戸塚・いずみ野・港南台旅行記(ブログ) 一覧に戻る
 JR横須賀線東戸塚駅から上って環状2号線を越えたところにあるこんもりとした森が旧東海道の一里塚である品濃一里塚である。このあたりは尾根道に旧東海道があったようで、麓は開発されてマンション群が建ち並ぶ東戸塚の街並になっている。旧東海道の狭いままの道とこれに続く江戸方側の焼餅坂と権太坂、上方側の品濃坂があり、この尾根あたりの開発が進まなかったから品濃一里塚が残ったのであろう。特に、幕末から明治の初めの遺跡しか残さなかった横浜の地に、こうした旧東海道の一里塚があること自体が奇跡とも言えようか。<br /> 実家から1kmも行かないところに米沢街道の最初の一里塚があった。村上城大手門から1里のところだ。1本の松の大木が立っており、お祖母さんの押す乳母車に付いていくと、必ずこの下で休んだものだ。田圃の中にあったこの一里塚でさえ、県道が国道290号線になって拡張されたときに無くなってしまった。<br /> 地方においてもそうだったのだから、この横浜の地に品濃一里塚が残ったのは本当に幸運なことだ。それもJR東戸塚駅から1kmもないところだ。近年はこうした旧街道を歩く人が増えたようだ。しかし、品濃一里塚には何度か行ったが、人に出会ったことがない。一里塚の横の江戸方側は掘削され平地にはベンチがあり、品濃一里塚公園の標識がある。一方、旧東海道を越えた側の山の上にも一里塚公園があり、見えるのだが登り口が分からなかった。<br />(表紙写真は品濃一里塚)

品濃一里塚(横浜市戸塚区)

2いいね!

2011/01/04 - 2011/01/04

1126位(同エリア1797件中)

0

17

ドクターキムル

ドクターキムルさん

 JR横須賀線東戸塚駅から上って環状2号線を越えたところにあるこんもりとした森が旧東海道の一里塚である品濃一里塚である。このあたりは尾根道に旧東海道があったようで、麓は開発されてマンション群が建ち並ぶ東戸塚の街並になっている。旧東海道の狭いままの道とこれに続く江戸方側の焼餅坂と権太坂、上方側の品濃坂があり、この尾根あたりの開発が進まなかったから品濃一里塚が残ったのであろう。特に、幕末から明治の初めの遺跡しか残さなかった横浜の地に、こうした旧東海道の一里塚があること自体が奇跡とも言えようか。
 実家から1kmも行かないところに米沢街道の最初の一里塚があった。村上城大手門から1里のところだ。1本の松の大木が立っており、お祖母さんの押す乳母車に付いていくと、必ずこの下で休んだものだ。田圃の中にあったこの一里塚でさえ、県道が国道290号線になって拡張されたときに無くなってしまった。
 地方においてもそうだったのだから、この横浜の地に品濃一里塚が残ったのは本当に幸運なことだ。それもJR東戸塚駅から1kmもないところだ。近年はこうした旧街道を歩く人が増えたようだ。しかし、品濃一里塚には何度か行ったが、人に出会ったことがない。一里塚の横の江戸方側は掘削され平地にはベンチがあり、品濃一里塚公園の標識がある。一方、旧東海道を越えた側の山の上にも一里塚公園があり、見えるのだが登り口が分からなかった。
(表紙写真は品濃一里塚)

  • 「品濃一里塚」看板。相当古くなっている。

    「品濃一里塚」看板。相当古くなっている。

  • 「品濃一里塚」説明看板。<br /><br />「品濃一里塚<br /> 慶長九年(一六○四)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。<br /> それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植られました。これが一里塚です。<br /> 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。<br />そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。<br /> ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。<br /> このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。<br />                        横浜市教育委員会<br />                          平成七年六月」

    「品濃一里塚」説明看板。

    「品濃一里塚
     慶長九年(一六○四)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
     それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植られました。これが一里塚です。
     一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩場所にもなりました。
    そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
     ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。
     このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。
                            横浜市教育委員会
                              平成七年六月」

  • 「品濃一里塚」標柱。

    「品濃一里塚」標柱。

  • 道標。古くはなさそうだ。

    道標。古くはなさそうだ。

  • 「品濃一里塚公園入口」看板。

    「品濃一里塚公園入口」看板。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 「品濃一里塚公園」標識。

    「品濃一里塚公園」標識。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

  • 品濃一里塚公園。

    品濃一里塚公園。

  • 品濃一里塚公園。

    品濃一里塚公園。

  • 品濃一里塚公園。

    品濃一里塚公園。

  • 品濃一里塚公園の梅の花。

    品濃一里塚公園の梅の花。

  • 品濃一里塚。

    品濃一里塚。

この旅行記のタグ

関連タグ

2いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP