ神社と同じように草鞋が飾られています。

    駐車場の隅には、末社の荒羽々気神社が鎮座しています。

    御祭神は大己貴命の荒魂とされますが、アラハバキの神は実は正体がはっきりしていません。

    奥宮の荒羽々気神社は東海唯一とされ、東北のアラハバキ神社と同じように草鞋が飾られています。

  • 次に、鳥居強右衛門の生誕地とされる松永寺を目指しました。<br /><br />狭い路地に迷い込んでしまい、仕方が無いので車を脇に停め、寺の横の歩道を歩いて進むと、烈士鳥居勝商生誕地の碑を発見。

    次に、鳥居強右衛門の生誕地とされる松永寺を目指しました。

    狭い路地に迷い込んでしまい、仕方が無いので車を脇に停め、寺の横の歩道を歩いて進むと、烈士鳥居勝商生誕地の碑を発見。

  • お寺では法事が始まろうとしていたところだったので、なるべく目立たないように寺務所へ向かうと、センサーが反応したのか大きな呼び出し音が鳴ってしまいました。<br /><br />そこに現れた女性の方に事情を話し、強右衛門の木像が安置されるお堂へと入らせていただきました。<br /><br />豊川の神谷辰三郎氏が、有名な落合佐平次の旗指物を原図として彫刻したのもので、大正3年に開眼供養されました。<br /><br />木像の表情は怒っているようではなく、もちろん悲しい顔でもなく、全ての心配事から解放されたような安心感を思わせるもので、自然と手を合わせたくなるものでした。<br /><br />木像の上には「大和魂」の書がかけられており、身を犠牲にして主君に忠を尽くした行いを褒め称えているようでしたが、彼にとってはごく当たり前の行動だったのかも知れません。

    お寺では法事が始まろうとしていたところだったので、なるべく目立たないように寺務所へ向かうと、センサーが反応したのか大きな呼び出し音が鳴ってしまいました。

    そこに現れた女性の方に事情を話し、強右衛門の木像が安置されるお堂へと入らせていただきました。

    豊川の神谷辰三郎氏が、有名な落合佐平次の旗指物を原図として彫刻したのもので、大正3年に開眼供養されました。

    木像の表情は怒っているようではなく、もちろん悲しい顔でもなく、全ての心配事から解放されたような安心感を思わせるもので、自然と手を合わせたくなるものでした。

    木像の上には「大和魂」の書がかけられており、身を犠牲にして主君に忠を尽くした行いを褒め称えているようでしたが、彼にとってはごく当たり前の行動だったのかも知れません。

    松永寺 寺・神社・教会

  • ふと下を見ると、強右衛門が磔にされるシーンを再現したジオラマが目に入りました。<br /><br />残酷な場面ではありますが、こうして作品として製作するには最も適した歴史上の出来事の一つであることは間違いないでしょう。<br /><br />なかなか手の込んだ作りで、しばらく顔を近づけて見入ってしまいました。

    ふと下を見ると、強右衛門が磔にされるシーンを再現したジオラマが目に入りました。

    残酷な場面ではありますが、こうして作品として製作するには最も適した歴史上の出来事の一つであることは間違いないでしょう。

    なかなか手の込んだ作りで、しばらく顔を近づけて見入ってしまいました。

  • お昼は豊川名物のカレーうどんを食べる予定を立てていました。<br /><br />豊川のカレーうどんは他と違い、うどんの下にとろろご飯が敷かれています。<br /><br />下調べで検索をしたところ、たくさんの店が表示され、どの店もそれぞれ工夫をこらして美味しそうでした。<br /><br />しかし下調べでは実際の味まで感じることは出来ないので、どうしても見た目で選んでしまいます。<br /><br />自分が選んだのは、エビフライが乗って一番豪華そうな「そば源」のカレーうどん。<br /><br />戸隠そばを出すチェーン店ですが、豊川店はオリジナルのカレーうどんを出してくれます。<br /><br />辛さもちょうどよく、スープも最後の一滴まで食べ尽くすことができました。

