2011/08/01 - 2011/08/09
1967位(同エリア6975件中)
ねいちゃさん
8月7日(日)、いよいよイタリア最終日。
「最後の晩餐」を見た頃が、ナンカ遠い記憶のような気がします。^^;
今日は完全自由行動、ツアーの皆さんとも一度も顔をあわせないので
なんちゃって個人旅行の気分となります。
今日のご予定はコロッセオ・フォロロマーノ・パンテオンetc。
その後は適当に時間と体力と相談しながら、
見られるところを回ります。
自由になると、いつも歩き倒すというチョー・ハードな行程で、
ろくすっぽ食事もとらないのが当たり前だったりするので、
今日もどうなることやら。
では、まずは「コロッセオ」を見に行くとしましょう。
ルネサンス・イタリア街物語・・・⑨(ローマ編PartⅢ)のはじまりです。
<旅程>
☆8月1日 関空→アムステルダム→ミラノ
☆8月2日 ミラノ
☆8月3日 ミラノ→ヴェローナ→ヴェネツィア
☆8月4日 ヴェネツィア→ピサ→フィレンツェ
☆8月5日 フィレンツェ→シエナ→フィレンツェ
☆8月6日 フィレンツェ→ローマ
★8月7日 ローマ
☆8月8日 ローマ→アムステルダム
☆8月9日 アムステルダム→関空
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス タクシー 徒歩
- 航空会社
- KLMオランダ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 近畿日本ツーリスト
-
6時起床、旅行中はいつも早起き、
今日もまだまだ元気そう。
ホテルのベランダから外の風景を・・・
日曜日のローマの街はまだ寝てます。
これからちょっと早朝散歩して、
朝ごはん食べたら、少し早めの7時50分に出発。
タクシー呼んでもらったらコロッセオへ。 -
タクシーは無人の荒野を進むように、
何の障害もなく10分程度で到着しました。
11ユーロだったんで、15ユーロ払ったら、
お釣りがないからって5ユーロ返してくれたぁ。
ぼったくられるどころか、1ユーロまけてもらう・・・
ローマでは貴重な体験?!が出来ました、
イタリア人にもいい人がいっぱいいるぞぉ!!。
朝から何だか爽やかな気持ちーーー。 -
コンスタンティヌスの凱旋門[Arco di Costantino]
312年のミルヴィオの戦いに勝利した記念に作られたものです。
この戦いはヴァチカン美術館のラファエロの絵画でも紹介させていただきましたね。
フランスの凱旋門と比べると、さすがにこぢんまりしてますが、ローマでは最大級。
内部は煉瓦造で外装を大理石で覆っていますが、その装飾は他の皇帝が作ったもののパクリっ・・・
いいやエコです。(笑) -
では、今回の「作戦」−当初はフォロ=ロマーノで共通券を買って、並ばすにコロッセオに入ろうと考えていたのです。
が、ツアーが行動するのは9時前後だろうから、みんなが行動を開始する前に、到着していればそんなに並んでないだろうとヨんで、8時10分頃に到着、行列はざっと20名ほど。
バッチリ作戦成功です、采配がズバズバ的中しております。
(まさに仰木マジック?!みなさん知らないやろねー) -
そうこうするうちに、地下鉄駅からワラワラと人々が。
あっという間に行列は2倍3倍と増えてきました。
いやーよかったぁ。
やがて8時半少し前にゲートが開いてチケット購入、「歩き方」では共通券は9ユーロと書いてあったけど、12ユーロになってました、値上がりしてます。
チケット購入口では英語が話せないと困ることもあるかもしれません。
中国人のバックパッカーの女性がチケットを売ってもらえなくて、窓口ではなんかいうたはるんだけどわからないみたいで・・・。
私らは普通にOKだったのですが、何だったんでしょう??? -
期待が高まってきております。ワクワクしてます。
いよいよコロッセオ・・・毎度ワンパターンですが、
心の準備はよろしいでしょうか?
