2010/09/25 - 2010/09/25
7254位(同エリア12057件中)
熱帯魚さん
さて、時計を見るともう夕方5時過ぎ。
朝10時から散歩を始めて、昼食をとった時以外は
ずっと歩きっぱなしでした。
外も暗くなってきたので、虎丘路を散歩して帰ることに。
虎丘路について知ったのは東方航空の機内誌ででした。
ちょうど上海万博にあわせて、上海の名所についての紹介が
書かれていて、そのうちのひとつが虎丘路でした。
博物館があったことから、博物館路と呼ばれていたこの通り。
さあ、昔の芸術文化活動の中心にレッツゴー!
★★ 虎丘路について ★★
虎丘路は上海の文化芸術活動の先がけとなった場所でした。1860年代初め、上海公共租界工部局がこの通りを修築、1865年に圓明園路と名づけました。1873年、亞洲文会北中国支会博物院がこの地に開設されたことから、1886年に通り名は博物館路に変更されました。当時は劇場、本屋、博物館、教会などが立ち並び、賑やかだったそうです。。そして1943年に再び改名され、虎丘路になりました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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お散歩も終りに近づいてきました。北京東路X虎丘路のT字交差点はすごいバイク&自転車の数!!
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○ 中実大楼(北京東路130号)
現:水利電力部、華東電力設計学院
1917年に建てられた古典折衷主義建築。 -
写真の左下の門から、ものすごい数のバイク&自転車が出てきて驚きでした。どこからつながっているのでしょうか。
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さあ、虎丘路散歩を始めます。
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○ 亜洲文会(虎丘路20号)
現:上海外灘美術館
亜洲文会は正式には「亜洲文会北中国支会(North China Branch of the Royal Asiatic Society)」という名前です。英国皇家亜洲文会(Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland)の支部で、英国人が上海に設立した東アジア文化研究機関でした。
1823年英国政府はアジア各地の自然や鉱産標本を収集し、皇家亜洲文会を設立、インド、バングラディッシュなど英国植民地に支部を設立しました。1842年英国は香港を取得、その後1947年に英国宣教師Alexander Wylieが香港に「中国支会(中国支部)」を創設しました。
1857年10月16日、上海に「上海文理学会」が創設され、翌年香港の皇家亜洲文会と連絡を取り、上海文理学会は皇家亜洲文会北中国支会と改名されました。会は、外国人の上海での自然、文化学術研究のための機関でした。 -
(つづき)
北中国支会は、標本を収集、展示し、学術研究や討論の場を設けるために、1868年2月博物院建設を提案しました。1871年、上海英租界当局は租界内の土地を文会に分け与え
、英国領事と工部局の資金援助のもと、会所が建てられました。会所内には、博物館、蔵書館などがあり、東方学研究の中心となりました。
1871年に会所を建設してから1930年まで、60年がたち、建物の老朽化が顕著になってきたことから、もとの建物を解体し、その跡地に新しい建物が建設されました。建物は公和洋行の設計で、5階建ての鉄筋コンクリート建築。1932年竣工。上から見ると正方形の形をしています。入口の両脇には八卦窓があり、一対の獅子が設置されています。石の手すりや屋根など、中国伝統の装飾が施されています。 -
イチオシ
(つづき)
当時の亜洲文会は、1階が講演ホール、2階が図書館、3階以上が博物院の陳列室でした。中でも4階の生物標本展覧室には、1万種あまりの動物の標本がおさめられていました。5階は歴史文物陳列室で、漢代の石馬、魏晉の石刻、石像、石碑、陶器、銅器、貝殻、墓像などがおさめられていました。
新中国が成立すると、亜洲文会の所蔵品が分類され、各所におくられました。建物と蔵書は上海図書館のものに、鉱産、自然標本は上海自然博物館に、文物と文物資料は上海博物館に所蔵されました。文管部門は文会大楼に移管され、上海図書館書庫となりました。
2005年12月、ロックフェラー集団により外灘源プロジェクトの一部に選ばれ、現在の亜洲文会は上海外灘美術館として使われています。 -
次回は美術館に行ってみようと思います。
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虎丘小区という住宅街がありました。
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○ 広学大楼
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とげとげ。裏(圓明園路)には同じくとげとげの真光大楼があります。
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○ 光陸大劇院(虎丘路142号)
現:光陸大楼
劇や映画の好きな英国人らが「愛美者劇社(A.D.C.)」、すなわち大英劇社を結成。上海運動事業基金会董事会が出資し、圓明園路に木造の劇場を建てました。1874年に建物は火災に遭い、虎丘路に娯楽施設「光陸大劇院」を建てました。
建物は斯文銀行が出資し、鴻達洋行が設計した、鉄筋コンクリート構造のビルです。1928年竣工。アールデコ調の装飾がなされ、塔のスタイルには特徴があります。上から見ると扇型になっています。1階と2階が映画館で、そのほかは事務所やアパートとして使われていました。 -
(つづき)
英米商人によって開設されたため、館内では主に英国、米国映画が上映され、西洋劇も演じられたそうです。また、カラオケ、ボールルーム、バーなどの設備もありました。客席は2階建てで、900数席と、両側に個室が設けられていました。1920、30年代は、大光明、大上海、奥提翁などの劇場とともに一等劇場(頭輪電劇院)に位置付けられていましたが、その中でも一番チケットが高額だったのが、光陸大劇院でした。
ところが、光陸大劇院に手ごわいライバルが現れます。それが新大光明電影院でした。新大光明電影院が落成すると、新大光明電影院の立地の良さとチケットの手ごろさから、光陸大劇院の経営は悪化、1933年8月に閉鎖に追い込まれました。その後、建物は蘭心大劇院のオーナーに買収され、蘭心大劇院の支店となりました。 -
(つづき)
戦時中は、劇場は汪精衛が設立した中華電影公司の管轄下に置かれ、「文化電影院」と名前を変えました。戦後は、米軍クラブとしてしようされ、1953年上海市文化局に移管されると、曙光劇場と名前を変えました。その後、ドキュメンタリーを専門に放映する曙光新聞電影院となりました。現在は上海市国際貿易会堂として使われています。 -
○ 青年協会楼(虎丘路131号)
現:虎丘公寓
もとは、中華基督教青年会全国協会が建設した青年協会大楼。1919年から1924年にかけて、レンガとコンクリートで作られた建築。現在はアパートとして使われています。入口は凹型になっています。内部設備は当時の米国の一般アパートを参考に作られており、水道電気瓦斯浴室が完備されていました。 -
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さてそろそろ帰ります。
…と思ったら、工事現場のオヤジに、「いい写真撮れた?」って話しかけられました。昼間、私を見かけたらしいです。「ずーっと写真撮ってたの?」って聞かれました。 -
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香港路を通ることに。
ここにも古い建築があったのですが、あまりにも道が狭くて暗くて、写せず。 -
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四川中路を歩き…
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南京東路へ。
もうこの時点で足が痛くて歩きづらかったです。もともと足が悪いのに、7時間近く歩いていたから当たり前ですかね…
とにかくこの日は色々外灘のことを学んだ一日でした〜
おわり。
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