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南京東路までやってきました。<br />この時はちょうど万博開催中だったので、<br />このあたりまで来ると地方からの観光客でいっぱい。<br />和平飯店の前なんて、たまり場になっていたくらいです。<br /><br />そんな南京東路を横切り、さらに外灘散歩を続けます。<br />外灘24号では、菩薩彫刻も発見し、驚きました。<br /><br />(建物の説明は中国語資料を参考に、翻訳編集した文章なので、日本語が少しおかしいかもしれません…)

上海★朝の外灘散歩4★菩薩彫刻も!外灘20号~33号

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2010/09/25 - 2010/09/25

3099位(同エリア11700件中)

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熱帯魚

熱帯魚さん

南京東路までやってきました。
この時はちょうど万博開催中だったので、
このあたりまで来ると地方からの観光客でいっぱい。
和平飯店の前なんて、たまり場になっていたくらいです。

そんな南京東路を横切り、さらに外灘散歩を続けます。
外灘24号では、菩薩彫刻も発見し、驚きました。

(建物の説明は中国語資料を参考に、翻訳編集した文章なので、日本語が少しおかしいかもしれません…)

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
交通手段
旅行の手配内容
個別手配

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  • ○ 外灘20号<br />沙遜大厦<br />現:和平飯店北楼)<br /><br />「極東ナンバーワンビル」とも称される外灘20号は米国シカゴ学派の建築様式。外観はシンプルで、縦の線を強調し、花崗岩の壁、純度の高い銅で表面を覆い墨緑色に塗られた四角錐の塔など、上品な美しさを持っています。ビルは10回建てで、地下室があります。地面から塔のてっぺんまでの高さは77m、当時の上海で一番高い建物でした。<br /><br />落成後、華懋地産股&#20221;有限公司が「華懋飯店」というホテルをオープンさせました。華懋は新沙遜洋行の傘下にあったため、ビルは「沙遜大厦」とも呼ばれていました。Sassoon一家は上海きっての外国人企業家で、アヘン売買、武器弾薬売買、そして不動産業で富を蓄えました。<br /><br />Sassoon一族の3代目Ellice Victor Sassonは1926年、南京東路の北面と外灘の交わるところにあった沙遜洋行の建物を取り壊し、豪華ホテルを建設しました。1926年4月、もともとあったホテルは取り壊され、英国商公和洋行が設計、華人商新仁記営造廠が建設を担当し、建築費248万両銀、内装費312万両銀を費やし、1928年9月に新しいホテルが落成しました。<br /><br />戦後は、上海市財政経済委員会の事務所として使われ、1952年からはビルが上海市人民政府に移管されました。1956年3月になりホテル業務が再開され、和平飯店としてうまれかわりました。<br />

    ○ 外灘20号
    沙遜大厦
    現:和平飯店北楼)

    「極東ナンバーワンビル」とも称される外灘20号は米国シカゴ学派の建築様式。外観はシンプルで、縦の線を強調し、花崗岩の壁、純度の高い銅で表面を覆い墨緑色に塗られた四角錐の塔など、上品な美しさを持っています。ビルは10回建てで、地下室があります。地面から塔のてっぺんまでの高さは77m、当時の上海で一番高い建物でした。

    落成後、華懋地産股份有限公司が「華懋飯店」というホテルをオープンさせました。華懋は新沙遜洋行の傘下にあったため、ビルは「沙遜大厦」とも呼ばれていました。Sassoon一家は上海きっての外国人企業家で、アヘン売買、武器弾薬売買、そして不動産業で富を蓄えました。

    Sassoon一族の3代目Ellice Victor Sassonは1926年、南京東路の北面と外灘の交わるところにあった沙遜洋行の建物を取り壊し、豪華ホテルを建設しました。1926年4月、もともとあったホテルは取り壊され、英国商公和洋行が設計、華人商新仁記営造廠が建設を担当し、建築費248万両銀、内装費312万両銀を費やし、1928年9月に新しいホテルが落成しました。

