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躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、山梨県甲府市古府中町)は言うまでもなく戦国時代きっての名将武田信玄(たけだ・しんげん)の本拠で、JR甲府駅北口からなだらかな坂を直進し徒歩約25分の高台にあります。<br /><br />永正16年(1519)、信玄の父である武田信虎(たけだ・のぶとら)が国内の地域領主を従え統一し、東部の石和(いさわ)地方から当地に移り新たに館を築いたのが始まりです。この居城の新設に伴い当館を中心とする城下町を形成をする一方、臣を誓い家臣となった地方領主を強制的に武田通りの沿道に配置します。甲斐統一と共に新拠点の移転を実施するなど整備発展に貢献した信虎の並々ならぬパワーは目を見張るものがあります。<br /><br />やがて信虎は嫡子である晴信(後の信玄)により駿河国(信虎娘の嫁ぎ先)に追放され、以降は信玄が家督を継ぎ家臣となった国人達の揺ぎない支持を得てやがて信濃国への進出を図ってまいります。<br /><br />当該館は一見した所、館を囲む水堀はありますが広さ・深さなどの規模大きくなく全体的に防御に心血注いでいるとは思われずむしろ甲斐国は周囲が山岳に囲まれていますので山岳そのものが防御と考えられていたと思われます。当然ながら周辺国境沿いには有力家臣団の出先が警備しており異常があれば即座に甲府に届くシステムはあった事でしょう。<br /><br />元亀3年(1572)、信玄は病を押して武田軍勢と共に当館を出立しますが二度と帰ることはなく、信州駒場にて夢半ばにして53歳の生涯を終えることになります。<br /><br />信玄の後継は武田勝頼(たけだ・かつより)ですが天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に数多くの有力重臣を失う程の大敗北を喫しこれを機に武田氏は凋落の一途をたどります。館に逃げ帰った勝頼は重臣の進言を得て居城を韮崎(にらさき)に築城をめざし1580年に新府城に居を替えますが、迫り来る織田軍の軍勢に対抗不可能と判断し半年足らずの新府城に火をかけて廃城とします。<br /><br />天正10年(1582)織田・徳川連合軍の侵攻を受けて天目山にて勝頼以下自決、武田氏は滅亡し旧武田領は織田氏の支配下に入ります。<br /><br />同年織田信長が明智光秀の夜襲を受けて本能寺にて自刃(本能寺の変)、代官の川尻秀隆(かわじり・ひでたか)が地元一揆で殺害され織田氏は影響力失います。<br /><br />甲斐国信濃の領土をめぐり北条氏直と徳川家康が争い(天正壬午の乱)、和睦により当地域は徳川領と決定、同領の整備の為、再び躑躅ヶ崎に館が造られ行政の中心となりましますが、天正18年(1590)小田原の戦役で北条氏滅亡に伴い徳川家康の関東移封に関連して甲斐は豊臣秀吉の臣下が任じられ、甲府城の築城を機に躑躅ヶ崎館は廃城となります。<br /><br />今では、躑躅ヶ崎館は武田神社として武田信玄を御祭神として祀っており、甲府の観光スポットとなっていますが、歴史的には信虎・信玄・勝頼の三代で60年間に亘り戦国の時代を生き抜いた館の姿は心打たれるものがあります。<br /><br /><br />2023年5月14日追記<br /><br />神社内に設置の説明板には絵図とともに下記の記述があります。<br /><br />「 国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)<br />           指定期日  昭和13年5月30日<br />           所在地   甲府市古府町大手三丁目・屋形三丁目<br /><br />『武田氏館』は『躑躅ヶ崎館』とも呼ばれ、武田信玄の父信虎が永正16年<br />(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。<br />その後信玄・勝頼と武田家当主の館として使われました。そして、武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年間にわたり、このか館一帯は当国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。                                       <br /><br />館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その周りにいくつかの城郭とによって構成された平城形式のものです。<br /><br />館の周りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に網られた道路に沿って、城下町が開けていました。<br /><br />この館と城下町は、戦国時代の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。<br /><br />          平成7年3月    <br />                    文 化 庁 』<br /><br />