    お昼は豊川名物のカレーうどんを食べる予定を立てていました。

    豊川のカレーうどんは他と違い、うどんの下にとろろご飯が敷かれています。

    下調べで検索をしたところ、たくさんの店が表示され、どの店もそれぞれ工夫をこらして美味しそうでした。

    しかし下調べでは実際の味まで感じることは出来ないので、どうしても見た目で選んでしまいます。

    自分が選んだのは、エビフライが乗って一番豪華そうな「そば源」のカレーうどん。

    戸隠そばを出すチェーン店ですが、豊川店はオリジナルのカレーうどんを出してくれます。

    辛さもちょうどよく、スープも最後の一滴まで食べ尽くすことができました。

    そば源 グルメ・レストラン

  • 腹も満ちたところで、次の目的地へ出発です。<br /><br />交通の便が悪く、なかなか機会がなくて未踏の地となっていた渥美半島へ、ついに行ける時が来ました。<br /><br />これと言って目立つ名所はありませんが、歴史好きにとって落とすことのできない見どころがあります。<br /><br />まず目指すは田原城跡ですが、その本丸跡に鎮座する巴江神社に参拝に行くことにしました。<br /><br />巴江神社については、事前に予習しても御祭神をはじめ何も分からなかったのですが、そういう時は現地へ行くに限ります。<br /><br />あわよくば神職の方にお話しを伺おうと境内へ向かうと、その期待はかなえられないことがすぐに分かりました。<br /><br />大規模なお祭りが行われており、拝殿の近くへ行くことすら出来ない状態だったのです。

    腹も満ちたところで、次の目的地へ出発です。

    交通の便が悪く、なかなか機会がなくて未踏の地となっていた渥美半島へ、ついに行ける時が来ました。

    これと言って目立つ名所はありませんが、歴史好きにとって落とすことのできない見どころがあります。

    まず目指すは田原城跡ですが、その本丸跡に鎮座する巴江神社に参拝に行くことにしました。

    巴江神社については、事前に予習しても御祭神をはじめ何も分からなかったのですが、そういう時は現地へ行くに限ります。

    あわよくば神職の方にお話しを伺おうと境内へ向かうと、その期待はかなえられないことがすぐに分かりました。

    大規模なお祭りが行われており、拝殿の近くへ行くことすら出来ない状態だったのです。

    田原城址 美術館・博物館

  • しかし逆に考えれば、このような機会に参拝できたのは僥倖だとも言えます。<br /><br />法被を着た係員らしき方に訪ねてみると、年に一度の大祭なのだということでした。<br /><br />神職ではないので神社の由緒などは全く知らないようです。<br /><br />しかし境内に案内表示を見つけたので読んでみたところ、御祭神は児島高徳公と書かれていて驚きました。<br /><br />まさかこんな所でお会い出来るとは。<br /><br />自分の勉強不足に対して反省をしなければなりません。<br /><br />神社の説明書きには、田原藩三宅氏の遠祖は児島高徳公であるとの記述がありました。<br /><br />係員らしき男性と話したり案内板を読んだりしているうちに、儀式を行っていた人たちはそれぞれ持ち場につき、手筒花火の打ち上げが始まりました。<br /><br />打ち上げる人の名前が呼ばれると、火縄を持った腕を大げさに降り、花火へと点火。<br /><br />もうもうと白煙が立ち込めた直後、乾いた破裂音がして花火が空へと打ち上げられるのでした。

    しかし逆に考えれば、このような機会に参拝できたのは僥倖だとも言えます。

    法被を着た係員らしき方に訪ねてみると、年に一度の大祭なのだということでした。

    神職ではないので神社の由緒などは全く知らないようです。

    しかし境内に案内表示を見つけたので読んでみたところ、御祭神は児島高徳公と書かれていて驚きました。

    まさかこんな所でお会い出来るとは。

    自分の勉強不足に対して反省をしなければなりません。

    神社の説明書きには、田原藩三宅氏の遠祖は児島高徳公であるとの記述がありました。

    係員らしき男性と話したり案内板を読んだりしているうちに、儀式を行っていた人たちはそれぞれ持ち場につき、手筒花火の打ち上げが始まりました。

    打ち上げる人の名前が呼ばれると、火縄を持った腕を大げさに降り、花火へと点火。

    もうもうと白煙が立ち込めた直後、乾いた破裂音がして花火が空へと打ち上げられるのでした。

  • 田原城は石垣以外の城郭は全て失われており、現在のものは全て復元です。<br /><br />築城したのは戸田宗光。<br /><br />当時は松平家に属していましたが、その後今川氏の傘下に入りました。<br /><br />そして康光の時、彼は今川氏の本拠地へ人質として送られる松平竹千代(後の家康公)を護送する任務を帯びますが、離反して織田信秀のもとへ送ってしまったのです。<br /><br />怒った今川義元は戸田氏を滅ぼしますが、家康公は天下統一後に戸田支族の尊次に田原藩を、またその遠縁にあたる戸田氏鉄に大垣藩を与え、幼少の頃の恩に報いることを忘れませんでした。<br /><br />その後三宅氏が入封し、幕末まで三宅氏の支配が続きました。

