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大垣城紹介の続きです。巨鹿城等の別名を持ちます。現在の建物は、戦災で焼失した後、天守は昭和34年(1959年)に、乾櫓は昭和42年(1967年)に、鉄筋コンクリート造りで外観復元されました。

2009春、桜の季節の大垣城(3/5):天守閣、染井吉野、八重紅枝垂れ桜、鉄門跡、金森氏像

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2009/04/07 - 2009/04/07

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旅行記グループ 2009春、桜の名城巡り

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旅人のくまさん

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大垣城紹介の続きです。巨鹿城等の別名を持ちます。現在の建物は、戦災で焼失した後、天守は昭和34年(1959年)に、乾櫓は昭和42年(1967年)に、鉄筋コンクリート造りで外観復元されました。

交通手段
JRローカル
  • 石垣の下から見上げた、『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の光景です。昭和11年(1936年)、天守とともに国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、昭和34年(1959年)に再建された建物です。

    石垣の下から見上げた、『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の光景です。昭和11年(1936年)、天守とともに国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、昭和34年(1959年)に再建された建物です。

  • 同じく、『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の側面光景です。丑寅は北東の方角で、鬼門とされます。本丸の隅櫓も正確なことは分かりませんが、三つはあったようです。北東の丑寅隅櫓、北西の戌亥隅櫓と南東の辰巳隅櫓です。

    同じく、『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の側面光景です。丑寅は北東の方角で、鬼門とされます。本丸の隅櫓も正確なことは分かりませんが、三つはあったようです。北東の丑寅隅櫓、北西の戌亥隅櫓と南東の辰巳隅櫓です。

  • 『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の下部と石垣のズームアップ光景です。石垣に段差がありました。

    『艮(丑寅:うしとら)隅櫓』の下部と石垣のズームアップ光景です。石垣に段差がありました。

  • 大垣城址の石垣のズームアップ光景です。苔生した部分もありますが、白っぽい石です。全国の城郭でも珍しい石灰岩が使われた石垣とされます。

    大垣城址の石垣のズームアップ光景です。苔生した部分もありますが、白っぽい石です。全国の城郭でも珍しい石灰岩が使われた石垣とされます。

  • 更にズームアップした、全国の城郭でも珍しい石灰岩が使われた石垣の光景です。使われているのは、大垣市内の金生山の石灰岩です。その中には2億5千万年以上前の生物の化石が豊富に含まれ、長年の雨に洗われた表面には沢山の化石が浮き出しているようです。これはネット情報の写真で確認できます。

    更にズームアップした、全国の城郭でも珍しい石灰岩が使われた石垣の光景です。使われているのは、大垣市内の金生山の石灰岩です。その中には2億5千万年以上前の生物の化石が豊富に含まれ、長年の雨に洗われた表面には沢山の化石が浮き出しているようです。これはネット情報の写真で確認できます。

  • 現在は『東門』と呼ばれている城門の周りの光景です。野面積らしい、積み直された石垣と、用水のような小川に架かる小橋の光景です。小橋の距離は短いですが、幅は広い橋です。

    現在は『東門』と呼ばれている城門の周りの光景です。野面積らしい、積み直された石垣と、用水のような小川に架かる小橋の光景です。小橋の距離は短いですが、幅は広い橋です。

  • 用水のような小川に架かる小橋の上からの光景です。大垣城のかつての縄張りでは、石垣の外は、一面が内堀になっていました。

    用水のような小川に架かる小橋の上からの光景です。大垣城のかつての縄張りでは、石垣の外は、一面が内堀になっていました。

  • 『史跡・大垣城跡』の石碑があった、現在は『東門』と呼ばれている城門の光景です。『史跡』は大垣市が指定したものです。因みに、廣嶺神社にある『大手門跡』も大垣市指定の史跡です。

    『史跡・大垣城跡』の石碑があった、現在は『東門』と呼ばれている城門の光景です。『史跡』は大垣市が指定したものです。因みに、廣嶺神社にある『大手門跡』も大垣市指定の史跡です。

  • 同じく、現在は『東門』と呼ばれている城門の左側方面の光景です。『七口之門』の一つ、『柳口門』を移築しただけに、歴史と風格を感じさせる門です。

    同じく、現在は『東門』と呼ばれている城門の左側方面の光景です。『七口之門』の一つ、『柳口門』を移築しただけに、歴史と風格を感じさせる門です。

  • 東門の下から眺めた城内の光景です。右手に見える看板には、『大垣市指定史跡・大垣城址』のタイトルがありました。『大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定(みやがわやすさだ)によって創建された』ことなどが紹介されていました。

    イチオシ

    東門の下から眺めた城内の光景です。右手に見える看板には、『大垣市指定史跡・大垣城址』のタイトルがありました。『大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定(みやがわやすさだ)によって創建された』ことなどが紹介されていました。

  • 内側から眺めた、現在の表門になっている、『東門』の光景です。この櫓門は、天守が復興された際に、『七口之門』の一つ、『柳口門』を移築したものです。かつての本丸へは、二の丸からの鉄門だけでしたから、この場所に門はありませんでした。