    戦後は、上海市財政経済委員会の事務所として使われ、1952年からはビルが上海市人民政府に移管されました。1956年3月になりホテル業務が再開され、和平飯店としてうまれかわりました。

  • 外灘の治安維持に、こんなに沢山の人がかりだされていました。

    外灘の治安維持に、こんなに沢山の人がかりだされていました。

  • 左が和平飯店(外灘20号)、右が中国銀行大楼(外灘23号)です。

    左が和平飯店(外灘20号)、右が中国銀行大楼(外灘23号)です。

  • ○ 外灘23号<br />中国銀行大楼<br /><br />もともとこの場所には上海ドイツ総会がありましたが、1914年第一次世界大戦が勃発すると、建物は中国政府に移管されました。中国銀行は建物を63万両銀で購入、1922年に銀行業務を開始し、1934年には新館に建替え、新館は1937年に落成しました。このビルは外灘(中山東一路)の数ある建築の中で唯一中国人が設計、建築したビル。東西にビルがあり、西館は4階建ての鉄筋コンクリート建築、東館はメインビルで地上15階建て、地下2階建てのあわせて17階建ての建物です。建物のトップや窓枠など中国伝統の特色を持っています。近代西洋建築と中国伝統建築の特徴をうまくミックスさせた建物といえます。<br /><br />中国銀行はもともとは34階建てになる予定で、もし完成していれば上海一高いビルになるはずでした。中国銀行建築部の建築師陸謙が設計、英国商公和洋行の外国人建築師が顧問を担当、陶桂記営造厰が建設を請け負いました。ところが、隣の沙遜大厦のオーナー Victor Sassoonから、沙遜大厦の塔トップよりも高いビルを建てるなと干渉が入り、裁判沙汰になりました。その結果、中国銀行はもともとのプランを変更、新館は沙遜大厦の塔トップより60cm低い高さになりました。<br /><br />1937年、ビルが落成すると中国銀行総行と上海分行が新館に引越し、営業を開始しました。しかし、ほどなくして戦争が勃発、上海が陥落すると、中国銀行本部は中国内部に移転せざるを得なくなってしまいました。1941年、太平洋戦争が勃発すると、今度は銀行が中華民国臨時政府の中央儲備銀行に占領されましたが、戦後、中国銀行が日本横浜正金銀行、ドイツ徳華銀行、中華民国臨時政府に組織変更された中国銀行を接収、建物は国有となり、現在は中国銀行上海分行として使われています。 <br />

    ○ 外灘23号
    中国銀行大楼

    もともとこの場所には上海ドイツ総会がありましたが、1914年第一次世界大戦が勃発すると、建物は中国政府に移管されました。中国銀行は建物を63万両銀で購入、1922年に銀行業務を開始し、1934年には新館に建替え、新館は1937年に落成しました。このビルは外灘(中山東一路)の数ある建築の中で唯一中国人が設計、建築したビル。東西にビルがあり、西館は4階建ての鉄筋コンクリート建築、東館はメインビルで地上15階建て、地下2階建てのあわせて17階建ての建物です。建物のトップや窓枠など中国伝統の特色を持っています。近代西洋建築と中国伝統建築の特徴をうまくミックスさせた建物といえます。

    中国銀行はもともとは34階建てになる予定で、もし完成していれば上海一高いビルになるはずでした。中国銀行建築部の建築師陸謙が設計、英国商公和洋行の外国人建築師が顧問を担当、陶桂記営造厰が建設を請け負いました。ところが、隣の沙遜大厦のオーナー Victor Sassoonから、沙遜大厦の塔トップよりも高いビルを建てるなと干渉が入り、裁判沙汰になりました。その結果、中国銀行はもともとのプランを変更、新館は沙遜大厦の塔トップより60cm低い高さになりました。

