2011/11/15 - 2011/11/15
3371位(同エリア7080件中)
滝山氏照さん
JR東海道線・横須賀線・根岸線の大船駅下車、西口を柏尾川沿いに徒歩約20分の戦国時代越後の雄、後に上杉謙信となる長尾影虎を輩出した名門長尾氏が築城した長尾城(ながおじょう、神奈川県横浜市栄区長尾台町)を訪問しました。
長尾氏は桓武平氏良文の流れと言われており、平安時代末期、当時の城主長尾景弘が築城したと伝われています。
治承8年(1180)源頼朝が平氏打倒の為挙兵しますが、それまで関東統治をしていた平氏恩顧の大庭景親(おおば・かげちか、西端不詳~1180)に従い長尾為宗(ながお・ためむね、生没年不詳)・定景(さだかげ、生没年不詳)兄弟は石橋山合戦にて頼朝を破ります。
一旦安房に逃れた頼朝はかつて父義朝と共に戦った豪族の支援を受け勢力を盛り返し形勢逆転、ついに鎌倉に幕府を創設すると長尾定景は大庭景親と共に捕われますが大将格の影親は斬首、定景はかつて大庭氏と共に攻め込み父三浦義明を自害に追い込んだ三浦義澄預かりとなります。
更に息子を殺された岡崎義実に身柄を移されますが、定景は既に覚悟を決め法華経を読む毎日を送ります。それを聞く義実は哀れを催し、遂に頼朝に定景を許すことを申し出、信心深い頼朝はこれに賛同し定景の命を助ける事になります。
晴れて幕府の御家人に列せられた定景は頼朝の死後の承久元年(1219)公暁(くぎょう)が3代目将軍源実朝を殺害した折には幕府命により公暁討伐の役割を果たす事になります。
然しながら石橋山合戦時点では軍事力を持たない中、次第に策略を付して重臣御家人を次々と滅亡に追いやる北条氏は、最大の勢力を持つ三浦氏が謀反の疑いありとして討伐軍を差向けついに戦いとなりますが息子の長尾景茂(ながお・かげしげ、生誕不詳~1247)は恩顧の三浦氏に加担した為、攻撃を受け溜まらず自決、長尾城は廃城に至ります。
戦国時代に入りますと北条氏に極めて重要な要衛地である、三浦半島と武蔵南部の両面への進出の拠点となる玉縄城(現鎌倉市)の支城として大きく役割を果たします。
自分が訪問した長尾城跡は登り切った先は平坦な畑ばかりで、城跡を知らしめる案内板の他は土塁や空堀らしきものが見えますがそれ以外は確認できずいささか物足りなさを感じました。
2022年4月11日追記
当該地に建立の説明板では下記の通り記述されています。
「 戦国大名、上杉謙信の祖
長尾氏の居館跡
保元・平治の乱後、平清盛政権時代となり伊豆に流されていた頼朝が平家打倒の兵を石橋山で挙げたのは治承4年(1180)8月のことだった。
このとき平家側の総大将は大庭景親で、先陣は弟俣野五郎景尚と家臣、当長尾台の長尾兄弟。源氏は岡崎義実の嫡男真田与一、陶山文三主従だったが、与一の討死で敗れた頼朝等は山中を逃げまどい5日後、岩浜から房総へ船で配送したことは戦記に大書されている。
渡海後の頼朝は房総の豪族を御家人とし反撃に転じた。鎌倉入りには当初、頼朝に敵対した武相の豪族等が御家人として加わり、長尾兄弟もまた同様だったが俣野氏は生涯を平家に尽くした。
頼朝は平家を滅ぼし鎌倉幕府を樹立したが頼朝死後は北条氏の時代となった。しかし元弘3年(1333)北条氏も新田義貞によって滅ぼされ、南北朝争乱で勝者となった足利氏は京の室町幕府の出先機関として鎌倉府を設けた。長尾氏は是に仕え次第に強大となり、戦国時代に長尾景虎はついに上杉謙信と称し、関東管領から戦国大名として北は出羽、南は上野、西は加賀に至る広大な領土を有した大大名として知られた。
この長尾台は戦国史を飾る名将上杉謙信の先祖、長尾氏の発祥のちである。
平成11年5月吉日建立 大正地区歴史散歩の会 」
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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長尾城跡周辺地図