    内側から眺めた、現在の表門になっている、『東門』の光景です。この櫓門は、天守が復興された際に、『七口之門』の一つ、『柳口門』を移築したものです。かつての本丸へは、二の丸からの鉄門だけでしたから、この場所に門はありませんでした。

  • 本丸に入城して眺めた城郭の光景です。『艮(うしとら)隅櫓』とその周りの建物だったようです。『艮(丑寅:うしとら)』は北東の方角で、鬼門とされます。

    本丸に入城して眺めた城郭の光景です。『艮(うしとら)隅櫓』とその周りの建物だったようです。『艮(丑寅:うしとら)』は北東の方角で、鬼門とされます。

  • 半ば日陰になってしましましたが、見頃を迎えていた『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花です。右手に見える城郭は、『艮(うしとら)隅櫓』のようです。

    半ば日陰になってしましましたが、見頃を迎えていた『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花です。右手に見える城郭は、『艮(うしとら)隅櫓』のようです。

  • 黄色の苔が生し、風化も進んでいた石碑の光景です。ん文字を読み取ることが出来ませんでした。ネット情報でも、この石碑に関する情報は見つかっていません。

    黄色の苔が生し、風化も進んでいた石碑の光景です。ん文字を読み取ることが出来ませんでした。ネット情報でも、この石碑に関する情報は見つかっていません。

  • 垂れ下がって咲いていた、白い花の桜の光景です。緑の葉も一緒に出た、『オオシマザクラ(大島桜)』によく似た花です。『ヨシノシダレサクラ(吉野枝垂れ桜)』の名札がありました。『ソメイヨシノ染井吉野)』の枝垂れ品種のようです。

    垂れ下がって咲いていた、白い花の桜の光景です。緑の葉も一緒に出た、『オオシマザクラ(大島桜)』によく似た花です。『ヨシノシダレサクラ(吉野枝垂れ桜)』の名札がありました。『ソメイヨシノ染井吉野)』の枝垂れ品種のようです。

  • 『ヨシノシダレサクラ(吉野枝垂れ桜)』の名札があった花のズームアップ光景です。緑の葉も一緒に出ていましたが、花は満開でした。

    『ヨシノシダレサクラ(吉野枝垂れ桜)』の名札があった花のズームアップ光景です。緑の葉も一緒に出ていましたが、花は満開でした。

  • 先に紹介した、武道場の『武徳殿』の玄関屋根と破風の光景です。破風には、木製の『懸魚(けぎょ)』がありました。

    先に紹介した、武道場の『武徳殿』の玄関屋根と破風の光景です。破風には、木製の『懸魚(けぎょ)』がありました。

  • 同じく、斜め前から眺めた、武道場の『武徳殿』の玄関屋根と大屋根の光景です。

    イチオシ

    同じく、斜め前から眺めた、武道場の『武徳殿』の玄関屋根と大屋根の光景です。

  • 本丸跡の庭園光景です。右手に見える立札には、右方向が『郷土館』、左手方向の矢印が『守屋多々志美術館』の表示がありました。『守屋多々志(1912〜2003年)』は、大垣生まれの日本画家で、文化勲章受章者です。歴史画を専門とした人です。

    本丸跡の庭園光景です。右手に見える立札には、右方向が『郷土館』、左手方向の矢印が『守屋多々志美術館』の表示がありました。『守屋多々志(1912〜2003年)』は、大垣生まれの日本画家で、文化勲章受章者です。歴史画を専門とした人です。

  • かなり起伏があった本丸跡の庭園でした。樹木もあまり刈り込まれずに育っていました。

    かなり起伏があった本丸跡の庭園でした。樹木もあまり刈り込まれずに育っていました。

  • 染井吉野の花の下から見上げた天守の光景です。満開を過ぎた染井吉野ですが、落花の光景が楽しめる見頃でした。

    染井吉野の花の下から見上げた天守の光景です。満開を過ぎた染井吉野ですが、落花の光景が楽しめる見頃でした。

  • 緑の葉がかなり大きくなっていた白い花の桜の光景です。『オオシマザクラ(大島桜)』のようです。桜餅は、このサクラの若葉を塩漬けにした物を使用するようです。

    緑の葉がかなり大きくなっていた白い花の桜の光景です。『オオシマザクラ(大島桜)』のようです。桜餅は、このサクラの若葉を塩漬けにした物を使用するようです。

  • 五基並んだ照明器具の光景です。夜間は天守閣がライトアップされるようでした。『大垣城のライトアップ』でネット検索すれば、その光景を見ることができます。

    五基並んだ照明器具の光景です。夜間は天守閣がライトアップされるようでした。『大垣城のライトアップ』でネット検索すれば、その光景を見ることができます。

  • 新しい木の柵で囲われていた天守近くの光景です。安全対策のため、立入りが宣言されていたようです。

    新しい木の柵で囲われていた天守近くの光景です。安全対策のため、立入りが宣言されていたようです。

  • 横書きの題字は、『贈正五位小原是水府碑』らしい文字がありました。『小原鉄心(おはら・てっしん:1817〜1872年)は、江戸時代の幕末の美濃大垣藩の城代です。明治2年(1869年)には藩籍奉還により大垣藩大参事に任じられました。鉄心の功績により、明治33年(1900年)5月、子の小原忠迪(適)に男爵が授けられました。

