2010/09/10 - 2010/09/20
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funasanさん
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人はミステリーに弱い。世界遺産の中でも日本人No1の人気を誇る「マチュピチュ」は、日本から遥かかなたの秘境にある「謎の空中都市」だからであろう。我々も、ペルー旅行の第1の目的は「マチュピチュ」である。よって、天気が悪化してもいいように、基本プランに1泊延泊して「マチュピチュ村2泊3日」の余裕の計画をした。おかげで、「マチュピチュ遺跡」を何度も見学し、「インカの橋」、「インティプンク遺跡」ハイキングもした。最終日の午前中は遺跡に行かず、マチュピチュ村をぶらぶらし温泉にも入ってマチュピチュを十分満喫してきた。
写真:夕暮れのマチュピチュ
私のホームページ『第二の人生を豊かに―ライター舟橋栄二のホームページ―』に旅行記多数あり。
http://www.e-funahashi.jp/
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ウルバンバの夜明け(写真)。目覚めの気分は良好で、高山病にならずに一夜を過ごせた。また、天気も良く今日のマチュピチュ観光が期待できそうである。
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早朝5時からオープンの朝食レストランに行くと、既に全品準備完了のビュッフェであった。シェフにオムレツを作ってもらい私の朝食メニュー(写真)をセットする。食欲もあり実にうまい!
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5時40分、スペイン語ドライバーによる専用車でホテルを出発し、オリャンタイタンボ駅に向かう。その後、6時30分発のインカレイル41号(写真)に乗る。
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インカレイル41号の車内(写真)は結構豪華そうであるが、座席はテーブルを挟んで4人がけであり、足元に荷物が置けないくらい狭い。
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オリャンタイタンボ駅を出発した列車はウルバンバ川(写真)沿いにマチュピチュ目指して下って行く。標高が下がっていくのがいい。マチュピチュ村は標高2000m程度なので高山病の心配はない。
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周囲の山々は高く、時々雪をかぶった高峰が見える。途中、ソフトドリンクとお菓子(クッキー、チョコレート等)のサービスがある。
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朝の光がウルバンバ川や周囲の山々を照らし美しい山岳風景が展開する。この風景を堪能するには列車進行方向に向かって左側の席に座る必要がある。
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山の斜面にインカの遺跡(写真)やインカ道が見える。インカ道は、スペイン人征服者が「わが国のどこを探してもこんな美しい道はない」と言ったほど、広く美しいものだったらしい。しかし、インカには車輪がなく馬車が発達しなかった。古代ローマ帝国との大きな違いである。
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インカ道は北はエクアドルのキトから南はチリのサンティアゴまでインカ帝国の端から端までつながっていた。インカ帝国がスペインの侵略で滅亡するとともにインカ道は滅びてしまった。写真:マチュピチュ駅に到着
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巧妙に隠されたマチュピチュ遺跡がスペイン人の侵略から免れたように、西洋人の目にふれない謎の道があった。クスコとインカの秘密基地をつないだビルカバンバの山道だ。現在、その一部が「インカ道トレッキング・コース」になっている。写真:マチュピチュ駅
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午前9時、英語ガイドによるマチュピチュ遺跡ツアーに参加する。ツアー参加者はアメリカ人老夫婦と我々の合計4名のみだった。マチュピチュ村から約30分間、混載バスに乗って山の急斜面を上る。遺跡入り口には超高級ホテル「サンクチュアリー・ロッジ」がある。1泊3食付ツインルームで76000円〜112000円(2010年11月宿泊、2名分の代金、エクスペディア調べ)
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マチュピチュ遺跡入り口付近にあるカフェ(写真)。サンドイッチ等軽食があるのでランチにいい。正面の山は「ワイナピチュ」
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遺跡に入るとすぐに「農地管理人住居跡」(写真)が見える。山の急斜面に幾つもの小屋が建っている。
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小屋の中に入ると室内は意外に大きく、穀物の貯蔵庫としても十分機能したと思われる。
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ルート表示に従って左手の森の中に入っていく。しばらく急な登山道を登っていくと突然視界が開け、謎の空中都市「マチュピチュ遺跡」(写真)とご対面する。感動の一瞬!