農業専用地域が殆どを占める中で定泉寺や常勝寺と言ったお寺は見られますが城跡に関係するかどうかわかりません。 -
長尾城跡(長尾砦跡)説明板
「 長尾砦址 長尾台町
長尾砦址は戦国時代に小田原北条氏が築いた玉縄城の出城、長尾砦の址といわれる。しかし長尾の名は古く鎌倉以前にまでさかのぼる。
この地に鎌倉武士長尾氏の館があったといい、昭和55年、農地整備に伴い横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査が行われ縄文時代から中世にかけての遺物が発見されているほか、現在まで、この付近から五輪塔、板碑、陶磁器等が出土している。
長尾氏は平安時代の武将で、源義家に従って後三年の役で活躍した鎌倉武士の祖ともいえる鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に住んで長尾次郎と名のったと伝え、これが鎌倉長尾氏の始祖だという。この地の御堂神社(別名権五郎神社、本社は鎌倉坂ノ下)は景政を祭神とするから、長尾氏の祀った祖先神である。次郎の子孫という長尾定景は、治承4年(1180年)8月の石橋山の合戦で源頼朝を護るため俣野五郎景久とくみ討をしていた佐那田与一義忠を討ちとった人物だと源平盛衰記にある。また建保7年(1219年)1月、三代将軍源実朝を殺害した別当公卿を討った人でもある。その子景茂は宝治元年(1247年)6月の三浦泰村の乱(宝治の乱)で泰村方につき、泰村が敗れたので北条時頼軍に襲われ、景茂父子は源頼朝の建てたという法華堂で自刃した。ここに鎌倉長尾氏は滅亡したのだが、室町時代にその一族、長尾景仲が活躍したし、戦国時代に長尾顕方等の一族の屋敷があったというから、その後も一族の子孫達がこの旧長尾郷一帯に定着していたと考えられる。
戦国大名で有名な上杉謙信も、越後国守護代の長尾氏で、長尾景虎といい、後に関東管領上杉氏の末裔を迎えてその養子となり上杉氏を名乗ったのだから、その先は鎌倉長尾氏である。その時代、小田原北条氏が関東一円に勢力を拡大する中で、長尾顕方の一族もその勢力下に組み込まれ、玉縄城主北条綱成の領地とされ、長尾氏の屋敷のあった長尾台に長尾砦が築かれて、柏尾川流域一帯を掌握する根拠地となり、三浦・武蔵方面への支えとしたのである。
平成4年3月
栄区役所 」 -
農業道路
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農地全景
辺りは既に農地化されていまして、城跡のかけらは何一つ見えません。 -
整然とした農地
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農地全景
首都圏へ出荷される野菜と思われます。 -
空堀
作業中の地元おばさんに聞いたところでは「私の亡くなったお父さんが子供の時はこの辺りは堀があったと聞かされた」との話を聞いて元気が出てきました。早速指差された方向へ赴きます。 -
イチオシ
空堀
樹木や薮に覆われていますが深い空堀が眼下に控えています。 -
イチオシ
土塁
暫く歩き回りますと土塁らしき光景に遭います。貴重な土塁ですが恐らく北条氏の手による土塁と思われます。 -
遠景
畑の中から東の方向を望みます。 -
鎌倉市観光案内地図
帰路は大船駅西口に案内図がありまして、北条氏の拠点である玉縄城跡が見られ、現在は清泉女学院となっています。(いつか時間を作って訪問したいと思います。) -
玉縄城築城横断幕発見
駅ビルの壁に500年祭(2012年11月)横断幕を見つけました。
どんな企画がなされるのか楽しみです。何らかの形で参加したいです。
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