    1937年、ビルが落成すると中国銀行総行と上海分行が新館に引越し、営業を開始しました。しかし、ほどなくして戦争が勃発、上海が陥落すると、中国銀行本部は中国内部に移転せざるを得なくなってしまいました。1941年、太平洋戦争が勃発すると、今度は銀行が中華民国臨時政府の中央儲備銀行に占領されましたが、戦後、中国銀行が日本横浜正金銀行、ドイツ徳華銀行、中華民国臨時政府に組織変更された中国銀行を接収、建物は国有となり、現在は中国銀行上海分行として使われています。

  • ○ 外灘24号<br />横浜正金銀行大楼<br />現:中国工商銀行上海分行<br /><br />20世紀初頭、影響力を弱めた旧沙遜洋行は所有していた産業を売却し始めました。1923年、横浜正金銀行は沙遜洋行の所有していた外灘24号を購入、翌年の春この地に新しくビルを建てました。建築立面は新古典主義洋式。ビルの正門を縦の軸線として、左右対称となっています。<br /><br />戦後、横浜正金銀行は国民党政府に没収され、中央銀行に組み込まれ、ビルは「中央大楼」と名前を変えました。上海解放後は、人民政府が国民党中央銀行を引継ぎ、外灘24号は中国人民銀行華東地区の事務所となりました。1956年、上海市紡績工業局がビルに引越し業務を開始しましたが、1990年代初頭建設銀行の手に渡りました。現在は中国工商銀行上海分行がこの建物で業務を行っています。<br />

    ○ 外灘24号
    横浜正金銀行大楼
    現:中国工商銀行上海分行

    20世紀初頭、影響力を弱めた旧沙遜洋行は所有していた産業を売却し始めました。1923年、横浜正金銀行は沙遜洋行の所有していた外灘24号を購入、翌年の春この地に新しくビルを建てました。建築立面は新古典主義洋式。ビルの正門を縦の軸線として、左右対称となっています。

    戦後、横浜正金銀行は国民党政府に没収され、中央銀行に組み込まれ、ビルは「中央大楼」と名前を変えました。上海解放後は、人民政府が国民党中央銀行を引継ぎ、外灘24号は中国人民銀行華東地区の事務所となりました。1956年、上海市紡績工業局がビルに引越し業務を開始しましたが、1990年代初頭建設銀行の手に渡りました。現在は中国工商銀行上海分行がこの建物で業務を行っています。

  • 建物紹介のプレートに、菩薩彫刻と武士彫刻があると書いてあったので、上を見上げてみると…

    建物紹介のプレートに、菩薩彫刻と武士彫刻があると書いてあったので、上を見上げてみると…

  • 菩薩彫刻発見!しかし武士彫刻は見つけられませんでした。一体どこに???

    菩薩彫刻発見!しかし武士彫刻は見つけられませんでした。一体どこに???

  • でも、ランプにむきむきマンを発見。

    でも、ランプにむきむきマンを発見。

  • ウエディング写真を撮っていた新婚さん。

    ウエディング写真を撮っていた新婚さん。

  • ○ 外灘26号<br />揚子保険大厦<br />現:中国農業銀行上海分行事務所<br /><br />もともとは旧沙遜洋行の所有でしたが、揚子保険公司が買収しました。揚子大楼は1918年から1920年に、公和洋行の設計で建てられた折衷主義の建築です。ビルの敷地面積は639?、建築面積は4374?、7階建ての鉄筋コンクリート建築です。<br /><br />揚子保険大楼が落成すると、揚子保険公司が使用したほか、その他多くの保険会社がが賃借し、名実ともに保険ビルとなりました。1967年、ビルは房管部門に移管され、「揚子大楼」と名前を変え、食用油輸出会社に貸し出されました。現在は中国農業銀行上海分行事務所となっています。<br />

    ○ 外灘26号
    揚子保険大厦
    現:中国農業銀行上海分行事務所

    もともとは旧沙遜洋行の所有でしたが、揚子保険公司が買収しました。揚子大楼は1918年から1920年に、公和洋行の設計で建てられた折衷主義の建築です。ビルの敷地面積は639?、建築面積は4374?、7階建ての鉄筋コンクリート建築です。