    田原城は石垣以外の城郭は全て失われており、現在のものは全て復元です。

    築城したのは戸田宗光。

    当時は松平家に属していましたが、その後今川氏の傘下に入りました。

    そして康光の時、彼は今川氏の本拠地へ人質として送られる松平竹千代(後の家康公)を護送する任務を帯びますが、離反して織田信秀のもとへ送ってしまったのです。

    怒った今川義元は戸田氏を滅ぼしますが、家康公は天下統一後に戸田支族の尊次に田原藩を、またその遠縁にあたる戸田氏鉄に大垣藩を与え、幼少の頃の恩に報いることを忘れませんでした。

    その後三宅氏が入封し、幕末まで三宅氏の支配が続きました。

  • 渥美半島は東西に伸びる地形で、もともと稲作にはあまり適していません。<br /><br />1万2000石を称していますが、実際の石高はそれよりも低く、その一方で小大名の扱いを受けていることから藩士の数は多く、財政は悪化する一方でした。<br /><br />破綻寸前の田原藩を救ったのは、11代藩主康直の時に家老に任命された渡辺崋山です。<br /><br />田原城跡から歩いてすぐの所に、渡辺崋山を祀る崋山神社が鎮座しています。

    渥美半島は東西に伸びる地形で、もともと稲作にはあまり適していません。

    1万2000石を称していますが、実際の石高はそれよりも低く、その一方で小大名の扱いを受けていることから藩士の数は多く、財政は悪化する一方でした。

    破綻寸前の田原藩を救ったのは、11代藩主康直の時に家老に任命された渡辺崋山です。

    田原城跡から歩いてすぐの所に、渡辺崋山を祀る崋山神社が鎮座しています。

  • 渡辺崋山は寛政5年に井戸の三宅藩邸で生れました。<br /><br />12歳の時に日本橋で、池田候の若殿の大名行列の前に飛び出してしまったために打擲され、同じ年代でなぜこうも境遇が違うのかと発憤し、貧しい生活の中で寝る時間も惜しみながら学問へと打ち込むことになります。<br /><br />谷文晁などに学ぶ絵が売れるようになると、ようやく生活にゆとりが生まれるようになり、父に酒を飲ませることもできるようになったのでした。<br /><br />家老に就任したのは40歳の時のことでした。<br /><br />藩校成章館の拡充や人材登用を積極的に行い、高野長英や小関三英と交わって尚歯会を結成し、蘭学によって飢饉などから民を守ることを目指しますが、個人的に書き連ねていた鎖国政策への批判書『慎機論』が発見され、自宅蟄居を命じられてしまったのでした。

    渡辺崋山は寛政5年に井戸の三宅藩邸で生れました。

    12歳の時に日本橋で、池田候の若殿の大名行列の前に飛び出してしまったために打擲され、同じ年代でなぜこうも境遇が違うのかと発憤し、貧しい生活の中で寝る時間も惜しみながら学問へと打ち込むことになります。

    谷文晁などに学ぶ絵が売れるようになると、ようやく生活にゆとりが生まれるようになり、父に酒を飲ませることもできるようになったのでした。

    家老に就任したのは40歳の時のことでした。

    藩校成章館の拡充や人材登用を積極的に行い、高野長英や小関三英と交わって尚歯会を結成し、蘭学によって飢饉などから民を守ることを目指しますが、個人的に書き連ねていた鎖国政策への批判書『慎機論』が発見され、自宅蟄居を命じられてしまったのでした。

  • また高野長英は幕府批判の罪で捕えられて永牢を命じられ、2人の処分を知った小関三英は自害してしまいました。<br /><br />この言論弾圧は蛮社の獄と呼ばれます。<br /><br />せっかく火が灯った文明の明かりが、朱子学を絶対とする幕府によって一気に吹き消される事態となったのです。<br /><br />この蛮社の獄を主導したのは、水野忠邦の側近であった鳥居耀蔵でした。<br /><br />鳥居氏は、磔にされた強右衛門や伏見城で壮絶な討死を遂げた鳥居元忠など、優れた人物を多数輩出していますが、鳥居耀蔵は彼らの功績を全て帳消しにしてしまうほど愚かな人物であったと言わざるをえません。<br /><br />もっとも鳥居耀蔵の実父は朱子学の本山である林大学頭ですから、鳥居氏が責められるのはお門違いと言えるかも知れませんが。<br /><br />崋山神社で参拝を終え、崋山の幽居跡のある池ノ原公園へと向かいました。

