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西大寺をあとにして、薬師寺へ到着しました。<br /><br />薬師寺といえば東京で開かれた薬師寺展にて日光・月光菩薩様の二人旅にあった以来の再会です。<br />いざ、悠久の白鳳伽藍へ。<br /><br /><br />薬師寺は天武九年(680)、天武天皇による皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願の発願によって飛鳥の藤原京に創建されたお寺です。<br /><br />持統十一年(697)に天武天皇の崩御後、遺志を受け継いだ持統天皇によって本尊の開眼供養が行われます。<br />七堂伽藍の造営は継続され文武天皇の代まで伽藍の建設が続けられました。<br /><br />和銅三年(710)の平城京遷都によって現在地へ移され今日に至ります。<br />享禄元年(1528)の兵火の際には現在の東塔を残してほとんどのお堂などの建物は焼失してしまいました。<br /><br />昭和四十二年(1967)、白鳳伽藍の復興発願によって写経勧進が始まります。<br />薬師寺はこの写経勧進で金堂・西塔・中門・大講堂・廻廊等を復興建立しました。<br /><br />現在は東塔が修復に入っています。<br /><br /><br />奈良はシルクロードの終着点。<br />現在の京都に都が移った後も奈良は国際交流の拠点として文化交流が盛んでした。<br />

うまし うるわし、あをによし。 3日目 ② [シルクロードの果て、薬師寺へ]

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2012/05/14 - 2012/05/17

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フロッガー

フロッガーさん

西大寺をあとにして、薬師寺へ到着しました。

薬師寺といえば東京で開かれた薬師寺展にて日光・月光菩薩様の二人旅にあった以来の再会です。
いざ、悠久の白鳳伽藍へ。


薬師寺は天武九年(680)、天武天皇による皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願の発願によって飛鳥の藤原京に創建されたお寺です。

持統十一年(697)に天武天皇の崩御後、遺志を受け継いだ持統天皇によって本尊の開眼供養が行われます。
七堂伽藍の造営は継続され文武天皇の代まで伽藍の建設が続けられました。

和銅三年(710)の平城京遷都によって現在地へ移され今日に至ります。
享禄元年(1528)の兵火の際には現在の東塔を残してほとんどのお堂などの建物は焼失してしまいました。

昭和四十二年(1967)、白鳳伽藍の復興発願によって写経勧進が始まります。
薬師寺はこの写経勧進で金堂・西塔・中門・大講堂・廻廊等を復興建立しました。

現在は東塔が修復に入っています。


奈良はシルクロードの終着点。
現在の京都に都が移った後も奈良は国際交流の拠点として文化交流が盛んでした。

交通手段
高速・路線バス レンタカー 新幹線 JRローカル 徒歩

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  • 南側の駐車場から。<br />こちら側から薬師寺に入ると南門へ向かう参道になります。<br /><br />見えている建物は、AMRIT。<br />カフェやらレストラン等が入っています。

    南側の駐車場から。
    こちら側から薬師寺に入ると南門へ向かう参道になります。

    見えている建物は、AMRIT。
    カフェやらレストラン等が入っています。

  • 南門。<br />室町時代の永正九年(1512)に建てられたものです。<br />薬師寺西院の門から移設されました。

    南門。
    室町時代の永正九年(1512)に建てられたものです。
    薬師寺西院の門から移設されました。

  • 中門。

    中門。

  • 中門は昭和五十九年(1984)に再建されました。<br />門の両側に回廊がつながり、それぞれ西回廊・東回廊になります。<br /><br />平成三年(1991)には二天王像も復元されています。

