2012/05/14 - 2012/05/17
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フロッガーさん
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ということで、色々ありましたが東大寺へ。
東大寺は聖武天皇が早くに亡くなってしまった皇太子、基王の弔いのために建立した金鐘山寺を始まりとします。
東大寺は華厳宗の大本山。
国が荒廃し疫病が流行って混沌とした時代に、平和を取り戻そうとした聖武天皇がすがるかのように生涯をかけた仏様がおられます。
和銅三年(710)の平城京遷都に始まり、当時の政府である朝廷は東大寺を大和の国の国分寺、総国分寺として各地に国分寺・国分尼寺を造りました。
聖武天皇は東大寺の大仏を中心とした仏教世界を現世(当時)に現わそうとし、仏教の力で国を守ろうとしたのです。
天平十七年(745)に聖武天皇による大仏建立の詔によって建立がはじめられた盧舎那仏坐像は、7年の歳月(鋳造2年)をかけ天平勝宝四年(752)に開眼供養会を迎えます。
醍醐寺に残る「東大寺要録」によれば当時、仏像建立にかかわった人だけでも37万人超。東大寺の寺域の全てを入れると260万人。
当時の国民の人数からすれば2人に1人の人が関わった国家事業だったのです。
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス レンタカー 新幹線 JRローカル 徒歩
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新薬師寺からは志賀直哉旧居の前を通って、みかさ荘あたりから浮見堂へ抜けました。
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浮見堂から鹿苑。
日立の樹のような巨大な木。
よくよく見ると、柵には鹿がいっぱいいますな。
( ̄ー ̄)
この手前に看板があったので、拡大して見ると・・・ -
鹿との触れ合い注意看板でした(爆)
ダイレクトな表現ね。 -
意外とやるのな、君たちは。
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休憩したろくさろんからは20分ほど歩いて、東大寺参道に到着。
さすがは修学旅行の大本山、東大寺。
学生だらけで歩く場所がない(汗) -
南大門。
東大寺での正門にして日本最大の山門です。
鎌倉時代初期に造られ、高さは25m。
門内左右に天才と言われた運慶が率いた慶派が彫った金剛力士像があります。 -
南大門は外から見ると二階建てに見えますが、一本の柱が上層まで貫く造りです。
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南大門、金剛力士像。
わずか69日の日数で完成させたと言われます。
阿形像は運慶・快慶が主に造っているとされます。
凄い肉体美、リアリズム。
ありえない躍動感。
平重衡の南都焼き討ちによって伽藍が焼失してしまった東大寺と興福寺ですが、翌年には復興計画が立てられます。
当時、仏師として奈良の慶派は仏像の修復・手入れなどを中心に行っていました。
仏像作成の主流は、大仏師集団を育てた定朝の流れから来る京都の円派・院派でした。
興福寺は京都からの仏師が中心となって再建、東大寺の大仏は中国からの工人が中心に再建されました。
慶派は実力がまだ認められておらず、仕事を任せてもらえなかったのです。
運慶は燃え残った東大寺の伽藍の残骸から軸木を作り、再興願いの写経の軸の木としてこの木を用いました。軸木には「東大寺焼失の柱」と記してありました。
奈良の仏師でありながら再興の表舞台に立てなかった運慶たち慶派の仏師は、関東等の源氏の所領で仏像を造り始めます。
無念さを胸に奈良を離れた運慶たちが活躍を始めるのです。
運慶が造った仏像たちはみな生きているかのように造られ、物によっては筋肉隆々。
その写実性やリアリズムは定朝様にはないものでした。 -
吽形像。
こちらは定覚、湛慶が中心になって造られました。
南都焼き討ちから17年後、慶派は実力も認められ仏像復興の中心として奈良へもどってきます。
そして23年にわたる東大寺復興、再建の総仕上げとなる南大門の仁王像造立の棟梁に運慶が選ばれるのです。
仁王像を造るのに与えられた期間はわずか2ヶ月。
1988年〜1993年にかけての解体修理で、慶派が行った作業がある程度推測できることとなりました。
金剛力士像一体の部材は3000にも及び、これらを2体分・2つの班に分けられた仏師がパーツごとに彫りあげます。
それを組みあげることになりますが、運慶はできあがった金剛力士像に修正を加えます。
手の角度を修正、腕や上半身の肉盛り、頭部眉上の盛り。
この修正によって金剛力士像は下から見た時の圧巻の迫力をもつようになったのです。
