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大垣城紹介の続きです。江戸時代に入ってからは、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となりました。公園には、戸田氏鉄公の騎馬像もあります。<br /><br /><br />

2009春、桜の季節の大垣城(2/5):天守閣、九曜紋、染井吉野、八重紅枝垂れ桜、丑寅櫓

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2009/04/07 - 2009/04/07

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旅行記グループ 2009春、桜の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

大垣城紹介の続きです。江戸時代に入ってからは、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となりました。公園には、戸田氏鉄公の騎馬像もあります。


交通手段
JRローカル
  • 右手に見えるのが、現在の本丸への出入口ですが、残念ながら今日は休館日でした。

    右手に見えるのが、現在の本丸への出入口ですが、残念ながら今日は休館日でした。

  • 『天守』の文字が記された立看板です。左側に見えている建物が天守か、あるいはその付櫓のようでした。立看板の傍には、小振りの桜の木が寄り添っていました。

    『天守』の文字が記された立看板です。左側に見えている建物が天守か、あるいはその付櫓のようでした。立看板の傍には、小振りの桜の木が寄り添っていました。

  • 大垣城の城内で咲く桜の光景です。背後の高い気が、満開の染井吉野、その手前の少し低い木が山桜です。『ヤマザクラ(山桜)』は、赤い葉と一緒に満開、満開の白い花が咲いていました。

    大垣城の城内で咲く桜の光景です。背後の高い気が、満開の染井吉野、その手前の少し低い木が山桜です。『ヤマザクラ(山桜)』は、赤い葉と一緒に満開、満開の白い花が咲いていました。

  • 大垣城の再建天守の破風のズームアップ光景です。銅製の破風の飾りの頂点には、戸田家の家紋の『九曜紋』、その下に白色の『懸魚(げぎょ)』の飾りがありました。

    大垣城の再建天守の破風のズームアップ光景です。銅製の破風の飾りの頂点には、戸田家の家紋の『九曜紋』、その下に白色の『懸魚(げぎょ)』の飾りがありました。

  • 大垣城の再建天守の側面光景です。

    大垣城の再建天守の側面光景です。

  • 『ご利用案内』の立札風の看板です。火曜日と祝日の翌日が休館日でした。入場料は百円です。2007年4月7日の今日は、残念ながら休館日の火曜日でした。

    『ご利用案内』の立札風の看板です。火曜日と祝日の翌日が休館日でした。入場料は百円です。2007年4月7日の今日は、残念ながら休館日の火曜日でした。

  • 『江戸時代初期(寛永15年頃)・島原の乱当時の大垣城絵図(写し)』のタイトルがあった縄張り図です。幾重にもお堀を巡らした堅城ですが、皮肉なことに『水攻め』の心配はあったようです。『水攻め』では、信長の命で羽柴秀吉が行った、『備中高松城の戦い』が有名です。周りに築いた堤防に水を湛え、城を孤立させる持久戦でした。

    イチオシ

    『江戸時代初期(寛永15年頃)・島原の乱当時の大垣城絵図(写し)』のタイトルがあった縄張り図です。幾重にもお堀を巡らした堅城ですが、皮肉なことに『水攻め』の心配はあったようです。『水攻め』では、信長の命で羽柴秀吉が行った、『備中高松城の戦い』が有名です。周りに築いた堤防に水を湛え、城を孤立させる持久戦でした。

  • 現在の大垣城の表門になる、内側から眺めた東門の光景です。ところで、大洪水は明治29年(1896年)にも起きていますが、その時は津の町の8割が、屋根まで浸水したようです。

    現在の大垣城の表門になる、内側から眺めた東門の光景です。ところで、大洪水は明治29年(1896年)にも起きていますが、その時は津の町の8割が、屋根まで浸水したようです。

  • 同じく、現在の大垣城の表門の東門の光景です。この櫓門は、天守が復興された際に、七口之門の一つ、柳口門が移築されたものです。かつての大垣城には、この辺りには本丸の鉄砲多門がありました。