    中門は昭和五十九年(1984)に再建されました。
    門の両側に回廊がつながり、それぞれ西回廊・東回廊になります。

    平成三年(1991)には二天王像も復元されています。

  • まだ新しいため煌びやか。<br />足元には邪鬼もいます。

    まだ新しいため煌びやか。
    足元には邪鬼もいます。

  • う〜む、シルクロードの風。

    う〜む、シルクロードの風。

  • 薬師寺・金堂。<br />創建時には竜宮造と呼ばれる絢爛な建物で、復元された金堂も創建時に倣った色彩です。<br />内部は朱色一色にみえるほど鮮やか。<br />天井には東塔の内部に描かれていた柄を復元させています。<br />薬師如来坐像の台座にはギリシャの唐草文様、ペルシャの蓮華文様が描かれていて、中央にはインドの神々が描かれます。<br />奈良がシルクロードの終着点と言われるように、当時文化交流が東西で行われていたことを示すものです。<br /><br /><br />本尊である、薬師如来様を中心に脇侍として向かい右側に日光菩薩様と左側に月光菩薩様がおられます。<br />いわゆる薬師三尊像。<br /><br />修学旅行に行くと、お坊さんの説明で薬師如来様はお医者さんで、日光・月光菩薩様はナースなんですと言っていたのを思い出します(笑)<br /><br />この薬師三尊像は正確な造像(鋳造)の年度はわかっていないようです。<br />これは平城京遷都の際に薬師寺もこの地へ移動することになりますが、藤原薬師寺(本薬師寺)には塔が4つあって、うち2つを平城京に移したとする文書や現在の薬師寺からも藤原薬師寺時代の瓦などが出土していることからどこまでが移設・新造されているのかはっきりしないためです。<br /><br />上記のことは『薬師寺縁起』によりますが、これは藤原京薬師寺と平城京薬師寺が両方ともに並行して存在していたことになります。<br /><br /><br />金堂は享禄元年(1528)の兵火によって焼失。<br />のちに豊臣家が仮の金堂を建てて、将来的に金堂を再建予定としていましたが、豊臣家は滅亡します。<br />そのため唯一残った東塔と仮の金堂のまま400年近くを過ごすことになります。<br /><br />昭和五十一年(1976)復興、西塔・中門・玄奘三蔵院とともに昭和時代最後の宮大工棟梁と呼ばれた西岡常一の設計。<br />西岡棟梁は金堂建立にあたってオリジナルのまま総木造建築で建てようとしていましたが、薬師三尊堂を災害から守るために基礎と中央部分は仏像を包むように鉄筋コンクリート製になっています。<br /><br />

    薬師寺・金堂。
    創建時には竜宮造と呼ばれる絢爛な建物で、復元された金堂も創建時に倣った色彩です。
    内部は朱色一色にみえるほど鮮やか。
    天井には東塔の内部に描かれていた柄を復元させています。
    薬師如来坐像の台座にはギリシャの唐草文様、ペルシャの蓮華文様が描かれていて、中央にはインドの神々が描かれます。
    奈良がシルクロードの終着点と言われるように、当時文化交流が東西で行われていたことを示すものです。


    本尊である、薬師如来様を中心に脇侍として向かい右側に日光菩薩様と左側に月光菩薩様がおられます。
    いわゆる薬師三尊像。

    修学旅行に行くと、お坊さんの説明で薬師如来様はお医者さんで、日光・月光菩薩様はナースなんですと言っていたのを思い出します(笑)

    この薬師三尊像は正確な造像(鋳造)の年度はわかっていないようです。
    これは平城京遷都の際に薬師寺もこの地へ移動することになりますが、藤原薬師寺(本薬師寺)には塔が4つあって、うち2つを平城京に移したとする文書や現在の薬師寺からも藤原薬師寺時代の瓦などが出土していることからどこまでが移設・新造されているのかはっきりしないためです。

    上記のことは『薬師寺縁起』によりますが、これは藤原京薬師寺と平城京薬師寺が両方ともに並行して存在していたことになります。


    金堂は享禄元年(1528)の兵火によって焼失。
    のちに豊臣家が仮の金堂を建てて、将来的に金堂を再建予定としていましたが、豊臣家は滅亡します。
    そのため唯一残った東塔と仮の金堂のまま400年近くを過ごすことになります。

    昭和五十一年(1976)復興、西塔・中門・玄奘三蔵院とともに昭和時代最後の宮大工棟梁と呼ばれた西岡常一の設計。
    西岡棟梁は金堂建立にあたってオリジナルのまま総木造建築で建てようとしていましたが、薬師三尊堂を災害から守るために基礎と中央部分は仏像を包むように鉄筋コンクリート製になっています。