・
・・
・・・では、どうぞー。 -
どぉーーーーーーん。
コロッセオでーーーす!! -
現在は床面に当たる場所が抜けていて、奴隷や猛獣が閉じ込められていた地下構造もよく見えています。
80年に完成したときには、100日にわたって興行がうたれたとか。
毎日毎日奴隷の殺し合いや猛獣との対決が繰り広げられ、毎日毎日血がながされたことになります。
今は兵者どもが夢の跡で、のどかな光景が広がっていますが、どれだけ多くの血をこの床面は吸ってきたんでしょうか。 -
コロッセオ内では、ネロ帝時代展のようなものをやっていました。
コロッセオがある辺りは、ネロ帝の「黄金宮殿(ドムス・アウレア[Domus Aurea])」の人工池があったところで、当初より窪地になってました。
暴君ネロはこの時代でも評判はよくなかったようで、その宮殿の遺構はことごとく破壊されました。
ただ一部残存した遺構(グロッタ)では、斬新な壁面の模様が評価され、ラファエロなどが好んで用い、のちの宮殿などの壁面模様に一部変化して取り入れられたりしています。
ちなみに「グロテスク」という言葉は「グロッタ」が語源だとか・・・。 -
館内展示の模型。これは何かというと、人力エレベーター。
3〜4名で滑車を回すと、猛獣の檻がコロッセオの舞台にせりあがっていく仕組み。
しずしずとのぼってくる猛獣に観客たちの興奮は最高潮に盛り上がる・・・よく考えられた演出です。
一言で「パンと見世物」と言われますが、コレは単なる「見世物」ではなく、「殺し合いのエンターテイメント・ショー」だったんです。 -
館内展示の出土品。
動物の頭蓋骨がナンカ当たり前のように展示されていて、犬好きの私としてはちょっと悲しくなる光景でした。
「古代」の「命」に関する考え方ってどうだったんでしょうね。
また写真のようにコロッセオ周辺は、かつてのローマの中心地で、ちょっと掘ればあちこちから出土品がゴロゴロ出てきます。 -
では、しばらくはコロッセオの雄姿をご覧頂きましょう。
写真がいっぱいありすぎて、チョイスが難しかったです(^^; -
-
コンスタンティヌスの凱旋門を
上部から眺めるという経験は
ナカナカないものです。 -
-
コロッセオの観客席は身分によって分けられ、
1階席は元老院議員(貴族)、
2階席は騎士(エクイテス=徴税請負の富豪平民)、
その上が市民、最上階は市民権を持たない人、
となっておりました。
身分というものはこういうことだを視覚的にわからせていたのでしょうねぇ。
市民権を得ればもっと近いところで見ることができるよ・・・みたいな。 -
5層目上部は日差しよけの天幕がはられる装置の一部があったようです。
皇帝席は一日中日差しが当たらないように工夫もされておりました。
至れり尽くせり、ここはまさしくローマ・ドームだったのですね。 -
コロッセオの地下には巨大な下水道(クロアカ=マクシマ)があって、大量の入排水が可能となっていました。
そのためアリーナに水をはって、模擬海戦も行われたようです。
ローマ人、やることが剛毅ですね。 -
どこかの団体さんが、あの奥の所にいますが、後ほど行ってみたら入れませんでした。
結構探したんですけど、特別な予約とかコースとかがあるのかもしれません。
ご存じの方がおられましたら、教えてくださーい。 -
-
-
闘技場としての使用が終わると、ここはかっこうの採石場となって、多くの石や煉瓦が持ち出されました。
それでもキリスト教徒が迫害を受けた場所だからと、やがて保護されるようになったそうです。
でもサン=ピエトロ大聖堂を作る時は持って行ってますが・・・
聖地から聖地だからいいんかなー? -
コロッセオは堂々として、これぞローマと思わせてくれました。
ツアーの行程表では下車観光だけで中には入れないとあったから、自由にゆっくりたっぷり見学できたので大満足でした。
じゃあ次はフォロ=ロマーノに行きましょう。
フォルリインペリアール通りを少し歩けば到着します、ホントにすぐそこ。
あ、入る前に水の用意を、中は何も売ってませんから、必需品です。 -
フォロ=ロマーノ[Foro Romano]・
フォーリインペリアーリ通り入場口
7つの丘に築かれた集落の窪地にあたる、この平坦地に広場(フォルム)が作られるのは、各集落に属さない共同地で会議を行うのに便利だったため。
地形的にもかっこうの場所だったようで、やがて共和政から帝政にかけて、ローマの政治・経済の中心地に必然となってゆきました。
今は往時を偲ぶことも難しいですが、それでも全てが遺跡づくし、たっぷりと古代に想いをめぐらせてみたいと思います。 -
