2009/09/21 - 2009/09/21
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ナオさん
会津若松に行ってきました。白虎隊であまりにも有名な会津若松ですが、今は「天地人」で盛り上がっていました。
私達は「会津まつり」で賑わう町を散策、めっぱ飯(わっぱ飯)で有名な「田事」で食事、その後は会津若松城跡(鶴ヶ城)と飯盛山に行きました。
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
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会津若松にやって来ました。見えているのはまちなか周遊バス「ハイカラさん」です。ハイカラさんはレトロ調ボンネットバスです。
この他にも、会津若松ではまちなか周遊バス「あかべえ」、まちなか循環バス「エコろん号」、北会津地域巡回バス「ピカリン号」、河東地域コミュニティバス「みなづる号」が走っています。
「ハイカラさん」、「あかべえ」への1回乗車は大人200円子供100円です。『専用1日フリー券』というのもあり、これは大人500円、子供250円です。
『1dayパス』というのもあり、こちらはエリア内なら路線バスも乗り降り自由というもので、大人700円、子供350円です。
『まちなか周遊物語り』というのは、あいづ1dayパスと鶴ヶ城、鱗閣、御薬縁の入場券がセットになったもので、大人1360円、中学生920円、小学生570円です。 -
会津若松では、私達が訪れた日、「会津まつり」、「会津 新撰組まつり」が行われていました。
ここは阿弥陀寺です。ここには御三階・東軍墓地・新撰組三番隊長斎藤一の墓があります。 -
この日は会津若松では「会津まつり」、「会津新撰組まつり」が行われていました。新撰組三番隊長斎藤一の墓のある阿弥陀寺の所から出てきた山車です。
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七日町通りにある「会津若松の物流基地渋川問屋」です。
越後街道、米沢街道が通っていた七日町は、かつて町の玄関である木戸が設けられていました。会津に入る海産物は越後街道を通って渋川問屋に集められたのだそうです。 -
「わっぱ飯」を食べさせてくれる店を七日町で尋ねたら、「料理旅館 田事」を紹介してくれました。
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「料理旅館 田事」の玄関の所です。「藤室街道 休み石」と記され、「せいろ めっぱ飯」の提灯が下げられています。「めっぱ飯??」でも、すぐにわっぱ飯と同じものだとわかりました。
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「料理旅館 田事」の中に入って来ました。
昼時とあって、店の中はお客で一杯でした。それも、若い人が多く、みんな「旅の雑誌」のようなものを持っています。 -
囲炉裏が添えつけられた部屋です。蓑笠が掛かり、会津の郷土料理を食べるにふさわしい雰囲気が作られています。
最近ではこの部屋に岡田茉莉子がこられたそうです。もちろんめっぱ飯を食べにね!
ここのめっぱ飯は雅子様も召し上がられたのだそうです。
私達「せいろめっぱ飯」のセットを注文しました。 -
これはトウモロコシで作られたモロコシ豆腐です。香ばしい味がして、とっても美味しいです!
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料理旅館「田事」の昼の「せいろめっぱ飯」定食セット1680円です。
私達が食べたのはしらすわっぱ飯ですが、山菜、しらす、?もう一つ何だったっけ?、とにかく三種類のせいろわっぱ飯の中から選ぶことが出来ます。 -
腹ごしらえが出来たので、鶴ヶ城にやって来ました。
見えているのは鶴ヶ城のお堀です。 -
鶴ヶ城とも呼ばれる会津若松城は、今NHKの大河ドラマ「天地人」の舞台として、大いに賑わっています。
豊臣秀吉の命により、上杉景勝が会津120万石の城主として会津入りしたのは、1598年(慶長3年)のこと。
秀吉の死後、1601年には上杉景勝は徳川家康によって米沢に移封されているので、会津にいたのはわずか3年ほどですが、会津には確かに上杉景勝と直江兼続の足跡が残されています。 -
1384年、葦名直盛が会津を治め、東黒川館を作って以来、黒川城と呼ばれていた会津若松の城を、鶴ヶ城と命名し、1593年(文禄2年)七層の天守閣を築いたのは、蒲生氏郷です。
戌辰戦争で荒れ果てた鶴ヶ城は、1874年取り壊されましたが、1965年、市民の願いが叶い、天守閣が復元されています。 -
鶴ヶ城は築城より600年以上を経ており、かつては「荒城の月」のモデルになった城だそうです。
NHKの「天地人」で沸く今の鶴ヶ城では、静かにかつての歴史の舞台をたどる雰囲気にはなれませんが、復元された城とはいえ、ここから見る鶴ヶ城は実に堂々としており、美しいです。 -