  • 西塔。<br /><br />昭和五十六年(1986)四月復興、創建時の塗装に限りなく近い状態です。<br />いわゆる「青丹良し」。<br />三重塔がひさし(裳階)によって六重に見えます。<br />現在修復している東塔も修復前には軒下などに朱色の色が残っており、西塔のように鮮やかな色彩であったと言われます。<br /><br />内部には釈迦成道像・初転法輪像・釈迦涅槃像・弥勒如来像が安置されます。<br />現在は東塔より80cmほど高く造ってあり、これは長期において現存する場合の木材収縮、地盤の沈下を考えてとのことです。<br />西岡棟梁によれば、500年ほどで現在の東塔の高さと揃うとのことです。<br /><br />また修復前の東塔と西塔の屋根の勾配や窓などの意匠が違うのは、西塔は創建時のオリジナル状態を求めたものであり、東塔は修復されて今日まで来ていることから各部に違いが出ているものとなっています。<br /><br />

    西塔。

    昭和五十六年(1986)四月復興、創建時の塗装に限りなく近い状態です。
    いわゆる「青丹良し」。
    三重塔がひさし(裳階)によって六重に見えます。
    現在修復している東塔も修復前には軒下などに朱色の色が残っており、西塔のように鮮やかな色彩であったと言われます。

    内部には釈迦成道像・初転法輪像・釈迦涅槃像・弥勒如来像が安置されます。
    現在は東塔より80cmほど高く造ってあり、これは長期において現存する場合の木材収縮、地盤の沈下を考えてとのことです。
    西岡棟梁によれば、500年ほどで現在の東塔の高さと揃うとのことです。

    また修復前の東塔と西塔の屋根の勾配や窓などの意匠が違うのは、西塔は創建時のオリジナル状態を求めたものであり、東塔は修復されて今日まで来ていることから各部に違いが出ているものとなっています。

  • 大講堂。<br />創建は文武天皇時代、持統上皇によって開眼供養が行われました。<br /><br />薬師寺伽藍の中で最大の建物です。<br />それでも創建時よりも1/2の大きさ。<br /><br />大講堂に祀られているのは弥勒如来三尊像(大講堂復元によって名称変更)です。 <br />向かって右に「法苑林菩薩(ほうおんりん)」で、左に「大妙相菩薩(だいみょうそう)です。<br /><br /><br />昭和の伽藍復興当時は鉄筋コンクリート最強説の時代。<br />西岡棟梁はコンクリートは300年しか持たないけれども木材ならば1000年は持たせられるとして、金属やコンクリートを主要部分に使うことを固辞していたと言われます。<br />それに対して学者や行政が江戸後期の技術である金属を使うことや、防災観点での近代建設技術を使うことにこだわり対峙することになりました。<br /><br /><br />平成年代に入り、コンクリートの強度が保たれる期間は思った以上に短いことが各地でのコンクリート剥離等の問題から浮き彫りになってきました。<br />薬師寺の金堂も、コンクリート部分は劣化が始まっていることがわかっているようです。<br />晩年、西岡棟梁は木材だけで造れなかった事を後悔していたと言われます。<br /><br />木造建築の最大の弱点はまず火災です。<br />しかし、1000年以上を生き残ってきた木造建築がある以上は復元とすれば総木材での建設が一番なのかもしれません。<br /><br />修理・修復などでは現代の技術をとりこむのは良いことだとは思います。<br />仏像修復でも、わざと部材を違う物を使ったりして後世に修復が分かるようにするのが現代の修復主流です。<br /><br />まったくの新造での復元となるのであれば、現代の技術は火災等の災害を防ぐこと、これを万全にするために使った方が良かったのではと思います。

    大講堂。
    創建は文武天皇時代、持統上皇によって開眼供養が行われました。

    薬師寺伽藍の中で最大の建物です。
    それでも創建時よりも1/2の大きさ。

    大講堂に祀られているのは弥勒如来三尊像(大講堂復元によって名称変更)です。 
    向かって右に「法苑林菩薩(ほうおんりん)」で、左に「大妙相菩薩(だいみょうそう)です。


    昭和の伽藍復興当時は鉄筋コンクリート最強説の時代。
    西岡棟梁はコンクリートは300年しか持たないけれども木材ならば1000年は持たせられるとして、金属やコンクリートを主要部分に使うことを固辞していたと言われます。
    それに対して学者や行政が江戸後期の技術である金属を使うことや、防災観点での近代建設技術を使うことにこだわり対峙することになりました。