甲斐甲府 駿河今川氏侵攻や国内地方豪族に打ち勝ち甲斐を統一し拠点を石和から中央部の甲府に移し信虎・信玄・勝頼の居城とした『躑躅ヶ崎居館』訪問

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2011/07/06 - 2011/07/06

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滝山氏照

滝山氏照さん

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、山梨県甲府市古府中町)は言うまでもなく戦国時代きっての名将武田信玄(たけだ・しんげん)の本拠で、JR甲府駅北口からなだらかな坂を直進し徒歩約25分の高台にあります。

永正16年(1519)、信玄の父である武田信虎(たけだ・のぶとら)が国内の地域領主を従え統一し、東部の石和(いさわ)地方から当地に移り新たに館を築いたのが始まりです。この居城の新設に伴い当館を中心とする城下町を形成をする一方、臣を誓い家臣となった地方領主を強制的に武田通りの沿道に配置します。甲斐統一と共に新拠点の移転を実施するなど整備発展に貢献した信虎の並々ならぬパワーは目を見張るものがあります。

やがて信虎は嫡子である晴信(後の信玄)により駿河国(信虎娘の嫁ぎ先)に追放され、以降は信玄が家督を継ぎ家臣となった国人達の揺ぎない支持を得てやがて信濃国への進出を図ってまいります。

当該館は一見した所、館を囲む水堀はありますが広さ・深さなどの規模大きくなく全体的に防御に心血注いでいるとは思われずむしろ甲斐国は周囲が山岳に囲まれていますので山岳そのものが防御と考えられていたと思われます。当然ながら周辺国境沿いには有力家臣団の出先が警備しており異常があれば即座に甲府に届くシステムはあった事でしょう。

元亀3年(1572)、信玄は病を押して武田軍勢と共に当館を出立しますが二度と帰ることはなく、信州駒場にて夢半ばにして53歳の生涯を終えることになります。

信玄の後継は武田勝頼(たけだ・かつより)ですが天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に数多くの有力重臣を失う程の大敗北を喫しこれを機に武田氏は凋落の一途をたどります。館に逃げ帰った勝頼は重臣の進言を得て居城を韮崎(にらさき)に築城をめざし1580年に新府城に居を替えますが、迫り来る織田軍の軍勢に対抗不可能と判断し半年足らずの新府城に火をかけて廃城とします。

天正10年(1582)織田・徳川連合軍の侵攻を受けて天目山にて勝頼以下自決、武田氏は滅亡し旧武田領は織田氏の支配下に入ります。

同年織田信長が明智光秀の夜襲を受けて本能寺にて自刃(本能寺の変)、代官の川尻秀隆(かわじり・ひでたか)が地元一揆で殺害され織田氏は影響力失います。

甲斐国信濃の領土をめぐり北条氏直と徳川家康が争い(天正壬午の乱)、和睦により当地域は徳川領と決定、同領の整備の為、再び躑躅ヶ崎に館が造られ行政の中心となりましますが、天正18年(1590)小田原の戦役で北条氏滅亡に伴い徳川家康の関東移封に関連して甲斐は豊臣秀吉の臣下が任じられ、甲府城の築城を機に躑躅ヶ崎館は廃城となります。

今では、躑躅ヶ崎館は武田神社として武田信玄を御祭神として祀っており、甲府の観光スポットとなっていますが、歴史的には信虎・信玄・勝頼の三代で60年間に亘り戦国の時代を生き抜いた館の姿は心打たれるものがあります。


2023年5月14日追記

神社内に設置の説明板には絵図とともに下記の記述があります。

「 国指定史跡 武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡)
           指定期日  昭和13年5月30日
           所在地   甲府市古府町大手三丁目・屋形三丁目