    同じく、現在の大垣城の表門の東門の光景です。この櫓門は、天守が復興された際に、七口之門の一つ、柳口門が移築されたものです。かつての大垣城には、この辺りには本丸の鉄砲多門がありました。

  • 本丸跡で咲いていた桜の紹花の紹介です。ピンクの花を咲かせた、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』のようです。

    本丸跡で咲いていた桜の紹花の紹介です。ピンクの花を咲かせた、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』のようです。

  • 正面から眺めた土塀の光景です。左の鉄砲狭間、右の弓狭間に挟まれた場所に、小さな屋根を持った不思議な構造物がありました。推測ですが、時代考証がされた造りではないようでした。

    正面から眺めた土塀の光景です。左の鉄砲狭間、右の弓狭間に挟まれた場所に、小さな屋根を持った不思議な構造物がありました。推測ですが、時代考証がされた造りではないようでした。

  • 二つ重なって見えた鬼瓦の光景です。上と下では意匠が異なっていました。上はシンプルな屋根飾り、下は鬼面のレリーフがある、少し凝った造りの屋根飾りです。

    イチオシ

    二つ重なって見えた鬼瓦の光景です。上と下では意匠が異なっていました。上はシンプルな屋根飾り、下は鬼面のレリーフがある、少し凝った造りの屋根飾りです。

  • 下の方の鬼瓦と破風飾のズームアップ光景です。破風の飾りの要には、戸田家の家紋の『九曜紋』がありました。八つの丸に囲まれた、それより一回り大きな中心円がある紋です。花がデフォルメされたような形です。

    下の方の鬼瓦と破風飾のズームアップ光景です。破風の飾りの要には、戸田家の家紋の『九曜紋』がありました。八つの丸に囲まれた、それより一回り大きな中心円がある紋です。花がデフォルメされたような形です。

  • 通路に散り敷いた桜の花びらです。染井吉野よりも早さ機種の桜かもしれません。左に見えるのは、野面積の石垣です。

    通路に散り敷いた桜の花びらです。染井吉野よりも早さ機種の桜かもしれません。左に見えるのは、野面積の石垣です。

  • 下に向かってほぼ垂直に垂れ下がった桜の枝先光景です。一重の枝垂れ桜のようです。散り始めたのか、緑の葉も出始めていました。

    下に向かってほぼ垂直に垂れ下がった桜の枝先光景です。一重の枝垂れ桜のようです。散り始めたのか、緑の葉も出始めていました。

  • 大垣城跡の『武徳殿』の玄関付近の光景です。武道場ですが、今は使われていない雰囲気でした。

    イチオシ

    大垣城跡の『武徳殿』の玄関付近の光景です。武道場ですが、今は使われていない雰囲気でした。

  • 同じく、染井吉野の花に飾られた、大垣城跡の『武徳殿』の玄関付近の光景です。ネット情報で確認したことですが、中は武道場らしい、がらんとした部屋でした。

    同じく、染井吉野の花に飾られた、大垣城跡の『武徳殿』の玄関付近の光景です。ネット情報で確認したことですが、中は武道場らしい、がらんとした部屋でした。

  • 右側の『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花と、その背後に霞む天守のシビの光景です。

    右側の『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花と、その背後に霞む天守のシビの光景です。

  • 同じく、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花と、その背後のシビの屋根飾りを持つ天守の光景です。

    同じく、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花と、その背後のシビの屋根飾りを持つ天守の光景です。

  • 『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花のズームアップ光景です。蕾がいい区残っていましたが、満開前が綺麗な、梅の花に似たようなイメージです。

    『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花のズームアップ光景です。蕾がいい区残っていましたが、満開前が綺麗な、梅の花に似たようなイメージです。

  • 更にズームアップした、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花の光景です。濃い色の蕾と、花開くと赤味が薄れる彩が綺麗でした。

