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風の旅 白川郷編 女工たちの冬 6<br /><br />明治8年(1868)下白川郷の生活は、社会制度と経済の変革によって、大きく揺らぎます。<br />煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。<br />野麦峠の物語は ここから始まります。<br />明治の初めから大正時代にかけて、諏訪地方へ飛弾の多くの10代の女性がこの峠を越えて女工として出稼ぎに行った。<br />小説「ああー野麦峠」は女工哀史として一躍全国的に有名になった。<br /><br /> だが いま 時代は変わり 雪深いこの渓谷白河郷にも海外からの観光客が増え、写真のとおり 中国人モデルさえ<br />その美しい景観美を求めて 撮影に訪れる。<br />名実ともに 世界の白川郷として脚光をあびる事実、<br /><br />まさに自然の臥薪嘗胆のそのものであります。<br /><br />やがて戦争が終わり、養蚕はすたれ大家族主義は崩壊し、若者たちは仕事を求めて都会へと出ていくようになり、 さらに戦後経済のためにダムが建設され 多くの<br />合掌造りは湖底の彼方に沈んでゆき過疎化が進んでいく。ダムの建設のために<br />無人なっていく村々に危機感を抱いた一部の人たちはその保存に立ち上がり<br />高山の飛騨民族村、下呂合掌村、白川郷にも合掌造りの集落が誕生した。<br /><br />合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかり そのため合掌造りを維持できず次々と売却されていった。<br />トヨタは集落ごと買い取った。<br />白川郷の危機に、多くの合掌造りが残っていた荻町集落では昭和46年(1971)<br />「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を定め、<br />茅葺屋根の葺き替えに補助金を出し、民家の外観を壊す改装は行わないようにしました。やがて、白川郷は国道156号線の建設により道路事情か改善され<br />観光村として世界遺産への道が開けたのであります。<br />平成7年(1995)白川郷荻町合掌集落が世界文化遺産へ登録されると、<br />人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるよ<br />うになり、さらに平成20年(2008)東海北陸自動車道が全線開通した。<br />観光のための合掌造りではなく、そこに生きぬかなければならない人の魂が<br />この雪深い寒村に存在し合掌造りはその必然性のために生まれた。<br />観光客は短い滞在時間であたふたと駆け回り、合掌造り民家の敷地に入り込んで写真を撮り、手軽なお土産を買って白川郷を後にします。<br />そこに束の間の安らぎ、癒しを求めるのかも知れない。<br />けれど その寒村に生き抜いてきた人の魂、哀しい辛い歴史に触れることが<br />私にとっての旅であり、新しい魂の発見であるかも知れない。<br />激しく静かに淡々と流れる庄川の渓谷にひっそりたたずむ<br />合掌造りと山々の美しさ、その静寂な村の歴史の中に <br />新しい日の出と夕陽が交錯して 過去の原風景がまぶたに浮かんでくる。<br />その光景はなぜか 私の生まれた寒村と交錯して脳裏を走り抜けるのです。<br />翌日はバスで高岡 直江津そして 長野へとローカル線の旅は続く。<br /><br />せつない世相 広がる生活格差の中で 今日も<br />白川郷の住民はたくましくいきるだろう。<br /><br />http://panoramahida.iza-yoi.net/sirakawagorekisi.html  <br />http://panoramahida.iza-yoi.net/index.html<br />参考資料一部抜粋<br />Copyright(c)2007,パノラマ飛騨 管理人・桃花流水<br />流水さんありがとうございます。<br /><br /><br />

風の旅 白川郷編 女工たちの冬 6

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2009/04/05 - 2009/04/11

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浅山 (あさやん)

浅山 (あさやん)さん

風の旅 白川郷編 女工たちの冬 6

明治8年(1868)下白川郷の生活は、社会制度と経済の変革によって、大きく揺らぎます。
煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。
野麦峠の物語は ここから始まります。
明治の初めから大正時代にかけて、諏訪地方へ飛弾の多くの10代の女性がこの峠を越えて女工として出稼ぎに行った。
小説「ああー野麦峠」は女工哀史として一躍全国的に有名になった。

だが いま 時代は変わり 雪深いこの渓谷白河郷にも海外からの観光客が増え、写真のとおり 中国人モデルさえ
その美しい景観美を求めて 撮影に訪れる。
名実ともに 世界の白川郷として脚光をあびる事実、

まさに自然の臥薪嘗胆のそのものであります。

やがて戦争が終わり、養蚕はすたれ大家族主義は崩壊し、若者たちは仕事を求めて都会へと出ていくようになり、 さらに戦後経済のためにダムが建設され 多くの
合掌造りは湖底の彼方に沈んでゆき過疎化が進んでいく。ダムの建設のために
無人なっていく村々に危機感を抱いた一部の人たちはその保存に立ち上がり
高山の飛騨民族村、下呂合掌村、白川郷にも合掌造りの集落が誕生した。

合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかり そのため合掌造りを維持できず次々と売却されていった。
トヨタは集落ごと買い取った。
白川郷の危機に、多くの合掌造りが残っていた荻町集落では昭和46年(1971)
「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を定め、
茅葺屋根の葺き替えに補助金を出し、民家の外観を壊す改装は行わないようにしました。やがて、白川郷は国道156号線の建設により道路事情か改善され
観光村として世界遺産への道が開けたのであります。
平成7年(1995)白川郷荻町合掌集落が世界文化遺産へ登録されると、
人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるよ
うになり、さらに平成20年(2008)東海北陸自動車道が全線開通した。
観光のための合掌造りではなく、そこに生きぬかなければならない人の魂が
この雪深い寒村に存在し合掌造りはその必然性のために生まれた。
観光客は短い滞在時間であたふたと駆け回り、合掌造り民家の敷地に入り込んで写真を撮り、手軽なお土産を買って白川郷を後にします。
そこに束の間の安らぎ、癒しを求めるのかも知れない。
けれど その寒村に生き抜いてきた人の魂、哀しい辛い歴史に触れることが
私にとっての旅であり、新しい魂の発見であるかも知れない。
激しく静かに淡々と流れる庄川の渓谷にひっそりたたずむ
合掌造りと山々の美しさ、その静寂な村の歴史の中に 
新しい日の出と夕陽が交錯して 過去の原風景がまぶたに浮かんでくる。
その光景はなぜか 私の生まれた寒村と交錯して脳裏を走り抜けるのです。
翌日はバスで高岡 直江津そして 長野へとローカル線の旅は続く。

せつない世相 広がる生活格差の中で 今日も
白川郷の住民はたくましくいきるだろう。

http://panoramahida.iza-yoi.net/sirakawagorekisi.html  
http://panoramahida.iza-yoi.net/index.html
参考資料一部抜粋
Copyright(c)2007,パノラマ飛騨 管理人・桃花流水
流水さんありがとうございます。


同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス

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