『武田氏館』は『躑躅ヶ崎館』とも呼ばれ、武田信玄の父信虎が永正16年
(1519)に石和からこの地に、館を移したことから始まります。
その後信玄・勝頼と武田家当主の館として使われました。そして、武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年間にわたり、このか館一帯は当国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。                                       

館は一辺が約200メートルの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その周りにいくつかの城郭とによって構成された平城形式のものです。

館の周りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に網られた道路に沿って、城下町が開けていました。

この館と城下町は、戦国時代の本拠として、第一級の規模と質を誇るものです。

          平成7年3月    
                    文 化 庁 』

一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 6:57発普通甲府行<br /><br />通勤通学の乗車で車内は混雑しています。

    6:57発普通甲府行

    通勤通学の乗車で車内は混雑しています。

  • 横浜線車両<br /><br />八王子からは東海道新幹線(新横浜)及び東海道線(横浜)<br />へのアクセスも便利です。この他当駅と高崎を連絡する八高線(はちこうせん)も利用できます。

    横浜線車両

    八王子からは東海道新幹線(新横浜)及び東海道線(横浜)
    へのアクセスも便利です。この他当駅と高崎を連絡する八高線(はちこうせん)も利用できます。

  • 普通電車の先頭車輌<br /><br />立川始発の電車です。<br />八王子から約100分で甲府に到着します。

    普通電車の先頭車輌

    立川始発の電車です。
    八王子から約100分で甲府に到着します。

  • 大月駅下車風景<br /><br />当駅で河口湖行(富士急行)に乗換えが可能です。

    大月駅下車風景

    当駅で河口湖行(富士急行)に乗換えが可能です。

  • 電車内風景<br /><br />大月を出ますと空席が目立ちます。<br /><br />

    電車内風景

    大月を出ますと空席が目立ちます。

  • 中央高速道路遠望<br /><br />勝沼に至る道路と電車が途中で並行しています。<br />

    中央高速道路遠望

    勝沼に至る道路と電車が途中で並行しています。

  • 勝沼ぶどう郷駅付近<br /><br />香しいぶどうが畑一面に栽培されています。

    勝沼ぶどう郷駅付近

    香しいぶどうが畑一面に栽培されています。

  • ブドウ畑<br /><br />ブドウ畑の向こうに甲府市街を望みます。

    ブドウ畑

    ブドウ畑の向こうに甲府市街を望みます。

  • 身延線案内板<br /><br />自分が甲府駅に到着しますとこの案内板が目に 入りました。特急「ふじかわ」の出発時間が近づいています。(このディーゼル車両で静岡に行けます。)<br />

    身延線案内板

    自分が甲府駅に到着しますとこの案内板が目に 入りました。特急「ふじかわ」の出発時間が近づいています。(このディーゼル車両で静岡に行けます。)

  • 特急「ふじかわ」全景<br /><br />JR東海カラーで車体が覆われています。(身延線はJR東海経営です)<br />以前は私鉄線だった経緯があり、プラットホーム位置が離れています。

    特急「ふじかわ」全景

    JR東海カラーで車体が覆われています。(身延線はJR東海経営です)
    以前は私鉄線だった経緯があり、プラットホーム位置が離れています。

  • 旧甲府駅煉瓦倉庫のモニュメント<br /><br />甲府駅開業当時(明治36年)に建設されたらしい。車内灯りはランプでして、灯油を補給する為、及びランプの整備の為に当倉庫で作業したと思われる。(説明文から)

    旧甲府駅煉瓦倉庫のモニュメント

    甲府駅開業当時(明治36年)に建設されたらしい。車内灯りはランプでして、灯油を補給する為、及びランプの整備の為に当倉庫で作業したと思われる。(説明文から)

  • 甲府駅改札<br /><br />特急「あずさ」の案内が出ています。松本ー新宿は特急が頻繁に走っていまして<br />サラリーマンの出張は日帰りが常識となっています。