    横書きの題字は、『贈正五位小原是水府碑』らしい文字がありました。『小原鉄心(おはら・てっしん:1817〜1872年)は、江戸時代の幕末の美濃大垣藩の城代です。明治2年(1869年)には藩籍奉還により大垣藩大参事に任じられました。鉄心の功績により、明治33年(1900年)5月、子の小原忠迪(適)に男爵が授けられました。

  • 台座に、『金森吉次郎翁像』の文字がありました。金森吉次郎氏(1864〜1930年)は、大垣輪中に生まれました。父の金四郎は、外国貿易や製糸業を手がけた大垣屈指の資産家で篤志家だった人です。吉次郎氏は、明治21年、25歳の時、大垣輪中が揖斐川の洪水で一面湖となった時に人々の推挙により救済委員となったことが、治水事業に関わる始まりでした。その後、県会議員、衆議院議員などを歴任し、『治水のもとは治山である』が持論だったとされます。

    台座に、『金森吉次郎翁像』の文字がありました。金森吉次郎氏(1864〜1930年)は、大垣輪中に生まれました。父の金四郎は、外国貿易や製糸業を手がけた大垣屈指の資産家で篤志家だった人です。吉次郎氏は、明治21年、25歳の時、大垣輪中が揖斐川の洪水で一面湖となった時に人々の推挙により救済委員となったことが、治水事業に関わる始まりでした。その後、県会議員、衆議院議員などを歴任し、『治水のもとは治山である』が持論だったとされます。

  • 『金森吉次郎翁像』のズームアップ光景です。吉次郎氏は、水害の根本解消のため、木曽三川改修の実現を生涯の目標として、父から譲り受けた全財産と一生を治水と山林事業に使い尽したとされます。大正12年(1923年)6月に、大垣輪中水害豫防組合が建立した像です。

    『金森吉次郎翁像』のズームアップ光景です。吉次郎氏は、水害の根本解消のため、木曽三川改修の実現を生涯の目標として、父から譲り受けた全財産と一生を治水と山林事業に使い尽したとされます。大正12年(1923年)6月に、大垣輪中水害豫防組合が建立した像です。

  • 左下に見える立札には、『七間多門跡』の文字がありました。慶長5年(1600年)の『関が原の戦い』の時、7人の地侍が七間多門で防戦して功をたてたとされます。このことから、『七間多門』は『七騎(しちき)多門』と称されるようになったようです。

    左下に見える立札には、『七間多門跡』の文字がありました。慶長5年(1600年)の『関が原の戦い』の時、7人の地侍が七間多門で防戦して功をたてたとされます。このことから、『七間多門』は『七騎(しちき)多門』と称されるようになったようです。

  • 『鉄門(くろがねもん)跡』の文字が記された立札の光景です。大垣城では、二の丸と本丸を繋ぐ『廊下橋』の先、本丸の入口に設置されていました。<br />(追記)大垣城本丸の『鉄門』に関してホットニュースがありました。平成21年(2009年)6月、岐阜県各務原市から『大垣城鉄門』と推察される門を中山道鵜沼宿再生のため『景観重要建造物』として移築したと大垣市へ報告があったというものです。移築前は各務原市蘇原の安積家にあり『安積門』と呼ばれていました。安積氏が明治13年(1880年)に城門の払い下げにより購入されたものです。解体修理したところ、土台に差し込まれた材木に『大垣藩大工奉行』、『破損方奉行』、『場所奉行』の名前の墨書が判明しました。瓦には、大垣藩戸田家の家紋『九曜紋』が刻まれていました。<br />

    『鉄門(くろがねもん)跡』の文字が記された立札の光景です。大垣城では、二の丸と本丸を繋ぐ『廊下橋』の先、本丸の入口に設置されていました。
    (追記)大垣城本丸の『鉄門』に関してホットニュースがありました。平成21年(2009年)6月、岐阜県各務原市から『大垣城鉄門』と推察される門を中山道鵜沼宿再生のため『景観重要建造物』として移築したと大垣市へ報告があったというものです。移築前は各務原市蘇原の安積家にあり『安積門』と呼ばれていました。安積氏が明治13年(1880年)に城門の払い下げにより購入されたものです。解体修理したところ、土台に差し込まれた材木に『大垣藩大工奉行』、『破損方奉行』、『場所奉行』の名前の墨書が判明しました。瓦には、大垣藩戸田家の家紋『九曜紋』が刻まれていました。

  • 『鉄門(くろがねもん)跡』の立札があった周りの光景です。『鉄門』は、正面の木の部分(柱、門扉等)をすべて鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗り固めるなど、火矢による攻撃にも耐えられるよう作られた門です。

    イチオシ

    『鉄門(くろがねもん)跡』の立札があった周りの光景です。『鉄門』は、正面の木の部分(柱、門扉等)をすべて鉄板で覆い、軒下を白漆喰で塗り固めるなど、火矢による攻撃にも耐えられるよう作られた門です。

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2009春、桜の名城巡り

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