運慶はただ拝む・飾る物としての仏ではない、生き続ける仏を造ることを追求し続けたのではと思います。
仁王像の評価と成功によって、運慶および慶派は奈良仏師の頂点に立ちます。
運慶は仏師の最高の称号といわれる「法印」を授かることになったのです。 -
これと下の写真は帰りに撮ったものです。
鹿しかいないってイイねヽ(`◇´)/ -
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中門。
大仏殿内には向かって左、中門から続く廻廊から入ります。 -
中門には二天像が置かれています。
兜跋(とばつ)毘沙門天。 -
持国天。
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大仏殿。
正式には「東大寺金堂」です。
大仏建立の宣言は紫香楽宮(滋賀県)で発せられました。
当初はこの紫香楽宮に建てる予定でしたが、都で不審火や天災・皇族の不幸などが頻発したために都を平城京に戻します。
そのため大仏もこの地で建立されることになりました。 -
現在の大仏殿は江戸時代中期に再建された3代目にあたる仏殿です。
高さと奥行きは変わりがありませんが、幅は奈良時代当初の建築より2/3にされました。
それでも高さは48m・幅は57m・奥行きは50mになる世界最大クラスの木造建築です。 -
学生が群がるのが金銅八角燈籠。
日本国内で最古で最大の鋳銅製の灯籠です。
東大寺の大仏と大仏殿は大きく2回の兵火にあっています。
1度目は平安時代の治承四年(1180)、平清盛の子・重衡による南都焼き討ちです。
平氏政権と対立していた寺院・僧兵勢力であった東大寺や興福寺など主要な寺院は、清盛の命によって重衡を総大将とした平氏軍4万に攻め込まれ、火にのまれました。
被害は甚大、大仏像は頭と手が焼き落ちます。
平家物語によれば寺社側の人員は7000人となっていますが、約3000人の人がなくなったとされます。
この時は比較的すぐ修復されますが、約400年後。
戦国時代末期(永禄の兵火)の松永久秀の軍によって南都は再び焼き討ちにあいます。
この時に大仏さまも再び大破します。
永禄の兵火の際、三好三人衆と松永久秀の軍による戦いが南大門周辺で繰り広げられたそうです。
大仏は頭部もなくなり、上半身は下半分のみ、台座も1/3を残す状態でした。
ここから130年以上、大仏は復興されることがなく野ざらしの状態となります。
今の姿に復興されたのは、江戸時代の元禄年間。
極力、昔の物を残す形での再建。
ですので大仏様の頭部などは比較的新しく、つぎはぎの部分もはっきりとわかる状態です。
お顔の表情や造り自体も建立当初とは違う物です。 -
大仏様。
東大寺の大仏は盧舎那(毘盧舎那)仏です。
いわゆる御釈迦様ではありません。
毘盧舎那(びるしゃな)の語源は「ヴァイローチャナ」、サンスクリット語です。
ヴァイローチャナは光、太陽光や日光を指します。
盧舎那仏は如来様ではありますが、光の仏様ということになります。 -
華厳経の中では盧舎那仏は教主となり、すべては宇宙を構成する壮大な世界観とされます。
釈迦の浄土もその1つとなり、宇宙の無数の浄土とそれぞれに住む人々で構成されるものです。
太陽の光のように、1人1人に光を与えるように存在し、全ての総体をも現わすのがこの仏様なのです。
右手は施無畏印(せむいいん)。
仏教の教えでは、人が悪いことをしてしまうことは心の中に不安や恐れがあるからだとしています。
その不安や恐れを取り除く力を現わしている様なのです。
左手は与願印(よがんいん)。
願いを叶えてくれる様を現わしています。 -
隣は虚空蔵菩薩坐像。
無限の知恵を持っていて、それを分け与えてくれる菩薩様です。 -
広目天。
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光背裏側。
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多聞天。
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向かって右側に如意輪観音菩薩坐像。
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高さは15m、幅は12m。
総重量は380トン。
度重なる災害を乗り越え、直されながら現代へ受け継がれてきた仏様です。
さすが、ミスター奈良とも言うべき風格(*^▽^*) -
光背には16体の化仏がおられます。
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大仏殿から二月堂の方へ向かいます。
鏡池から東塔跡への参道。 -
石畳が続きます。
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お水取りが行われることでも有名な二月堂。
