2011/03/11 - 2011/03/11
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ドクターキムルさん
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横浜市戸塚区俣野町にある観音堂は、石橋山合戦(治承4年(1180年))で源頼朝と戦った大庭影親の弟俣野五郎景久が最後の時に家臣に託し故郷の相模国俣野村に送った守護仏であった観音像を祀ったとされる。東俣野町には俣野五郎景久の屋敷伝承地の1つがある。
今では観音堂の前には明治学院大学戸塚グラウンドがあるが、昔の鎌倉街道西の道にあたり、庚申塚や道祖神、お地蔵さまなどが多く見られる。狭い曲がった道路沿いにの民家には長屋門や石造りの土蔵なども建っている。昔懐かしい風景が残っている地域である。
(表紙写真は俣野観音堂)
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俣野観音堂。昨年春に再建されたばかりで新築だ。福泉寺の管理だそうだ。
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「俣野五郎影久と観音堂
治承四年八月二十三日(一一八○)伊豆に流配中の源頼朝が平家政権打倒のため石橋山に挙兵すると平家側の総大将として是を襲ったのは藤沢の大庭影親であったが弟俣野五郎影久は家臣長尾兄弟(上杉謙信の祖)と源氏の先陣佐奈田与一を討ち取り、頼朝軍は敗走辛うじて房総に逃れた。
頼朝が源氏累代の家臣、千葉一族の協力を得て勢力を回復し十月鎌倉に入府すると大庭影親を片瀬川畔で梟首し、五郎影久を遠く京都に敗走させて石橋山の報復を遂げた。
寿永二年五月、俣野影久は平宗盛軍の将として頼朝の従弟木曽義仲の軍と加賀の篠原で対戦したが、平家の敗色濃厚で、武将の間から、いっそ源氏に鞍替えしてはとの話が出ると影久は強く反対し「武士としていさぎよく討死」の覚悟を示し、守護仏の観音像を家臣に托して母の待つ故郷、相模国俣野村に送って自らは壮烈な最期をとげた。
いま篠原には影久の戦友で共に討死した斎藤実盛の墓はあるが、影久等の墓はない。
推うに実盛はまだ三歳だった義仲が殺されるのを助けた生命の大恩人であるが、是に反し影久は徹底した反源氏の将なるが故に、その墓が憚られたものに相違ない。
影久に由緒ある観音堂は、茲、鎌倉街道西の道に接してはいるが、治承の昔からこの地に建立されていたかは定かではない。
大正地区歴史散歩の会
平成四年十月吉日 建 之」。 -
庚申塚。移設されたものだ。
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庚申塚。
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庚申塔(嘉永元年(1848年)銘)。
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堅牢地神(弘化4年(1847年)銘)。「上俣野村」と彫られている。俣野町はかつては上俣野村であった。始めは東俣野村内であったが寛永年間(1624年〜1644年)に上下に分村して相模国鎌倉郡上俣野村(現俣野町)・下俣野村(現東俣野町)になった。それ(寛永年間)以前に東西に分割され、さらに寛永年間に上下に分村された。こうした複雑な経緯があり、境川を挟んで、藤沢市側に残る西俣野が相模国鎌倉郡西俣野村で、横浜市側に残る東俣野町と俣野町が相模国鎌倉郡東俣野村であった訳だ。
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判読できず。
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梅林。
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長屋門。最近のもののようだ。
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お地蔵さま。
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お地蔵さま。
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「為天下泰平国安全世安楽‥‥」(正徳3年(1713年)銘)。
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石碑。磨耗が甚だしく判別できない。
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石の蔵。
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