    平成年代に入り、コンクリートの強度が保たれる期間は思った以上に短いことが各地でのコンクリート剥離等の問題から浮き彫りになってきました。
    薬師寺の金堂も、コンクリート部分は劣化が始まっていることがわかっているようです。
    晩年、西岡棟梁は木材だけで造れなかった事を後悔していたと言われます。

    木造建築の最大の弱点はまず火災です。
    しかし、1000年以上を生き残ってきた木造建築がある以上は復元とすれば総木材での建設が一番なのかもしれません。

    修理・修復などでは現代の技術をとりこむのは良いことだとは思います。
    仏像修復でも、わざと部材を違う物を使ったりして後世に修復が分かるようにするのが現代の修復主流です。

    まったくの新造での復元となるのであれば、現代の技術は火災等の災害を防ぐこと、これを万全にするために使った方が良かったのではと思います。

  • 大宝蔵殿。<br />薬師寺の美術品を収蔵していて、年に4回期間限定公開です。

    大宝蔵殿。
    薬師寺の美術品を収蔵していて、年に4回期間限定公開です。

  • 玄奘三蔵院伽藍へ。

    玄奘三蔵院伽藍へ。

  • 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は西遊記で有名な三蔵法師のモデルになったお坊さんです。<br /><br />唐の僧侶であった玄奘は17年をかけて西の国やインドを巡り、経典や仏具を持ち帰ったと言われます。

    玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は西遊記で有名な三蔵法師のモデルになったお坊さんです。

    唐の僧侶であった玄奘は17年をかけて西の国やインドを巡り、経典や仏具を持ち帰ったと言われます。

  • 薬師寺と興福寺は法相宗の大本山となりますが、玄奘三蔵は法相宗の開祖となります。

    薬師寺と興福寺は法相宗の大本山となりますが、玄奘三蔵は法相宗の開祖となります。

  • 入場はこちらから。<br />奥は経蔵方向。<br />

    入場はこちらから。
    奥は経蔵方向。

  • 玄奘三蔵院は平成三年(1991)に建てられたものです。<br /><br />昭和十七年(1942)に南京駐屯中の日本軍が玄奘のお骨を見つけます。<br />その一部が全日本仏教会に分骨され、埼玉県岩槻の慈恩寺に安置されます。<br />これを薬師寺に分骨してこちらにに祀られています。<br /><br /><br />

    玄奘三蔵院は平成三年(1991)に建てられたものです。

    昭和十七年(1942)に南京駐屯中の日本軍が玄奘のお骨を見つけます。
    その一部が全日本仏教会に分骨され、埼玉県岩槻の慈恩寺に安置されます。
    これを薬師寺に分骨してこちらにに祀られています。


  • 奥が大唐西域壁画殿。<br />平山郁夫が30年をかけて制作したといわれる、玄奘三蔵法師の旅をたどる「大唐西域壁画」が見られます。

    奥が大唐西域壁画殿。
    平山郁夫が30年をかけて制作したといわれる、玄奘三蔵法師の旅をたどる「大唐西域壁画」が見られます。

  • 玄奘三蔵院から白鴎伽藍側へもどり、東廻廊に回ります。<br /><br />東僧坊、手前が鐘楼。

    玄奘三蔵院から白鴎伽藍側へもどり、東廻廊に回ります。

    東僧坊、手前が鐘楼。

  • 東回廊から。

    東回廊から。

  • 東院堂。<br />本尊は聖観音菩薩像で、四方には四天王像が置かれます。<br /><br />東院堂は元明天皇の冥福を願う場所として、養老年間(717〜724)に次女である吉備内親王が建立した東禅院を元とします。<br /><br />創建の際に建てられた場所は東側にある観音池の南に建てられたそうです。<br />その後天禄四年(973)の火災で焼失し、弘安八年(1285)に再建されました。<br /><br />本尊、銅造の観音菩薩立像は高さが約190cm。<br />金堂の薬師三尊像と同じく、奈良時代の金銅仏の代表作の1つとされます。<br />

