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早朝にJR八王子駅を出発、中央線・小梅線を経て信州上田城(うえだじょう、長野県上田市二の丸)を訪問、途中小諸駅で「しなの鉄道」に乗り換え約20分で上田駅着となります。<br /><br />駅から篠ノ井方面に並行して歩き途中を右折し直進、左に樹木が見えるとまもなく上田城跡入口となります。<br /><br />歴史的には当地土豪の小泉氏館があった場所に、天正11年(1583)真田昌幸(さなだ・まさゆき、1547~1611)が築城した「堀と土塁」で造られた難攻不落の名城です。<br /><br />片田舎の土豪でしかなかった真田氏は真田幸隆(さなだ・ゆきたか、1513~1574)が知略家として評価され武田信玄に仕えることとなり、数々の戦功をあげて東信濃から上州まで勢力拡大します。<br /><br />幸隆のあと三男の昌幸が家督を継ぎますが武田氏滅亡後は後ろ楯を失いながらも情勢に応じて織田、北条、徳川と主君を替えるなど巧みな外交戦術で領土を維持拡大、戦国大名としての地位を磐石なものとしていきます。<br /><br />なんと言っても上田城を全国的にその名を知らしめたのは徳川大軍を2度に亘り打ち破った上田城合戦です。天正13年(1585)上州の真田領を巡って徳川家康と対立、家康は大久保忠世(おおくぼ・ただよ)ら譜代の家臣に信濃・甲斐の国人衆を加えた総勢8千を上田城に派遣、一方昌幸は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)に支援を求める中、上田城にこもり周辺支城の信幸らと連携とるなどして総勢2千で徳川軍に大きな損害を与えます。<br /><br />2度目は天下分け目の関ケ原の戦いとなります。昌幸と二男の信繁(幸村)が豊臣方、長男の信幸が徳川方に分かれ、昌幸と幸村は中山道から関ケ原に向かう徳川秀忠の3万8千を迎え撃ちます。徳川方の降伏勧告を受け入れるポーズを取りながら抗戦の構えを示し、これに怒った秀忠は攻撃を命じますが出軍の兵士は上田城の複雑な城下町に加え伏兵や種々の仕掛けに合い大混乱に陥り上田城攻略を諦めざるを得なく、結果木曽路の行軍に手間取り関ケ原の合戦に遅参、家康の怒りを買い暫くは面会叶わずの場面がありました。<br /><br />関ケ原の合戦後、西軍に属した昌幸・幸村父子は信幸(のぶゆき、1566~1658)の助命嘆願を得て和歌山・九度山に配流、やがて昌幸はその地で没、幸村は大阪夏の陣で豊臣方武将として活躍、ついには家康の本陣へ肉薄するも力尽き戦場の露と消えます。<br /><br />戦後の上田城は徳川方により徹底的に破却されその後上田城は長男の真田信之(信幸から改名)に与えられますが間もなく松代城に転封、小諸城から仙石忠政(せんごく・ただまさ、1578~1628)が6万石で入封し城の再建が着手されます。<br /><br />現在見られる上田城の姿はこの時のものと思われます。宝永3年(1706)松平氏が入城し廃藩置県まで続くことになりますが本格的な再建には至らなかったようです。<br /><br />地勢的には当城は上田盆地の北に位置し、南に千曲川、東に支流の神川、北は太郎山を背にした堅固な地に築城されています。当城は石垣もありますが基本的には土塁の城で実際現場を見ますと本丸の土塁の高さも幅も真に立派で、さすがに真田昌幸の戦略が染込んでいる城とつくづく感じます。<br /><br /><br /><br />2023年3月17日追記<br /><br />現地にて入手した「上田城」と題するパンフレットには下記の通り紹介されています。<br /><br />「上 田 城(国の指定史跡)<br /><br />上田城は、天正11年(1583)真田昌幸公が築城、平城で二度にわたって徳川軍の攻撃を守りぬいた戦国の名城です。大坂の陣のあと城主真田信之公が松代に移封され、仙石氏が小諸から移り城を大改修、さらに近世後半には松平氏の居城となりました。今は本丸・二の丸にあたるところが城郭として公園になっており、隅櫓や石垣・土塁が残っています。櫓は仙石忠政公が築いたもので、かつては櫓門2基、隅櫓7基がありましたが、明治期に民間に売られ、今は隅櫓が本丸入口の両側と南西の隅に一つの3基のみとはいえ、三の丸が現商工会議所付近までという、広さと共に尼が淵からそびえたつ姿はまさに上田城の象徴で、400有余年の歴史を語りかけてくれます。」<br /><br /><br />更に、真田氏歴史館にて入手したパンフレットに記載の「真田氏三代略」<br />には次の説明があります。<br /><br />「片田舎の土豪に過ぎなかった真田氏は、真田幸隆が武田信玄に仕えて頭角を現し、難攻不落の砥石城を攻略。数々のめざましい戦攻をたてて、東信濃と上州(今の群馬県)にまで勢力を伸ばしました。幸隆のあと信綱、昌輝兄弟が長篠の戦い戦死。急きょ、三男の昌幸が家督を継ぎます。武田家が滅亡した後は、わずか一年の間に織田・北条・徳川と情勢に応じ主君を変えるなど、巧みな戦術により領土を拡大。一方で上田城を築くなど、戦国大名としての地位を不動のものとしていきます。上州の真田城を巡って、徳川家康との間に合戦がおこった時は、わずか二千で八千の敵を打ち破り、天下にその武名を知らしめました。<br /><br />豊臣秀吉亡き後、天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは、昌幸と次男幸村が豊富方に、長男の信之が徳川方に別れて戦うことになり、昌幸父子は三万八千の大軍を上田城で迎え撃ちます。敵を散々に悩ませますが、西軍敗北により、紀州(今の和歌山県)の九度山へ流されました。昌幸はその地で没しますが、幸村は、大坂城へ入城。秀吉の遺児秀頼を守り立てて、大坂夏の陣では家康の本陣へ切り込みますが、衆寡敵せず、戦場の露と消えました。その後の真田家は信之により、家名を存続し、松代へ移封となりますが、明治まで十代に渡って続き真田十万石として栄えました。」