    更にズームアップした、『ヤエベニシダレ(八重紅枝垂れ)』の花の光景です。濃い色の蕾と、花開くと赤味が薄れる彩が綺麗でした。

  • 四枚の石碑に綴られた、『戸田公入城350年記念』の讃文です。戸田氏鉄公(1576〜1655年)が、美濃大垣藩戸田家初代藩主として入城したのが寛永12年(1635年)12月のことです。昭和60年(1985年)が、350年の節目の年となります。戸田氏の治世は江戸末期の第12代藩主の戸田氏共(うじたか)公まで続きました。明治時代に伯爵に叙され、オーストリア・ハンガリー全権公使、式部長官などを務めた人です。

    四枚の石碑に綴られた、『戸田公入城350年記念』の讃文です。戸田氏鉄公(1576〜1655年)が、美濃大垣藩戸田家初代藩主として入城したのが寛永12年(1635年)12月のことです。昭和60年(1985年)が、350年の節目の年となります。戸田氏の治世は江戸末期の第12代藩主の戸田氏共(うじたか)公まで続きました。明治時代に伯爵に叙され、オーストリア・ハンガリー全権公使、式部長官などを務めた人です。

  • 『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の立札です。丑寅は北東の方角を意味し、『艮(ごん)』の表記もされます。陰陽道(おんようどう)では鬼門とされる方角です。

    『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の立札です。丑寅は北東の方角を意味し、『艮(ごん)』の表記もされます。陰陽道(おんようどう)では鬼門とされる方角です。

  • 屋根飾りにシャチが乗った、『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の光景です。昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により、天守等とともに焼失した櫓です。

    屋根飾りにシャチが乗った、『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の光景です。昭和20年(1945年)7月29日の大垣空襲により、天守等とともに焼失した櫓です。

  • 同じく、『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の建物端の光景です。その横に松らしい常緑樹と八重紅枝垂れが見えていました。

    同じく、『丑寅櫓(うしとらやぐら)』の建物端の光景です。その横に松らしい常緑樹と八重紅枝垂れが見えていました。

  • 城内側から眺めた東門の光景です。そのすぐ近くに、艮隅櫓(丑寅隅櫓)がありました。門の上の渡り櫓は、門の防御施設を兼ねているようです。

    城内側から眺めた東門の光景です。そのすぐ近くに、艮隅櫓(丑寅隅櫓)がありました。門の上の渡り櫓は、門の防御施設を兼ねているようです。

  • 今一つ、施設目的がはっきりしなかった長塀の所々に設けられた瓦屋根付きの支柱のような施設です。呼び方も分かりません。この方角から見て、この下に身を置くことはないだろうことだけは確認できました。軒下の鋭角な造りが危険過ぎます。

    今一つ、施設目的がはっきりしなかった長塀の所々に設けられた瓦屋根付きの支柱のような施設です。呼び方も分かりません。この方角から見て、この下に身を置くことはないだろうことだけは確認できました。軒下の鋭角な造りが危険過ぎます。

  • 三角の鉄砲狭間のズームアップ光景です。火縄銃を手前の段に据えて狙いを定めたのでしょうか、随分と低い位置の狭間でした。

    三角の鉄砲狭間のズームアップ光景です。火縄銃を手前の段に据えて狙いを定めたのでしょうか、随分と低い位置の狭間でした。

  • こちらは丑寅櫓ではなく、染井吉野の花で彩を添えられた天守の光景です。四囲に向けて窓ガラスが設置されているようでした。

    こちらは丑寅櫓ではなく、染井吉野の花で彩を添えられた天守の光景です。四囲に向けて窓ガラスが設置されているようでした。

  • 同じ場所から撮影した、再建天守の光景です。現在は、本丸、二ノ丸址が大垣公園として整備されています。

    同じ場所から撮影した、再建天守の光景です。現在は、本丸、二ノ丸址が大垣公園として整備されています。

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2009春、桜の名城巡り

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