2006/10/08 - 2006/10/08
3381位(同エリア3721件中)
だんぞうさん
長崎シリーズ第五弾。
今回は、大浦天主堂。
入場料は、大人300円、中高生250円、小学生200円。30名以上の団体だと、さらに50円引き。
拝観は、朝8時〜夕方18時(拝観受付は閉館15分前終了)まで。
天主堂内の撮影は禁止だが、ステンドグラスや、装飾の数々が素敵でした。
本当は、孔子廟も天主堂も、そんなに枚数ないのですが、長崎旅行まとめ本体の枚数がかさんでしまったため、それぞれ小分けに外だしした、ということです。
PR
-
天主堂と空。
江戸末期の1854年(嘉永7年)、日米和親条約締結により鎖国が解かれ、その3年後の1857年(安政4年)には、長崎での踏み絵が廃止、さらに翌年の通商条約により、外国人のための聖堂建立が許された。
そして、欧米人の居住区ができた東山手・南山手の一角に、1864年、大浦天主堂が作られた。
この天主堂に赴任したプティジャン神父に対し、浦上に細々と命をつないできた隠れキリシタンたちが密会して信仰を伝え、キリスト教界では「信徒発見」と世界規模の感動を与えた大事件となった。
ただ、明治政府も、当初は江戸幕府同様にキリスト教のご禁制を提唱していたため、このことから「浦上四番崩れ」という、最後の弾圧事件が起きた。
浦上の地では何度か大きな弾圧が行われてきた歴史があり、その四回目が、1867年(慶応3年)のこの事件であった。 -
正式名称は「日本26聖殉教者天主堂」。
別名、フランス寺。
豊臣秀吉がキリスト教排斥を決定した後、1597年(慶長元年)、最初に起こされた弾圧により、長崎に居た26人※のカトリック信徒が処刑された。日本初の殉教者と言われる。
(※日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人1名、ポルトガル人1名)
この中には、12歳の少年ルドビコ茨木も居て、長崎の責任者寺沢半三郎は、信仰を棄てることを条件に彼を助けようとしたが、ルドビコはこれを断った。
もともとは秀吉も、1587年にバテレン追放令を出しはしていた。その理由は、キリシタンやキリシタン大名によって寺社が焼かれたり僧侶が迫害されていたこと(もちろんその逆もあった)、宣教師や商人によって日本人が奴隷として海外に売られる事件があったこと、などである。
だが、南蛮貿易を大切にせんがため、日本における宣教師の活動を、ある程度は黙認していた。禁止は布教のみであり、信仰までは禁じていなかったのだ。
しかし、1596年にスペイン船サン=フェリペ号が土佐に漂着した際、積み荷を没収されるという事件が起き、この時のやり取りから、秀吉は更に禁教令を出すに至るとされているが、明確な証拠は残っていないそうで、当時、都周辺では活動を自粛していたイエズス会に比べ、当時新進の(スペイン系)フランシスコ会が活発に活動していたことも深く関わっているようで、秀吉が、京都に住むフランシスコ会とキリスト教徒とを捕縛・処刑するよう光成に命じたのが、発端だった。
大阪・京都で捉えられた24名(フランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名)が、京都市中引き回しの上、長崎へと運ばれる。光成は、イエズス会の3人を助けようとしたが、叶わず、また、道中イエズス会の世話係であった2名も、殉教することを受け入れ、合計26名となる。
彼らは、西坂の丘にて処刑され、この天主堂は、その丘の方角を向いているという。 -
日本之聖母像。
「信徒発見」という世界のキリスト教徒を感動の渦に巻き込んだ歴史的奇跡を記念してフランスから贈られたマリア像。 -
この位置から煽る。
-
可愛いデザインだなぁ。
-
こんなところにも隠れマリア様。
-
マリア様の横顔。
フランス生まれ。 -
天主堂の奥にも見学できるエリアがある。
-
ちょっとした博物館のような場所。
-
博物館っぽい展示。
これを見ると、ベルセルクのファルネーゼを思い出す。 -
博物館っぽく使用されている建物の階段。
ここには、他にもいくつか展示物があった。 -
大浦天主堂、外側。
-
大浦天主堂、外側。
-
この建物がなんであるかは失念してしまったが、窓が綺麗だったので、撮った。
-
これも、失念。
多分、天主堂付近の建物のはず。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
だんぞうさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
15