    甲府駅改札

    特急「あずさ」の案内が出ています。松本ー新宿は特急が頻繁に走っていまして
    サラリーマンの出張は日帰りが常識となっています。

  • 甲府駅北口から武田通を臨む<br /><br />一直線のなだらかな上り坂です。歩いているうちに坂の厳しさで足が重くなります。<br />朝早いためか人通りがありません。

    甲府駅北口から武田通を臨む

    一直線のなだらかな上り坂です。歩いているうちに坂の厳しさで足が重くなります。
    朝早いためか人通りがありません。

  • 武田通に立つ重臣屋敷跡紹介<br /><br />飯富兵部少輔虎昌(おぶ・ひょうぶしょうゆう・とらまさ)の屋敷跡だそうです。

    武田通に立つ重臣屋敷跡紹介

    飯富兵部少輔虎昌(おぶ・ひょうぶしょうゆう・とらまさ)の屋敷跡だそうです。

  • 武田通に立つ重臣屋敷跡紹介<br /><br />馬場美濃守信春(ばば・みののかみ・のぶはる)の屋敷跡だそうです。 

    武田通に立つ重臣屋敷跡紹介

    馬場美濃守信春(ばば・みののかみ・のぶはる)の屋敷跡だそうです。 

  • 武田24将屋敷跡地図<br /><br />武田通の左右に並んでいます。

    武田24将屋敷跡地図

    武田通の左右に並んでいます。

  • 躑躅ヶ崎館跡(武田神社)全景<br /><br />今回で4回目ですが今回は久し振りの訪問です。

    躑躅ヶ崎館跡(武田神社)全景

    今回で4回目ですが今回は久し振りの訪問です。

  • 当時の絵地図(左側)と現地図(右側)<br /><br />位置関係がよく理解できます。

    当時の絵地図(左側)と現地図(右側)

    位置関係がよく理解できます。

  • 武田神社の紹介<br /><br />武田信玄公を祀っています。信玄公の由緒が簡単に紹介されています。

    武田神社の紹介

    武田信玄公を祀っています。信玄公の由緒が簡単に紹介されています。

  • 水堀と樹木<br /><br />お城らしい雰囲気が覗えます。中世型武士集団の居館でしょうか。

    水堀と樹木

    お城らしい雰囲気が覗えます。中世型武士集団の居館でしょうか。

  • 躑躅ヶ崎館紹介<br /><br />往時の甲府の姿が絵図として描かれています。

    躑躅ヶ崎館紹介

    往時の甲府の姿が絵図として描かれています。

  • 武田氏館跡の標柱<br /><br />神社の鳥居と周辺とが合致しません。館跡の整備保存の為ならばいたし方ありません。

    イチオシ

    武田氏館跡の標柱

    神社の鳥居と周辺とが合致しません。館跡の整備保存の為ならばいたし方ありません。

  • 静かな境内

    静かな境内

  • 玉垣内

    玉垣内

  • 広々とした境内

    広々とした境内

  • 鳥居から武田通りを展望<br /><br />直線道路は見ていて気持ちがいいです。信玄もここに立って戦略を練っていたのでしょうか。<br /><br />

    イチオシ

    鳥居から武田通りを展望

    直線道路は見ていて気持ちがいいです。信玄もここに立って戦略を練っていたのでしょうか。

  • 水堀と樹木<br /><br />一重の濠ですが平城と同じ規模でしょうか濠の道路側に記念写真屋さんが既に商売してますが見学者は少なくこれからでしょう。

    水堀と樹木

    一重の濠ですが平城と同じ規模でしょうか濠の道路側に記念写真屋さんが既に商売してますが見学者は少なくこれからでしょう。

  • 甲府駅行バス停<br /><br />お土産販売店も開店していますが人通り少ない状況です。帰路は下り坂ですから歩くのも一興でしょう。

    甲府駅行バス停

    お土産販売店も開店していますが人通り少ない状況です。帰路は下り坂ですから歩くのも一興でしょう。

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