信濃上田 知力尽くし二度に渡り家康派遣軍に勝利し天下に武名を知らしめた真田昌幸築城の要塞堅固な『上田城』訪問

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2011/07/24 - 2011/07/24

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滝山氏照

滝山氏照さん

早朝にJR八王子駅を出発、中央線・小梅線を経て信州上田城(うえだじょう、長野県上田市二の丸)を訪問、途中小諸駅で「しなの鉄道」に乗り換え約20分で上田駅着となります。

駅から篠ノ井方面に並行して歩き途中を右折し直進、左に樹木が見えるとまもなく上田城跡入口となります。

歴史的には当地土豪の小泉氏館があった場所に、天正11年(1583)真田昌幸(さなだ・まさゆき、1547~1611)が築城した「堀と土塁」で造られた難攻不落の名城です。

片田舎の土豪でしかなかった真田氏は真田幸隆(さなだ・ゆきたか、1513~1574)が知略家として評価され武田信玄に仕えることとなり、数々の戦功をあげて東信濃から上州まで勢力拡大します。

幸隆のあと三男の昌幸が家督を継ぎますが武田氏滅亡後は後ろ楯を失いながらも情勢に応じて織田、北条、徳川と主君を替えるなど巧みな外交戦術で領土を維持拡大、戦国大名としての地位を磐石なものとしていきます。

なんと言っても上田城を全国的にその名を知らしめたのは徳川大軍を2度に亘り打ち破った上田城合戦です。天正13年(1585)上州の真田領を巡って徳川家康と対立、家康は大久保忠世(おおくぼ・ただよ)ら譜代の家臣に信濃・甲斐の国人衆を加えた総勢8千を上田城に派遣、一方昌幸は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)に支援を求める中、上田城にこもり周辺支城の信幸らと連携とるなどして総勢2千で徳川軍に大きな損害を与えます。

2度目は天下分け目の関ケ原の戦いとなります。昌幸と二男の信繁(幸村)が豊臣方、長男の信幸が徳川方に分かれ、昌幸と幸村は中山道から関ケ原に向かう徳川秀忠の3万8千を迎え撃ちます。徳川方の降伏勧告を受け入れるポーズを取りながら抗戦の構えを示し、これに怒った秀忠は攻撃を命じますが出軍の兵士は上田城の複雑な城下町に加え伏兵や種々の仕掛けに合い大混乱に陥り上田城攻略を諦めざるを得なく、結果木曽路の行軍に手間取り関ケ原の合戦に遅参、家康の怒りを買い暫くは面会叶わずの場面がありました。

関ケ原の合戦後、西軍に属した昌幸・幸村父子は信幸(のぶゆき、1566~1658)の助命嘆願を得て和歌山・九度山に配流、やがて昌幸はその地で没、幸村は大阪夏の陣で豊臣方武将として活躍、ついには家康の本陣へ肉薄するも力尽き戦場の露と消えます。

戦後の上田城は徳川方により徹底的に破却されその後上田城は長男の真田信之(信幸から改名)に与えられますが間もなく松代城に転封、小諸城から仙石忠政(せんごく・ただまさ、1578~1628)が6万石で入封し城の再建が着手されます。