バシリカ・アエミリア[Basilica Emilia]
第二回三頭政治の一角を担ったレピドゥスによって建設されたバシリカ。
ここでは重要な裁判が行われ、正面には商店なども並んでいたといいます。
今は基礎だけしかありません。
アエミリアというのはレピドゥスの出身家で、
古代ローマの名門のお家柄でした。 -
アントニヌスとファウスティーナの神殿
[Tempio di Antonino e Faustina]
五賢帝の4人目のアントニヌス=ピウス帝が、前年に亡くなった皇后ファウスティーナのために141年に建造した神殿。
皇帝自身も妻と共に祀られています。この場所には不似合いなファザードは、17世紀に教会に転用されて改築されたもの。
入口を入ってすぐ左にあったのですが、
修築中で内部は見られなかったです。 -
ロムルスの神殿[Tempio di Romolo]
西のローマ帝国の正帝マクセンティウスが、幼くして亡くなった息子ロムルスのために建設に取り組んだ神殿でしたが、彼自身コンスタンティヌスにミルヴィオ橋の戦いで破れ水死したため未完成のまま放置されました。
ミルヴィオ橋の戦いって何回かこの旅行記にも登場しております、ローマではかなり重要な戦いだったようです。 -
マクセンティウスのバシリカ[Basilica di Massenzio]
−別名コンスタンティヌスのバシリカ
308年マクセンティウスが起工し、コンスタンティヌスが312年完成させました。
今は北側の側壁しかのこってないですが、アーチ型の廊下の天井は八角形のくぼみとなっていて必見の価値あり。 -
マクセンティウスのバシリカの後陣
ここにはコンスタンティヌスの巨像が置かれていたそうです。
カンピドリーオ広場にある「コンセルヴァトーリ美術館」にはその頭部を見ることができるみたいです。
今回は寄ってないので私は見てませんが・・・。 -
考古学博物館[Antiquarium del Foro]
S.M.ヌオーヴァ教会の右側にある博物館。
ここで発掘された遺物が展示されています・・・
が、フォロ=ロマーノ自体遺跡だらけなので、どうも触手が伸びなくてもういいかなーと思ってみませんでした。
何があったのかな? -
この博物館の右手はコロッセオの撮影スポット。
全景をおさめることができますよ。
あんまり近づきすぎると広角レンズがないと苦しいかもしれませんが・・・。コロッセオを斜め上部から写真におさめられる撮影スポットってどこかご存じありませんか?
上からの写真は空撮しか見たことないですし・・・。 -
ティトゥスの凱旋門[Acro di Tito]
フォロの東端に残る高さ15.4mのローマ市最古の凱旋門。
ティトゥス帝がユダヤ戦争の戦勝記念として81年に建立しました。
暴君ネロが自殺した後、わずか1年に4人の皇帝が廃立するという混乱を終息させたのが、父ウェスパシアヌスでその後を継いだのがティトゥス帝。
わずか2年の在位でしたが、彼の善政は後の五賢帝の模範となりました。
評価の高い名君なのですが、人によっては2年くらいじゃ何とも言えないと厳しい評価を下す人もいます。
我が国の首相は1年ごとに替わっておりますし、
おしなべて低い評価ですが、何か? -
聖なる道[Via Sacra]
−ティトゥスの凱旋門からコロッセオをのぞむ
遺跡と広場の間を通りティトゥスの凱旋門をぬけてコロッセオに続いています。
通常戦勝パレードはこの道を通って元老院の前に行き神殿まで向かっていったそうです。
写真には鉄柵が見えてますが、こちらはフォロ=ロマーノの出口専用で、ここからは入れません。
フォロロマーノに入場できるのは2カ所のみで、フォーリ=インペリアーリ通りからとサン=グレゴーリ通りから。
お間違いなく。 -
ヴェスタの巫女の家[Casa delle Vestali]
ヴェスタの神殿に隣接する巫女たちの家。
ヴェスタはローマ神話に出てくる処女神で「竃」の神様。
古代ローマでは国家は家族と考えられ、家庭の守護神は国家の鎮護神にもなるので、「竈」=「炎」がご神体とされました。
この「炎」を守るのが巫女で、処女神に仕える以上、巫女も処女でなければならなくて、掟を破りHをしちゃうと「不浄者め、ローマに災いをもたらすのかーっ!」と生き埋めの刑に処せられたそうです。
「なんとまぁ!!」なお話ですが、ヨーロッパではこういう純潔意識の尊さというのは、キリスト教の修道女や受胎告知のお話などいくらでも見られます。
逆にいえばそれだけ希少価値なので、より神に近い存在となり得たということでしょう。 -
