2010/12/02 - 2010/12/02
4454位(同エリア6668件中)
ムッシュさん
ついにフィナーレ!中山道69次の終着、京都三条大橋にたどりつきました。東京日本橋より540?の旅程でした。
街道各地に日本の歴史と文化が残されており、大切に保存しなければならないと感じた次第。海外遺産に負けずに日本の歴史を誇りたいものです。
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今回はゴール目前の山科駅から三条大橋へ。
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ここは、大石内蔵助が隠居して、討ち入りをカムフラージュしていた処。いまでは、義士祭りが有るようです。
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五条わかれ道標:五条/三条の分かれ。
三条通りと五条大橋の追分で、
道標の北面には「右ハ三条通」 、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐ満きよみず道」
南面には「宝永四丁亥年十一月」と刻まれていると。
ここ五条別れ道道標から京都三条大橋までは約6㎞程の距離。 -
天智天皇御陵地の入口。紅葉がきれいです。
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天智天皇山科陵。
ここ以外に、他にもあるかしら。 -
御陵の森
『天智天皇』は第38代天皇で、在位期間は668年2月20日 - 672年1月7日。
陵所としては京都市山科区にあるこの山科陵に治定されている。
一般には中大兄皇子として知られいる。中大兄皇子と言う名前で知られ、645年7月10日に中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こした(乙巳の変)。日本と関係が深かった百済が唐・新羅に滅ぼされたため、援軍を送り戦ったが敗北(白村江の戦い)。その後に都を大津京に遷都しているのだ。 -
車石
『車石広場』
すぐ先左手の道端に小ひろばが設けられ、4個の車石の実物や、俵を7俵乗せた台車と解説板があった。実際に使われたと思われる車輪も。
「平成9年10月の京都市営地下鉄東西線開業に伴い廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用し三条通の四車線化及び歩道整備の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し往年の牛馬道を模した広場を設置する」と解説している。石には車輪の通る箇所が線路上に凹面に刻まれていた。 -
「粟田口刑場跡
この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。
ここは、東海道の最後の難所日岡峠に続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間(1804-17)には、車道に車石舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶應3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。
江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、
短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。
しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8年~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6年~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。」 -
はい、京都市内ももうすぐ。三条大橋への標識も。
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ここは蹴上の琵琶湖疎水インクラインの軌道の下をくぐるトンネル。
さくらの名所。
京都と琵琶湖を結ぶ水路「琵琶湖疎水」は、明治23年4月竣工。九条山より蹴上のこの辺りは急勾配のため水を台船に乗せ堤上を傾斜鉄道(インクライン)にて運んだ。水道用水の確保と、船での交通の充実を図るために建設された。インクラインは、船が上がれない急な坂を貨車を使って引っ張り上げるための線路の跡である。
【蹴上】
蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過方式の浄水場として、明治45年(1912)、京都で初めて給水を開始した施設である。
「蹴上」の地名の由来は
「源義経が牛若丸と呼ばれていた頃、鞍馬寺で金売吉次(伝説上の人物の可能性あり)という商人に出会います。1174年。義経が彼の案内で奥州平泉へと向かう途中、一行は、山科の日ノ岡峠の日向(ひむかい)大神宮へ道中の安全祈願をするため立ち寄りました。
その後、日ノ岡峠の清水(現在の蹴上)で義経が供の者との別れを惜しんでいた時、平家の武者・関原輿市重治(せきはらよいちしげはる)と9人の従者が馬に乗って通りかかり、彼らの馬が、水溜りの水を義経に蹴りかけ、義経の衣服を汚してしまいます。晴れの門出を台無しにされた義経は、無礼を詫びるように迫りますが、武者たちは平家の威光を笠に着て、かえって居丈高な態度に出ます。
そこから両者の争いとなり、ついには義経が興市の家来たち9人を斬り捨て、與市の耳と鼻を削いで追い払ったのです。この、馬が水を蹴り上げたエピソードが【蹴上】の由来となりました。」 -
インクラインのレール(軌道)姿。(フォトは借用)
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インクラインに舟を乗せた姿。
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これがインクラインの入口。
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中央に見える二本のレールが、インクラインです。水面の舟を、このレールに乗せます。
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もうすぐ!!三条大橋は近い。
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三条大橋目前に、こんな史跡碑も。
坂本龍馬がおりょうさんとここで結婚。
新婚旅行は鹿児島県霧島へ。薩摩藩へも寄っている。
「坂本龍馬お龍「結婚式場」跡
当地は青蓮院の旧境内でその塔頭金蔵寺跡です。 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。 お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。 が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。この地が選ばれたのはお龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。
しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟としてここに建碑します。」 -
三条白川橋道標。琵琶湖疎水からの流れは、白川。
白川沿いは、祇園とならび、京都らしい風情のあるところ。
正面に「是よりひだり ちおんいん ぎおん きよ水みち」
この道標は、延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものであると。 -
もうすぐ。
右に見える建物の手前が大橋です。 -
橋の袂には、高山彦九郎の碑
「男は高山彦九郎」と歌にも歌われた、勤皇の志士・彦九郎が京都御所に向かって遥排する銅像。
高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、京都御所に向かって拝礼したと。 -
「高山彦九朗皇居望拝之像
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(一七四七~一七九三)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。 十八歳の時以来、前後五回、上洛したが、
京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向って拝礼した。
その姿は 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと橘曙覧 と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤王の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、人は武士 気概は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居をネ伏し拝み 落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれた。」 -
さて、今から三条大橋を渡ります。
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これが三条大橋。
渡り切ればゴーール!東京の日本橋から540km。
「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、
蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」
洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。
(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ひろ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)の意であると。 -
浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」から借用した画像
歌川広重の名所絵。東海道53次の「京都」
『広重作・東海道五拾三次大尾 京師 三条大橋』、
「江戸より124里半(約492km)、この加茂川に架かる三条大橋を渡れば京都である。
三条大橋は長さ57間2寸、巾4尺1寸で、一部は石製の基礎杭を初めて使った橋であるという。
橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。
遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。当時、江戸・京都間を普通に歩けば
十数日の行程であったという。」
しかし、遠景の山の位置がおかしい。広重はここ『三条大橋』は訪ねていないので
想像で描いた絵であるとの説が有力であるようだ。
「大尾」とは「最後、終局、終わり」の意。 -
鴨川
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渡れば、やじさん、きたさんがお出迎え。
「弥次喜多像
この像は。江戸時代後期に十返舎一九が書いた滑稽本「東海道中膝栗毛」の主人公である。弥次郎兵衛と喜多八をモデルにしたものです。「東海適中膝栗毛」とは二人が伊勢詣でを思い立ら、数々の失敗や滑稽を繰り返しながら、東海道を江戸から京、大阪に旅する様子を描いた滑稽紀行文です。物語では、大阪に行く前に三条大橋に近い宿屋に泊まって、ハシゴを買わされる話になっています。
このブロンズ像は、三条小橋商商店街が、二科会の会員で彫刻家の小山由寿氏に制作を依頼し平成六年に建立し、西院春日神社内にある旅行安全・還来成就の神である還来(もどろき)神社に御祈祷をして頂きました。 -
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