葦名、伊達、蒲生、上杉、蒲生、加藤、保品、松平と藩主の変わった鶴ヶ城。会津の歴史にふれたければ、まずは若松城跡をめぐることですね。
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鉄門です。
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会津といえば「白虎隊」を語らずには、先に進めませんね。と、いうわけで、私達も鶴ヶ城の次には、飯盛山にやって来ました。
何と!飯盛山には「動く歩道」が付いているのです! -
もちろん飯盛山へは歩いて登れます。この石段を歩けばね。
石段に沿って見えるのが、動く歩道です。 -
これは昭和3年にローマ市から寄贈された碑で、円柱の部分はベスビアス火山の噴火で埋没したボンペイの廃墟から発掘した古代溶岩で作られているのだそうです。
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これは「白虎隊殉難士各霊塔」です。
1868年、威辰戦争のおり、幕府軍側の会津藩は、新政府軍に攻めこまれました。
この時、会津藩が14歳から17歳の武家の男子で組織した少年隊が「白虎隊」です。
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飯盛山に建つ「白虎隊士自刃の地」の碑と、飯盛山から鶴ヶ城を望む白虎隊士の石像です。
白虎隊士は340名ほどいたそうですが、各所に配置され、苦戦を強いられ、戦死者も出る中、負傷者を抱えて飯盛山まで落ち延びた20名が、鶴ヶ城を仰ぎ見て、市中の火災を城が落城したと見誤って、ここで自害したのだそうです。
もっとも実際に死んだのは19人で、蘇生してしまったたった一人の歴史の証人、飯沼貞吉氏によって、白虎隊の最期の様子を知ることができたのだそうです。今は、その飯沼氏の墓碑と顕彰碑も飯盛山に建てられています。 -
飯盛山の「白虎隊士自刃の地」から若松城(鶴ヶ城)を望んだものです。小さく鶴ヶ城が見えると思います。白虎隊の少年たちの目にも、お城さえ見えていたら、ここで死ぬことはなかったでしょうに・・・
会津の国のため、人のため、家族のために戦い、破れ、死んでいった白虎隊の少年たちのことを思うと、時代と言う大きな波に翻弄された彼らが哀れでなりません。 -
これは「少年武士慰霊碑」です。
裏には白虎隊の仲間たちとして、威辰戦争で死んだ少年たちの名前がずらりと62名並んでいます。 -
これが白虎隊の少年たちのお墓です。
飯盛山には「会津藩殉難烈婦の碑」や松平容保公弔歌の碑などもあります。 -
宇賀神社です。ここには飯盛山で自決した白虎隊士19人の霊像が祭られています。
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これは飯盛山に立つさざえ堂です。江戸時代後期の六角三層の仏堂で、国の重要文化財に指定されています。
白虎隊の墓があることで知られる飯盛山ですが、飯盛山は、昔からさざえ堂、宇賀神社、正栄寺のある景勝地として知られていたのです。 -
飯盛山に建つ国の重要文化財のさざえ堂です。上り下りの階段がらせん状になっていて、同じところを通らずに、巡ることができます。世界的にも大変珍しい建物です。
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これは戸の口堰です。天保年間に灌漑用水として掘られたもので、長さ約150m、直径2mの洞窟で、私達が見たときは、水がゴウゴウと音をたてて流れていました。
威辰戦争の時、戸の口原合戦で負傷した白虎隊がこの洞窟を通り、飯盛山にたどり着いたのだそうです。 -
飯盛山にある厳島神社と子育地蔵尊です。
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ここは飯盛山の山麓に建つ「白虎隊記念館」です。
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白虎隊記念館前に建つ白虎隊士酒井峰治と愛犬クマの銅像です。
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飯盛山の動く歩道の前で、会津柳津名物あわまんじゅうを売る小池菓子舗です。行列の出来るお店です。
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私達も買いました。あわまんじゅう。
あわまんじゅうは、柳津の地で大きな災害が起こった時、もう災害にあわないようにとの願いをこめて、虚空蔵尊にお供えされたのが始まりで、180年後の現在も受け繋がれているのだそうです。
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