ヴェスタの巫女の家の中庭
神に仕えて清貧な毎日を過ごしていたであろう巫女たちに、一時の憩いを与えてくれた中庭だったのかもしれません。
今あるのはもちろん復元ですが、フォロ=ロマーナで往時を偲ばせてくれる数少ない風景。
その庭の向こう側、ちょうど中央の白壁のある小さな3本の列柱がヴェスタの神殿跡です。 -
ヴェスタの神殿[Tempio di Vesta]
円を描いているのがわかりますか。
当時はコリント式の列柱が20本立っていて、その円の中に「聖火」が灯されていたそうです。 -
フォロ=ロマーノとパラティーノの丘の全景地図
ご覧のように広大な敷地です。
パラティーノの丘に上ってしまうとかなり時間がかかるので、私たちはフォロ=ロマーノのみにしましたが、入場券では両方見ることができます。
パラティーノの丘にはアウグストゥスの家やスタディオがあり、高台にあるためチルコ=マッシモやフォロ=ロマーノなどを見下ろせる眺望ポイントもあります。 -
カストルとポルックスの神殿
[Tempio di Castore e Polluce]
紀元前495年のレギッルス湖畔の戦いは、旧王と共和政軍との戦いで、伝説ではゼウスの子のカストルとポルックスという双子神が騎手として現れ、共和政軍に加勢して勝利しました。
この神殿は勝利をもたらしたその双子神に捧げるため、彼らが現れた場所に建てられています。
ローマ大火の折には崩壊しましたが、紀元後6年2代皇帝ティベリウスによって再建され、残存する3本の列柱はその時のものだそうです。
後世になって幾度も略奪や破壊に合いましたが、ここでは今なお最も有名で由緒ある建造物だと言われています。 -
ユリウスのバシリカ[Basilica Giulia]
表示ではユリアのバシリカ[Basilica Iulia]となってましたが、多分同じものでしょう。
長さ約100m・幅約50mの長方形、フォロ最大の遺構で現在は床面しか残っていません。
カエサルが着工しアウグストゥスが完成させたこのバシリカは、「聖なる道」の真横に位置し、4つの裁判所が設けられて、いつも大勢の人々が訪れていたと言われております。
ほぉ〜、ここがフォロの中心地だったわけですね。 -
ユリウスのバシリカの下部のクロアカ=マクシマ
[Cloaca Maxima]
ぼーとして歩いていると、クロアカ=マクシマ入口発見!!
この辺りは低湿地でウェラブルムという川が流れていましたが、ここが政治の中心地となると、この川は下水道として暗渠化されたそうです。
こういったローマのインフラ事業というのはつくづく感心させられます。
コロッセオの模擬海戦もこの下水道があったからこそ可能だったわけで、ここからテヴェル川まで約1.5?も続いていたそうです。
ちなみに、「真実の口」はこの下水道のマンホールだったとか、もし本当ならみんなマンホールの中に手突っ込んでいることになりますよねー。
ローマ人は現代人が、なぜそれを有り難がっているのかと、きっと理解に苦しんでいることでしょうねぇ。 -
イチオシ
クーリア[Curia]
煉瓦でできた右の大きな建物は元老院があったクーリアで、いわゆる当時の国会議事堂。
カエサルが着工し、アウグストゥスが完成させました。
その後ディオクレティアヌス帝が立て直し、中世では教会として利用されたといいます。
今見る建物は今世紀になってディオクレティアヌス帝時代のものを復元したのですが、周りの遺跡群に対して、かなり立派すぎて逆に違和感がちょっとあります。
当時を偲ぶにはいいんでしょうけど・・・。 -
イチオシ
セウェルスの凱旋門とフォカスの記念碑
[Colonna de Foca]
東ローマ皇帝フォカスを称えるために、ロストラの前に建立された石柱で、フォロ=ロマーノ最後の建造物。
柱頭に黄金のフォカス像が乗っており光り輝いていたそうですが、東ローマ皇帝によるローマ支配は長く続かず、やがてランゴバルトの支配下に置かれることになります。
東ローマとフォロ=ロマーノが絡んでいる歴史があるとは思わなかったです。
勉強すると色々解ってくるから面白い。 -
クルティウスの泉
(ラクス=クルティウス[Lacus Curtius])
ロムルスが行ったザビニ女の略奪に、報復してきたのがザビニ人の敵将クルティウス。
戦いはザビニ側優位に展開しましたが、ロムルスがユピテルに戦勝を祈願すると戦局は逆転。
敗走するクルティウスは、ここの沼に乗馬のまま落ちて何とか命は助かったものの、戦いはローマの勝利に終わりました。
その地にできたのがこの泉で、このように呼ばれるようになったとか。