現在見られる上田城の姿はこの時のものと思われます。宝永3年(1706)松平氏が入城し廃藩置県まで続くことになりますが本格的な再建には至らなかったようです。

地勢的には当城は上田盆地の北に位置し、南に千曲川、東に支流の神川、北は太郎山を背にした堅固な地に築城されています。当城は石垣もありますが基本的には土塁の城で実際現場を見ますと本丸の土塁の高さも幅も真に立派で、さすがに真田昌幸の戦略が染込んでいる城とつくづく感じます。



2023年3月17日追記

現地にて入手した「上田城」と題するパンフレットには下記の通り紹介されています。

「上 田 城(国の指定史跡)

上田城は、天正11年(1583)真田昌幸公が築城、平城で二度にわたって徳川軍の攻撃を守りぬいた戦国の名城です。大坂の陣のあと城主真田信之公が松代に移封され、仙石氏が小諸から移り城を大改修、さらに近世後半には松平氏の居城となりました。今は本丸・二の丸にあたるところが城郭として公園になっており、隅櫓や石垣・土塁が残っています。櫓は仙石忠政公が築いたもので、かつては櫓門2基、隅櫓7基がありましたが、明治期に民間に売られ、今は隅櫓が本丸入口の両側と南西の隅に一つの3基のみとはいえ、三の丸が現商工会議所付近までという、広さと共に尼が淵からそびえたつ姿はまさに上田城の象徴で、400有余年の歴史を語りかけてくれます。」


更に、真田氏歴史館にて入手したパンフレットに記載の「真田氏三代略」
には次の説明があります。

「片田舎の土豪に過ぎなかった真田氏は、真田幸隆が武田信玄に仕えて頭角を現し、難攻不落の砥石城を攻略。数々のめざましい戦攻をたてて、東信濃と上州(今の群馬県)にまで勢力を伸ばしました。幸隆のあと信綱、昌輝兄弟が長篠の戦い戦死。急きょ、三男の昌幸が家督を継ぎます。武田家が滅亡した後は、わずか一年の間に織田・北条・徳川と情勢に応じ主君を変えるなど、巧みな戦術により領土を拡大。一方で上田城を築くなど、戦国大名としての地位を不動のものとしていきます。上州の真田城を巡って、徳川家康との間に合戦がおこった時は、わずか二千で八千の敵を打ち破り、天下にその武名を知らしめました。

豊臣秀吉亡き後、天下の覇者を決める関ヶ原の戦いでは、昌幸と次男幸村が豊富方に、長男の信之が徳川方に別れて戦うことになり、昌幸父子は三万八千の大軍を上田城で迎え撃ちます。敵を散々に悩ませますが、西軍敗北により、紀州(今の和歌山県)の九度山へ流されました。昌幸はその地で没しますが、幸村は、大坂城へ入城。秀吉の遺児秀頼を守り立てて、大坂夏の陣では家康の本陣へ切り込みますが、衆寡敵せず、戦場の露と消えました。その後の真田家は信之により、家名を存続し、松代へ移封となりますが、明治まで十代に渡って続き真田十万石として栄えました。」

交通手段
JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩

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  • JR上田駅<br /><br />長野新幹線停車駅につき大規模ビルとなっています。