見たことがある人も多いと思いますが、火のついた松明を持ってこの舞台を走り回るものです。
お水取りは修二会(3/1〜3/14)の行の中の1つの行事です。
大仏開眼(天平勝宝四年)以来、1250年を超えて一度も途絶えることがなく続いています。
お水取りは修二会の行の後半、12日の夜に大きな松明が舞台に上がります。 -
右手に法華堂(三月堂)。
東大寺で最も古い建物とされます。
不空羂索観音立像を本尊として祀り、毎年旧暦三月に法華会が行われるために三月堂とも呼ばれるようになりました。
2011年の年輪年代調査によって、使われている木材の1つが731年に伐採されているものだとわかりました。
「東大寺要録」の中では730年代前半に建立とあり、この記載を裏付ける物となっています。
平成23年8月から平成25年3月まで調査・修理中です。
本尊の不空羂索観音立像と日光・月光菩薩像は東大寺ミュージアムにて見ることができます。 -
修二会の行の流れはまず練行衆と呼ばれる、民衆の身代わりとなって懺悔を行う11人の僧侶が行います。
練行衆は例年では12月に決められます。
行法全体のトップになる大導師。
咒師、堂司などの四識と平衆7名からなります。
行の期間は1日1食、私語も禁止なのです。
練行衆は2月20日から28日までの前行に入り、3月1日からの本行へ心身を清めていきます。
五体投地といって、板へ全身を打ち付け懺悔を行う荒行が行われます。
そしてお水取り。
夜の午前1時に若狭井の井戸からくみ上げた「香水」を観音様に捧げます。
これが修二会がお水取りと呼ばれるいわれです。 -
炎を上げる松明はこの舞台を走り回り、掲げられます。
松明は練行衆を照らす道灯りになります。
この火には罪や穢れを焼き払うと意味も含まれます。
この火の粉を浴びれば1年を無事に過ごせると言われていて、毎年多くの人が集まります。 -
二月堂、本尊は十一面観音菩薩様。
秘仏です。
そのお姿は、例え東大寺の僧侶であっても見てはならないと言うそうです。 -
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下り側の回廊。
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修二会の行とは、私たちが普段犯してしまっている罪、気付かずに犯してしまっている罪も含めて十一面観音様に全ての罪を懺悔するということなのだそうです。
二月堂の名は、この行が行われる旧暦2月からとられたそうです。 -
裏参道。
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振り返っての二月堂。
昭和時代の写真家で大和路を中心に撮影していた入江泰吉が、もっとも奈良らしいと言った道です。 -
う〜む、いにしえ。
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大仏殿裏から。
奥が鴟尾。 -
指図堂。
法然上人二十五霊場、第十一番札所です。
現在建っている指図堂は嘉永五年頃の建築。
法然上人の画を本尊としています。
このお堂は東大寺復興の際に再建築する大仏殿の設計図を置いていたことからこの名がついたと言われています。 -
鐘楼。
軒の反りが凄い。
この屋根はわざと音をこもらせるように大きく造っているそうです。
この鐘楼は二代目の東大寺大勧進主となった栄西によって建立されたと伝わります。 -
梵鐘は奈良時代、鐘楼堂は鎌倉時代に造られました。
鐘の大きさは
高さ3.853m
直径2.708m
重さ26.364トン。 -
東大寺に着いてからは、修学旅行生の多さに辟易して大仏殿は外して二月堂から裏参道を回りました。
午後5時くらいになれば学生も観光客も減って非常に静かになります。
混んでいる時は裏手の東西塔跡や正倉院、戒壇堂を先に巡ってもよろしいかと思います。 -
もう一度、二月堂へ登って、夕暮れ。
カクカクシカジカありまして、
お昼御飯が予定通りに行かなくて、精神的にも体力的にも限界を突破してしまいましたが・・・やっぱり広いね奈良。
楽しい見仏が苦行と化す。
よく寺社巡りなんて定年してからにするわなんて人がいますが、よほど体力に自信があるか運動していた人でもない限り寺社めぐりって若いうちからやらないと無理だと思う(爆)
山みたいな所を登るわ石段何百段だわ、今でもヒーヒー(T△T)
特に普段歩かない人は、心して良い靴を履きましょう。
準備もほどほどに(-ω-)
東大寺からはバスに乗って奈良駅まで戻りました。
ホテルで温泉に浸かって、それから大和肉鶏を出すという「やたがらす」という居酒屋さんへ。
鶏もものタタキとか手羽先焼きは美味しかった〜。
満足した!
あっ、大仏プリンを買うのを忘れました。
(T人T) ナムナム。。。
それでは最終日3日目へ。
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