    また高野長英は幕府批判の罪で捕えられて永牢を命じられ、2人の処分を知った小関三英は自害してしまいました。

    この言論弾圧は蛮社の獄と呼ばれます。

    せっかく火が灯った文明の明かりが、朱子学を絶対とする幕府によって一気に吹き消される事態となったのです。

    この蛮社の獄を主導したのは、水野忠邦の側近であった鳥居耀蔵でした。

    鳥居氏は、磔にされた強右衛門や伏見城で壮絶な討死を遂げた鳥居元忠など、優れた人物を多数輩出していますが、鳥居耀蔵は彼らの功績を全て帳消しにしてしまうほど愚かな人物であったと言わざるをえません。

    もっとも鳥居耀蔵の実父は朱子学の本山である林大学頭ですから、鳥居氏が責められるのはお門違いと言えるかも知れませんが。

    崋山神社で参拝を終え、崋山の幽居跡のある池ノ原公園へと向かいました。

    池ノ原公園 公園・植物園

  • 江戸暮らしが続いた崋山にとって、自分が使える田原藩領での生活が罪人としてのそれであることは、耐えがたい思いであったと想像できます。<br /><br />幼少の頃の貧しい生活を余儀なくされた彼は、得意の絵を描き、それを弟子たちが売ってくれたお金で食いつなぐことにしますが、それでさえ不謹慎と謗られてしまいました。

    江戸暮らしが続いた崋山にとって、自分が使える田原藩領での生活が罪人としてのそれであることは、耐えがたい思いであったと想像できます。

    幼少の頃の貧しい生活を余儀なくされた彼は、得意の絵を描き、それを弟子たちが売ってくれたお金で食いつなぐことにしますが、それでさえ不謹慎と謗られてしまいました。

  • 藩に累が及ぶことを恐れた崋山は、「不忠不孝渡邉登」と絶筆の書をしたためると、屋敷の納屋で切腹して果てたのでした。<br /><br />この書は田原市博物館に収められていると思われますが、それを見るための時間は今はないので、池ノ原公園に立てられた不忠不孝碑だけを見ることにしました。<br /><br />かなり古い石碑で、しかも植え込みに囲まれているために近くまで寄れず、はっきりと文字を見ることはできませんでしたが、崋山の無念は感じることが出来ました。<br /><br />それにしても、鳥居の名を汚し、文明を拒んで幕府衰退を招いた鳥居耀蔵こそが「不忠不孝」の言葉の似合う人物なのですが、彼は明治の御代まで生き延びて、それなりに幸せな余生を送ったそうです。<br /><br />浮世とはかくも理不尽な世界ですが、だからこそ崋山のような自己犠牲を伴う功績は、一段と輝いて見えるのでしょう。

    藩に累が及ぶことを恐れた崋山は、「不忠不孝渡邉登」と絶筆の書をしたためると、屋敷の納屋で切腹して果てたのでした。

    この書は田原市博物館に収められていると思われますが、それを見るための時間は今はないので、池ノ原公園に立てられた不忠不孝碑だけを見ることにしました。

    かなり古い石碑で、しかも植え込みに囲まれているために近くまで寄れず、はっきりと文字を見ることはできませんでしたが、崋山の無念は感じることが出来ました。

    それにしても、鳥居の名を汚し、文明を拒んで幕府衰退を招いた鳥居耀蔵こそが「不忠不孝」の言葉の似合う人物なのですが、彼は明治の御代まで生き延びて、それなりに幸せな余生を送ったそうです。

    浮世とはかくも理不尽な世界ですが、だからこそ崋山のような自己犠牲を伴う功績は、一段と輝いて見えるのでしょう。

  • 翌日の飛行機に乗るため、この日はセントレア空港の近くのホテルに宿泊となります。<br /><br />東名道は必ず渋滞するので、伊良湖岬からフェリーで知多半島へ渡ることにしました。<br /><br />急ぎ足でたくさんの三河の名所を巡ることができ、また少し、先人と日本精神に対する知識が深まった気がします。

    翌日の飛行機に乗るため、この日はセントレア空港の近くのホテルに宿泊となります。

    東名道は必ず渋滞するので、伊良湖岬からフェリーで知多半島へ渡ることにしました。

    急ぎ足でたくさんの三河の名所を巡ることができ、また少し、先人と日本精神に対する知識が深まった気がします。

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