    揚子保険大楼が落成すると、揚子保険公司が使用したほか、その他多くの保険会社がが賃借し、名実ともに保険ビルとなりました。1967年、ビルは房管部門に移管され、「揚子大楼」と名前を変え、食用油輸出会社に貸し出されました。現在は中国農業銀行上海分行事務所となっています。

  • ○ 外灘27号<br />怡和洋行大楼、現:上海市外貿局など<br /><br />もともと怡和洋行は北京東路に建てた2階建ての英国田舎風建築に事務所を構えていました。20世紀初頭までに、怡和洋行は上海最大の洋行になり、「洋行の王」と讃えられていました。怡和洋行は外灘北京東路の南面角に土地を購入し、「東インド風」建築を建設しました。その後、1920年に、馬海洋行の設計、華人商裕昌泰営造厰の建設で、改築を開始し、1922年11月敷地面積2100?のビルが落成しました。<br /><br />ビルは英国復古主義派の建築スタイルで、鉄筋コンクリート構造、地上5階建て(1983年に増築され7階建てに)。太平洋戦争勃発から1946年まで、怡和洋行大楼は日本の三井洋行に移管されました。1955年になると、ビルは上海房管機関に移管され、それからは上海外貿管理局とその傘下会社が使用しており、「外貿大楼」とも呼ばれています。<br />

    ○ 外灘27号
    怡和洋行大楼、現:上海市外貿局など

    もともと怡和洋行は北京東路に建てた2階建ての英国田舎風建築に事務所を構えていました。20世紀初頭までに、怡和洋行は上海最大の洋行になり、「洋行の王」と讃えられていました。怡和洋行は外灘北京東路の南面角に土地を購入し、「東インド風」建築を建設しました。その後、1920年に、馬海洋行の設計、華人商裕昌泰営造厰の建設で、改築を開始し、1922年11月敷地面積2100?のビルが落成しました。

    ビルは英国復古主義派の建築スタイルで、鉄筋コンクリート構造、地上5階建て(1983年に増築され7階建てに)。太平洋戦争勃発から1946年まで、怡和洋行大楼は日本の三井洋行に移管されました。1955年になると、ビルは上海房管機関に移管され、それからは上海外貿管理局とその傘下会社が使用しており、「外貿大楼」とも呼ばれています。

  • 外灘28号<br />○ 格林郵船大楼、広播大楼<br />現:上海広電集団<br /><br />1868年、ドイツ商禅臣洋行が外灘28号を買収、2階建ての「東インド風」ビルを建てました。第一次世界大戦後は、中国政府がドイツの在中産業を移管し、28号は英国商怡泰公司に買収されました。怡泰公司は1920年に新館の建設を開始し、1922年現在のビルが完成しました。ビルは7階建て、地上27.5m、敷地面積は1951?、建築面積は12825?。ビルの正門は北京東路2号側にあるアーチ型の門です。<br /><br />太平洋戦争が勃発すると、ビルは日本横浜正金銀行に使用されました。戦後は、米国軍に使用されましたが、上海解放後は、中ソ友好閲覧室として使われていました。1951年3月上海広播電台が入居、現在は上海文化広播影視管理局、上海文化広播文化影視集団事務所として使われています。

    外灘28号
    ○ 格林郵船大楼、広播大楼
    現:上海広電集団

    1868年、ドイツ商禅臣洋行が外灘28号を買収、2階建ての「東インド風」ビルを建てました。第一次世界大戦後は、中国政府がドイツの在中産業を移管し、28号は英国商怡泰公司に買収されました。怡泰公司は1920年に新館の建設を開始し、1922年現在のビルが完成しました。ビルは7階建て、地上27.5m、敷地面積は1951?、建築面積は12825?。ビルの正門は北京東路2号側にあるアーチ型の門です。

    太平洋戦争が勃発すると、ビルは日本横浜正金銀行に使用されました。戦後は、米国軍に使用されましたが、上海解放後は、中ソ友好閲覧室として使われていました。1951年3月上海広播電台が入居、現在は上海文化広播影視管理局、上海文化広播文化影視集団事務所として使われています。