ただし、由来に関する伝説はいくつかあって、これはその中の一つにすぎません。 -
ユリウスのバシリカの西端。
西北角の壁面がわずかに残っています。 -
サトゥルヌスの神殿[Tempio di Saturno]
最初の建築は前5世紀で共和政期の神殿としては最も古いものですが、その後幾度も再建や修築が行われてきました。
前42年頃オクタヴィアヌスがプランクスにその再建を依頼していますが、このプランクス、彼に「アウグストゥス」の尊称を与えた人だそうです。
また283年のカリヌス帝の火災で被害を受け再建されてもいます。
現存しているのは神殿正面と八本のイオニア式石柱と上枠で、その上枠には
「ローマ元老院と人民が火災で焼失した○○○○○再建した[Senatus populusque Romanus incendio consumptum restituit]」
と刻まれていますから、カリヌス帝の火災以降に再建されたものだということがわかります。 -
ウェスパシアヌスとティトゥスの神殿
[Tempio di Vespasiano e Tito]
ドミティアヌス帝が紀元87年ごろ完成させ、兄ティトゥスと父ウェスパシアヌスを祭る神殿としました。
弟が父・兄を神格化させたのは自分の治世の正統性を強調するためだと考えられます。
私は、皇帝崇拝は後期帝政頃のものとばっかり思っていたので、すでにこの頃からあったというのは新たな発見でした!!
現存するのは玄関のポーチを作っていたコリント式の石柱のみですが、この神殿、後に見えているタブラリウムの建物との距離がないので、非常に小さめの神殿だったようです。 -
コンコルディア神殿[Tempio di Concordia]
コンコルディアは協調・相互理解・調和の女神で、この神殿は前367年リキニウス=セクスティウス法制定による貴族と平民の和解を記念して建てられたそうです。
護民官のティベリウス=グラックス暗殺後の前121年に最初の再建が行われたのも、ローマ国家の調和をはぐくむ意味だったと思われます。
当時は美術館のようだったとプリニウスが「博物誌」で述べているように、大変立派な建物だったようですが、今残っているのは基部のみで、カンピドーリオの丘へ上る階段の下に静かに横たわっています。
リキニウス法とかグラックス兄弟とか博物誌とか、世界史で習った用語がでてきて、何かワクワクしますねー、え?私だけ? -
セウェルスの凱旋門[Arco di Settimio Severo]
フォロの西端に建つ高さ23mの凱旋門は、皇帝セプティミウス=セウェルスのパルティア遠征の戦勝記念として203年に建てられました。
セウェルスという皇帝についてはローマ通の方でも余りご存じないと思いますが、カラカラ帝の父というと何となくイメージできるかもしれません。
軍事力を背景に田舎貴族出身から元老院議員、そして皇帝にまで上り詰めた人ですが、この軍人優遇政策はやがて軍人皇帝時代を迎える道を開いてしまいました。 -
カエサルの神殿[Tempio di Cesare]
前44年ブルートゥスら共和主義者に暗殺されたカエサル、その遺体はフォロのレギア前で火葬に付されました。
前42年第二回三頭政治のアントニウス・オクタヴィアヌス・レピドゥスらは、その場所にカエサルに捧げた神殿を造ることを決め、前29年アウグストゥスによって神殿は建造されたといいます。
写真は基壇部分の壁に隠された円形のモニュメントで、カエサルが火葬された場所に置かれた祭壇跡と思われています。
元々祭壇には壁などなかったのですが、救いを求める人々が多く押し寄せたため、アウグストゥスが基壇で完全に隠したらしい。
自分よりカエサル人気が高いからの嫉妬でしょうか、その企みは成功していないようで、2000年以上も経った今でも花束が置かれています。
アウグストゥスの名前は知らなくても、カエサルを知らない人は少ないってことが物語っているようです。 -
イチオシ
夏の炎天下でのフォロ=ロマーノは地獄です。
時々意識が飛びそうになりましたが、歴史好きとしてはこれ以上有り難い場所もないわけで、頑張れるだけ頑張ったし大変勉強にもなりました。
今度は季節の良い時に来たいものです。
さて、外に出るとしますか。
カンピドーリオ広場への出口がセウェルス凱旋門の裏手にあったのでそこから退場することにしましょう。
後半は「ルネサンス・イタリア街物語・・・⑩(ローマ編PartⅣ)」に続きます。
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