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ここで英語ガイドは一通りマチュピチュ遺跡の説明をする。アメリカ人老夫婦は歴史に興味があるらしく盛んに質問している。我々は蚊帳の外?写真:段々畑と市街地との間にある壁。
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インティプンクからのインカ道はここでマチュピチュ市街への門(写真)に突き当たる。高貴な人、エリートしかこの中に入れなかったという。
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マチュピチュ市街への門(写真)をくぐって中に入る。ここでインカ帝国の歴史を勉強してみよう。第9代皇帝パチャクティが即位する以前、インカ族は、クスコ盆地に生活する小さな国家に過ぎず、周辺の民族との勢力均衡につねに気をつかっていた。
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しかし、1438年ごろ、クスコに侵攻してきたチャンカ族を破ったパチャクティは、余勢を駆って積極的に征服に乗り出した。写真:太陽の神殿。ここの石だけが(観光用に?)磨かれて白く光っている。
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パチャクティと後継の王たちは、アンデス特有の標高差を利用した伝統的な農業を国家規模で統合し、生産性の高い熱帯森林帯の開拓も行った。敵対していた周辺民族も豊かな実りを求め、インカの統治を受け入れた。写真:太陽の神殿(左)と王女の宮殿(右)
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こうしてパチャクティは、王子トパ・インカとともに、戦って領土を奪うよりも、むしろ飢えのない豊かな暮らしを人々に与えることを基本として、言葉の違う80の民族を50年で統一したと言われる。写真:王女の宮殿を囲む石積みが見事である。1つ1つの石が正確な直方体で積み上げられ、石の間には全く隙間がない。
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絶壁の尾根の上に造られた空中都市で最も大切なものが「水」である。水は遠くの山から石の溝を伝わって流れてきているという。写真:太陽の神殿脇にある水汲み場
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インカ帝国は「ミイラと生けにえを利用した戦略」を採用した。皇帝は死後ミイラとなって権力を永遠のものとし、貴族や使用人たちはその権威にあやかり、皇帝の死後もそのミイラに仕え続けることで領地や地位を守った。写真:「陵墓」と呼ばれ、ミイラの安置所だったとされる。
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一方で、領地を相続できない次の皇帝は新たな土地に進出しなければならず、これが帝国の拡大を促す一因となった。
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インカは、また生けにえを国家的儀式とすることでも支配を強化した。地方の聖地にも敬意を払って貴族の子供達を生けにえとして捧げ、同時にその子供をワカ(神、聖なる存在)とする新たな聖地をも作り上げた。人々はその見返りしとしてインカへの忠誠を誓った。写真:皇帝のバスルーム
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太陽が沈む西側の段々畑(写真)。急峻な斜面に造られ、穀物生産のためではなく神への感謝の捧げ物を置いたといわれる。写真下が「神聖な広場」その上が「インティワタナ(日時計)」
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近年、アンデスの雪山から少年少女のミイラが発見された。写真:神聖な広場の前の「主神殿」
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解剖の結果、食べ物をたくさん食べ、お酒を飲まされて眠ったところを置き去りにされたとのこと。写真:神聖な広場の前の「新官の館」
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日本人にとっては恐怖の「子供の生けにえ」と「ミイラ信仰」はインカ帝国を理解するキーワードである。写真:神聖な広場の前の「3つの窓の神殿」
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マチュピチュ遺跡の最高地点に「インティワタナ(日時計)」(写真)がある。高さ1.8m、突き出た角柱は高さ36cmで、角柱の各角は東西南北を示している。手をかざすと石からパワーがもらえるというので、何度もトライしてみる。
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インティワタナから絶壁側の狭い道を少し下る。それにしてもすごい所にすごい段々畑を作ったものだ。マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムは、1911年、この急斜面(写真)を登って来たという。
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インカの暦は太陽暦で5月に収穫、6月が太陽の祭り、8月が種まきということであった。
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インティワタナからの狭い道を下ると「大広間」(写真)に来る。緑の芝生が美しい。正面の城壁内に階級別の居住区がある。
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太陽の下での遺跡観光は暑い。ワイナピチュ(写真)が見える木陰でしばらく休む。ワイナピチュ登山は少々危険であり、入山制限のため早朝からバス停に並ぶ必要がある。若くもない我々はそこまでする気力がないのでパス。
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居住区の中にある「石臼」(写真)。ビンガムを先導したガイドの少年がこれを石臼として利用したことから、今でも石臼と呼ばれる。
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英語ガイドによる午前中の遺跡見学最後が「コンドルの神殿」(写真)である。地面の石は本当にコンドルに似ている。
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本日のランチは「サンクチュアリー・ロッジ」のレストラン(写真)にて豪華なビュッフェである。午後1時過ぎに入店したが非常に込んでいる。
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ビュッフェの種類は多く、前菜、サラダ、メインと、少量ずつ取り分けて自分のランチメニュー(写真)にする。どれもうまい!
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お次は、スープ、パン、パスタ、チャーハン‥‥。これもGood.
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最後に、フルーツ、デザート、そしてコーヒー(写真)。完璧なランチビュッフェに満足する。
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ランチの後、再び遺跡観光(ガイドなしの自由観光)に出かける。16世紀半ば、インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを捨て、更に奥地へと移動してしまった。その理由は分からない。
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その後400年にわたって人目に触れることはなく、1911年にビンガムによって発見されたときには、草に覆われた廃虚となっていたのである。マチュピチュにまつわる多くの謎は、未だに解明されていない。写真:マチュピチュの謎にとりつかれた若き女性
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マチュピチュ遺跡の東側の段々畑(写真)は壮大なスケールを持っており、見る者を圧倒する。写真背後の山は標高2940mの「マチュピチュ山」。
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段々畑は急な斜面を下方まで続いている。太陽がよく当たる東側(写真)では作物の生産が行われた。
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段々畑にはリャマ(写真)が放牧され、のんびり草を食む。しかし、断崖絶壁の場所である。
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天気がいいので見張り小屋(写真)付近に沢山の観光客が集まっている。
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多くの人が見張り小屋(写真)付近の段々畑に腰掛け、マチュピチュ遺跡の絶景を飽きることなく見ている。
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我々も芝生の上に寝転がって仮眠したり、マチュピチュ遺跡の絶景をぼんやり眺めたりして午後のひと時を過ごす。この心と時間の余裕は貴重だ。
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マチュピチュ遺跡の閉門は午後5時、バスの最終は5時半。我々は閉門近くまで山に残り、夕暮れのマチュピチュ遺跡(写真)とその周りの山々の移り変わる風景を味わった。
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