  • ○ 外灘29号<br />東方匯理大楼、東方大楼<br />現:中国光大銀行上海分行<br /><br />フランス商東方匯理大楼東方大楼上海分行は1891年開設されました。外灘29号はもともとは華俄道勝銀行の建物でしたが、華俄道勝銀行が外灘15号の不動産を購入したため、外灘29号は東方匯理銀行に明け渡されました。1911年、東方匯理銀行は、英国商通和洋行が設計、華人商協盛営造厰が建設を請け負い、新館の建設を開始しました。建物は1914年に竣工しました。<br />    <br />ビルは、敷地面積1226平方メートル、建物面積2772平方メートル、地上3階建て、鉄筋コンクリート構造です。1956年、東方匯理銀行が休業を申請し、し、建物は上海市房管局に移管されました。その後は、上海市公安局交通処が借用していましたが、1996年からは中国光大銀行が使用権を取得し現在に至っています。

    ○ 外灘29号
    東方匯理大楼、東方大楼
    現:中国光大銀行上海分行

    フランス商東方匯理大楼東方大楼上海分行は1891年開設されました。外灘29号はもともとは華俄道勝銀行の建物でしたが、華俄道勝銀行が外灘15号の不動産を購入したため、外灘29号は東方匯理銀行に明け渡されました。1911年、東方匯理銀行は、英国商通和洋行が設計、華人商協盛営造厰が建設を請け負い、新館の建設を開始しました。建物は1914年に竣工しました。

    ビルは、敷地面積1226平方メートル、建物面積2772平方メートル、地上3階建て、鉄筋コンクリート構造です。1956年、東方匯理銀行が休業を申請し、し、建物は上海市房管局に移管されました。その後は、上海市公安局交通処が借用していましたが、1996年からは中国光大銀行が使用権を取得し現在に至っています。

  • ○ 外灘33号<br />英国領事館<br /><br />1842年11月、英国商George Balfourと上海道台宮慕久が上海開港について協議し、1845年11月23条地皮章程が取り決められ、李家荘から呉淞江(蘇州河)間での土地(126ムール)を領事館建設用に当てることが決定されました。英国領事館の敷地面積は38559平方メートル、平面はH型。英国人設計士によって設計されました。建物は全体的にビクトリア女王時代の建築スタイルでありながら、上海の気候の特徴も考慮し、「東インド式」建築に近いスタイルになっています。<br /><br />解放後の1961年頃、英国政府は在上海総領事館の閉館を決定、領事館は中国政府の手に戻りました。その後、英国政府は在上海総領事館の再度設立を決定、1989年英国在上海総領事館は永福路244号に設立され、その後南京西路1376号に移動しました。

    ○ 外灘33号
    英国領事館

    1842年11月、英国商George Balfourと上海道台宮慕久が上海開港について協議し、1845年11月23条地皮章程が取り決められ、李家荘から呉淞江(蘇州河)間での土地(126ムール)を領事館建設用に当てることが決定されました。英国領事館の敷地面積は38559平方メートル、平面はH型。英国人設計士によって設計されました。建物は全体的にビクトリア女王時代の建築スタイルでありながら、上海の気候の特徴も考慮し、「東インド式」建築に近いスタイルになっています。

    解放後の1961年頃、英国政府は在上海総領事館の閉館を決定、領事館は中国政府の手に戻りました。その後、英国政府は在上海総領事館の再度設立を決定、1989年英国在上海総領事館は永福路244号に設立され、その後南京西路1376号に移動しました。

  • 外灘側から撮影。

    外灘側から撮影。

  • 圓明園路側から撮影。<br /><br />柵があって中が良く見えないのが残念…<br /><br />散歩はまだまだ続きます〜

    圓明園路側から撮影。

    柵があって中が良く見えないのが残念…

    散歩はまだまだ続きます〜

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