    JR上田駅

    長野新幹線停車駅につき大規模ビルとなっています。

  • 上田城跡公園入口<br /><br />今や公園化されています。大勢の観光客の来城です。

    上田城跡公園入口

    今や公園化されています。大勢の観光客の来城です。

  • 市立博物館<br /><br />時間の関係で入場しませんでした。

    市立博物館

    時間の関係で入場しませんでした。

  • 外堀<br /><br />今では散歩道に化してます。二の丸橋からの写真ですが相当深く幅が広いのが判ります。<br />

    外堀

    今では散歩道に化してます。二の丸橋からの写真ですが相当深く幅が広いのが判ります。

  • 外堀<br /><br />二の丸橋から北方向を見ます。毎年4月は「上田城千本桜祭」では大勢の見物人でにぎわうそうです。<br />

    外堀

    二の丸橋から北方向を見ます。毎年4月は「上田城千本桜祭」では大勢の見物人でにぎわうそうです。

  • 上田城公園案内図<br /><br />本丸を囲む水堀が見えます。広い野球場や陸上競技場が城郭にあります。

    上田城公園案内図

    本丸を囲む水堀が見えます。広い野球場や陸上競技場が城郭にあります。

  • 上田城説明板<br /><br />小諸城から移封の仙石氏によりほぼ真田氏時代のものに復興された様です。

    上田城説明板

    小諸城から移封の仙石氏によりほぼ真田氏時代のものに復興された様です。

  • 東虎口櫓門<br /><br />南櫓と北櫓を従えて建っています。かつては7基あったそうですが現在では3基だけとなっています

    イチオシ

    東虎口櫓門

    南櫓と北櫓を従えて建っています。かつては7基あったそうですが現在では3基だけとなっています

  • 水堀全景<br /><br />樹木に覆われていますが深くて広い堀となっています。

    水堀全景

    樹木に覆われていますが深くて広い堀となっています。

  • 南櫓全景<br /><br />石垣の上に建っている姿はすばらしいの一言に尽きます。

    南櫓全景

    石垣の上に建っている姿はすばらしいの一言に尽きます。

  • 北櫓全景<br /><br />真田石が見えます。<br />

    イチオシ

    北櫓全景

    真田石が見えます。

  • 東虎口近景<br /><br />がっちりとした門です。さすが戦闘用の門で本格的です。

    イチオシ

    東虎口近景

    がっちりとした門です。さすが戦闘用の門で本格的です。

  • 真田石<br /><br />城内一の大石(長径3m)。真田信之が松代城移封時父の形見として持ち去ろうとしたが不動であったとの伝説があります。

    真田石

    城内一の大石(長径3m)。真田信之が松代城移封時父の形見として持ち去ろうとしたが不動であったとの伝説があります。

  • 東虎口櫓門裏手<br /><br />戦闘用櫓らしくがっちりと造られており、たくましい防御です。

    東虎口櫓門裏手

    戦闘用櫓らしくがっちりと造られており、たくましい防御です。

  • 真田赤備え兜<br /><br />大阪夏の陣で武具を赤で統一した部隊を率いた真田幸村がかぶった朱色の兜だそうです。

    真田赤備え兜

    大阪夏の陣で武具を赤で統一した部隊を率いた真田幸村がかぶった朱色の兜だそうです。

  • 真田井戸<br /><br />この井戸からは抜け穴があって、城の北側太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの<br />伝説もあるそうです。

    真田井戸

    この井戸からは抜け穴があって、城の北側太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの
    伝説もあるそうです。

  • 西櫓<br /><br />真田氏のあと入城した仙石氏が建て建築当初のまま現在に残されている唯一の建物です。

    西櫓

    真田氏のあと入城した仙石氏が建て建築当初のまま現在に残されている唯一の建物です。

  • 西櫓の説明文

    西櫓の説明文

  • 西櫓から見る南景<br /><br />駐車場とその向こうに長野新幹線が良く見えます。雄大な眺めです。

    西櫓から見る南景

    駐車場とその向こうに長野新幹線が良く見えます。雄大な眺めです。

  • 土塁<br /><br />本丸の土塁は高さも幅も立派です。

    土塁

    本丸の土塁は高さも幅も立派です。

  • 水堀<br /><br />本丸北側の土塁から一望。深い堀が確認できます。

    水堀

    本丸北側の土塁から一望。深い堀が確認できます。

  • 北西隅櫓跡<br /><br />発堀調査の結果土塁の上に直接建てられていた建物であったことが確認されました。

    北西隅櫓跡

    発堀調査の結果土塁の上に直接建てられていた建物であったことが確認されました。

  • 土塁と堀<br /><br />見ごたえのある土塁と堀です。昌幸の防御に対する考えがよく表れています。

    土塁と堀

    見ごたえのある土塁と堀です。昌幸の防御に対する考えがよく表れています。

  • 本丸跡<br /><br />広々とした本丸跡です。子供たちが走り回っています。

    本丸跡

    広々とした本丸跡です。子供たちが走り回っています。

  • 土塁<br /><br />立派な土塁ですネ。

    土塁

    立派な土塁ですネ。

  • 水堀

    水堀

  • 再び東虎口櫓門

    再び東虎口櫓門

  • 藩主居館跡<br /><br />真田氏以降の藩主の居館で「御屋形」と呼ばれていたそうです。現在は上田高校の敷地となっています。城跡の内部に学校があると気持ちが高揚します。

    藩主居館跡

    真田氏以降の藩主の居館で「御屋形」と呼ばれていたそうです。現在は上田高校の敷地となっています。城跡の内部に学校があると気持ちが高揚します。

  • 藩主居館屋敷門<br /><br />現在は上田高校の看板が掲示されてます。

    藩主居館屋敷門

    現在は上田高校の看板が掲示されてます。

  • 上田藩主屋敷門と堀跡<br /><br />堀はもっと幅広だったそうですが道路拡張の為狭くなったそうです。

    上田藩主屋敷門と堀跡

    堀はもっと幅広だったそうですが道路拡張の為狭くなったそうです。

  • しなの鉄道車両<br /><br />この電車で帰路に着きます。<br />

    しなの鉄道車両

    この電車で帰路に着きます。

  • 姨捨駅遠景<br /><br />全国でも珍しいスィッチバックです。駅を通過した後に電車がバックしてホームに停車します。列車給水の駅として明治33年開通したそうです。<br />

    姨捨駅遠景

    全国でも珍しいスィッチバックです。駅を通過した後に電車がバックしてホームに停車します。列車給水の駅として明治33年開通したそうです。

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