    東院堂。
    本尊は聖観音菩薩像で、四方には四天王像が置かれます。

    東院堂は元明天皇の冥福を願う場所として、養老年間(717〜724)に次女である吉備内親王が建立した東禅院を元とします。

    創建の際に建てられた場所は東側にある観音池の南に建てられたそうです。
    その後天禄四年(973)の火災で焼失し、弘安八年(1285)に再建されました。

    本尊、銅造の観音菩薩立像は高さが約190cm。
    金堂の薬師三尊像と同じく、奈良時代の金銅仏の代表作の1つとされます。

  • 東廻廊南から西塔方向。<br />右側のシマシマ(いわゆる素屋根)で囲われているのが、現在修復中の東塔です。<br /><br />東塔は平成31年(2019)までの修復。<br />7年かける全面修復ですが、創建時のように戻すのか、現状を維持しながらその先を目指すのか。見所です。<br /><br /><br />

    東廻廊南から西塔方向。
    右側のシマシマ(いわゆる素屋根)で囲われているのが、現在修復中の東塔です。

    東塔は平成31年(2019)までの修復。
    7年かける全面修復ですが、創建時のように戻すのか、現状を維持しながらその先を目指すのか。見所です。


  • 廻廊内にはパネルで、仮修復の内容が貼ってあります。

    廻廊内にはパネルで、仮修復の内容が貼ってあります。

  • 興楽門。<br /><br />こちらが北側の門になりますので、ここから唐招提寺へ向かいました。<br />ちなみに拝観チケットは南側、北側からどちらでも入れるように半券ができています。<br /><br />ですので例えば、南側の駐車場に車を置いて薬師寺から唐招提寺まで歩いてまた戻ってくるという形でも、薬師寺の中をまた通れます。<br /><br />

    興楽門。

    こちらが北側の門になりますので、ここから唐招提寺へ向かいました。
    ちなみに拝観チケットは南側、北側からどちらでも入れるように半券ができています。

    ですので例えば、南側の駐車場に車を置いて薬師寺から唐招提寺まで歩いてまた戻ってくるという形でも、薬師寺の中をまた通れます。

  • 復興された伽藍は煌びやかで立派。<br />シルクロードの終着点と呼ばれ繁栄した奈良を垣間見れた気がします( `ー´)<br />現在修復中の東塔あたりから金堂や西塔を眺めると、1200年以上前の奈良の人々も見ていたのだと感慨しきり。<br /><br />薬師寺はこの伽藍復興のほとんどを写経勧進だけで行いました。<br />写経勧進は復興発願当時の薬師寺管長であった高田好胤管主のアイデアでした。<br /><br />現在では1人1000円で写経、奉納も踏まえると2000円と言うことになりますが、当時は西塔の復興だけで約10億円(昭和中期レート)という見積もりで、写経勧進にすると100万人の勧進が必要でした。<br /><br />高田好胤管主は全国各地にのべ8000以上の説法に出向き、西塔は復興発願から4年にして建立の目途がたちます。<br />西塔復興から金堂・大講堂の建立。そして現在の東塔修復と現在も伽藍は整えられていますが、写経勧進も2000年度に入るころには700万巻を超えて現在も続けられています。<br /><br /><br />信仰の力。<br />太古から脈々と受け継がれてきたその志は今も変わりなく続き、未来へ向かいます。<br />昭和から数百万人の人々が結縁してきたことによって復興した伽藍には、現代の人々の想いも詰まっています。

    復興された伽藍は煌びやかで立派。
    シルクロードの終着点と呼ばれ繁栄した奈良を垣間見れた気がします( `ー´)
    現在修復中の東塔あたりから金堂や西塔を眺めると、1200年以上前の奈良の人々も見ていたのだと感慨しきり。

    薬師寺はこの伽藍復興のほとんどを写経勧進だけで行いました。
    写経勧進は復興発願当時の薬師寺管長であった高田好胤管主のアイデアでした。

    現在では1人1000円で写経、奉納も踏まえると2000円と言うことになりますが、当時は西塔の復興だけで約10億円(昭和中期レート)という見積もりで、写経勧進にすると100万人の勧進が必要でした。

    高田好胤管主は全国各地にのべ8000以上の説法に出向き、西塔は復興発願から4年にして建立の目途がたちます。
    西塔復興から金堂・大講堂の建立。そして現在の東塔修復と現在も伽藍は整えられていますが、写経勧進も2000年度に入るころには700万巻を超えて現在も続けられています。


    信仰の力。
    太古から脈々と受け継がれてきたその志は今も変わりなく続き、未来へ向かいます。
    昭和から数百万人の人々が結縁してきたことによって復興した伽藍には、現代の人々の想いも詰まっています。

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