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今宮神社を出発したバスは、「日光例幣使街道」(壬生街道)を北進し、杉並木に入る。<br /><br />徳川家康は死後、朝廷から「東照大権現」と云う神様の称号を賜り神となり、東照社(後の東照宮)に祀られ、<br />家康の命日の祭例に「日光例幣使」が派遣されようになる。<br /><br />「日光例幣使街道」は京を出発したこの「日光例幣使」が往路に通った街道であり、芭蕉達もこの道を辿って日光に向かう。<br /><br />またこの街道の杉並木は、川越城主・松平正綱(徳川譜代の家臣)と子正信が20年間に渡り植林を続け、徳川家康の三十三回忌に日光東照宮へ寄進したもの。<br /><br />3本の日光杉並木の中で、最も長く美しいのが「日光例幣使街道の杉並木」と解説の先生。<br /><br />「日光例幣使街道」は今市で日光道中と合流し、その先程なくしてバスを降りる。<br /><br />宝物館に向かう鬱蒼とした杉並木を進み、右折れした先に建つ宝物館を見ながら左に足を延ばす。<br /><br />別れ道の角に、日光市及び日光三山が建立した、芭蕉が日光で詠んだ句が刻まれた碑が、句の言葉通りの景観を背に佇んでいた。<br /><br />  あらたふと 青葉若葉の日の光<br /><br />その更に先に青々とした森に連なる鳥居が建っており、奥には旧東照宮の唐門の遺構が移設されていた。<br /><br />両者とも重要文化財。<br /><br />立派な杉の大木が連なる参道を進むと、正面奥は3代将軍家光の菩提寺・日光山輪王寺「大猷院廟奥の院」、その手前右側に日光二荒山神社の入り口の鳥居が見えてくる。<br /><br />この旅行を企画した旅行会社から配布された資料によると、この一帯の山の総称『”二荒山”は観音菩薩が住んでいたとされる「補陀落山(ふだらくさん)」が転嫁したものとされ、「二荒」を「にこう」と読み替えて、これに「日光」の字を当てたものが、地名としての日光の起こりだ』としている。<br /><br />また同資料によると、日光二荒山神社の起源は766年に遡り、現在の我々には日光と云えば「日光東照宮」(家光が1634年造営を開始する)を頭に浮かべるが、日光二荒山神社は日光東照宮より1000年近くも古い歴史を持つ。<br /><br />現在の社殿は1619年、2代将軍・徳川秀忠が造営したとの事だが、実に綺麗に整備されている。<br /><br />ところで奥の細道には日光二荒山神社に関する記述は無い。<br /><br />芭蕉が訪れたのは、芭蕉が敬愛する徳川家康の墓所日光東照宮。<br /><br />芭蕉は予め江戸浅草の清水寺(せいすいじ)から紹介状を貰い、宿坊・養源院の僧の付き添いで大楽院(現在の社務所)に向かったが、東照宮の見学は2時間も待たされた後であったため、その日は東照宮の見学だけで、そのまま日光での旅籠、鉢石の”五左衛門”に戻っている。<br /><br />&quot;これ以上日光山にふれるのは恐れ多い&quot;と奥の細道での日光の記述は至って少ないが、それに代わって日光での旅籠の主人”仏五左衛門”についてのいたって気楽な記載が有る。<br /><br />また芭蕉はこの章で初めて付き添ってくれている曾良を紹介し、曾良がこの旅に際し、武士を捨てて髪をおろし、墨染の僧侶姿となり、名前迄も改名しこの旅に臨んだ決意を愛で、曾良が黒髪山の麓で詠んだ句を添えている。<br /><br />芭蕉が日光に到着した4月1日は”衣替え”の日でもあった。<br /><br />   剃り捨てて 黒髪山に衣更<br /><br />日光二荒山神社を降りた所のレストランで昼食。<br /><br />レストランの隣の、大正時代創建と云う教会で、結婚式の準備が行われていた。<br />

奥の細道を訪ねて[第3回]③日光三山の一つ日光二荒山神社 in 栃木県日光市

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2011/04/20 - 2011/04/20

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WT信

WT信さん

今宮神社を出発したバスは、「日光例幣使街道」(壬生街道)を北進し、杉並木に入る。

徳川家康は死後、朝廷から「東照大権現」と云う神様の称号を賜り神となり、東照社(後の東照宮)に祀られ、
家康の命日の祭例に「日光例幣使」が派遣されようになる。

「日光例幣使街道」は京を出発したこの「日光例幣使」が往路に通った街道であり、芭蕉達もこの道を辿って日光に向かう。

またこの街道の杉並木は、川越城主・松平正綱(徳川譜代の家臣)と子正信が20年間に渡り植林を続け、徳川家康の三十三回忌に日光東照宮へ寄進したもの。

3本の日光杉並木の中で、最も長く美しいのが「日光例幣使街道の杉並木」と解説の先生。

「日光例幣使街道」は今市で日光道中と合流し、その先程なくしてバスを降りる。

宝物館に向かう鬱蒼とした杉並木を進み、右折れした先に建つ宝物館を見ながら左に足を延ばす。

別れ道の角に、日光市及び日光三山が建立した、芭蕉が日光で詠んだ句が刻まれた碑が、句の言葉通りの景観を背に佇んでいた。

  あらたふと 青葉若葉の日の光

その更に先に青々とした森に連なる鳥居が建っており、奥には旧東照宮の唐門の遺構が移設されていた。

両者とも重要文化財。

立派な杉の大木が連なる参道を進むと、正面奥は3代将軍家光の菩提寺・日光山輪王寺「大猷院廟奥の院」、その手前右側に日光二荒山神社の入り口の鳥居が見えてくる。

この旅行を企画した旅行会社から配布された資料によると、この一帯の山の総称『”二荒山”は観音菩薩が住んでいたとされる「補陀落山(ふだらくさん)」が転嫁したものとされ、「二荒」を「にこう」と読み替えて、これに「日光」の字を当てたものが、地名としての日光の起こりだ』としている。

また同資料によると、日光二荒山神社の起源は766年に遡り、現在の我々には日光と云えば「日光東照宮」(家光が1634年造営を開始する)を頭に浮かべるが、日光二荒山神社は日光東照宮より1000年近くも古い歴史を持つ。

現在の社殿は1619年、2代将軍・徳川秀忠が造営したとの事だが、実に綺麗に整備されている。

ところで奥の細道には日光二荒山神社に関する記述は無い。

芭蕉が訪れたのは、芭蕉が敬愛する徳川家康の墓所日光東照宮。

芭蕉は予め江戸浅草の清水寺(せいすいじ)から紹介状を貰い、宿坊・養源院の僧の付き添いで大楽院(現在の社務所)に向かったが、東照宮の見学は2時間も待たされた後であったため、その日は東照宮の見学だけで、そのまま日光での旅籠、鉢石の”五左衛門”に戻っている。

"これ以上日光山にふれるのは恐れ多い"と奥の細道での日光の記述は至って少ないが、それに代わって日光での旅籠の主人”仏五左衛門”についてのいたって気楽な記載が有る。

また芭蕉はこの章で初めて付き添ってくれている曾良を紹介し、曾良がこの旅に際し、武士を捨てて髪をおろし、墨染の僧侶姿となり、名前迄も改名しこの旅に臨んだ決意を愛で、曾良が黒髪山の麓で詠んだ句を添えている。

芭蕉が日光に到着した4月1日は”衣替え”の日でもあった。

   剃り捨てて 黒髪山に衣更

日光二荒山神社を降りた所のレストランで昼食。

レストランの隣の、大正時代創建と云う教会で、結婚式の準備が行われていた。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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