2008/12/08 - 2008/12/16
680位(同エリア6176件中)
wiz さん
ウィーンのお散歩1 の間に、
ハプスブルク家の歴代コレクション
ウィーン美術史美術館(博物館)を見学しました。
3度目のKHM (Kunsthistorische Museum Wien) です♪
美術史美術館は、木曜日は~21時まで開館しているので
(レオポルト美術館も木曜だけ21時まで開館)、
もし短いウィーン滞在で美術館巡りを充実させる場合、木曜滞在がおすすめ。
ウィーン美術史美術館(博物館)
Kunsthistorisches Museum, 1.Stock
Gemaeldegalerie(Picture Gallery)
http://www.khm.at/
http://www.khm.at/en/visit/besucherinformation/hours-admission/
火~日曜:10~18時(月曜休)
参考:
La Muse 世界の美術館(ウィーン美術史美術館)/ 講談社
西洋美術解読事典 / ジェイムズ・ホール,高階秀爾監修/ 河出書房新社
キリスト教絵画の見かた / 千足伸行監修 / 東京美術
ギリシア・ローマ神話の絵画 / 千足伸行監修 / 東京美術
バースデイ・セイント / 鹿島茂編 / 飛鳥新社 etc・・
- 旅行の満足度
- 5.0
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まずは、こちらは、上空から見た美術史美術館界隈。
ウィーンを美しく整備された都に、というフランツ・ヨーゼフ1世の都市改造計画の一環として、1871年、(中世以来の城壁を取り壊して建設されたリンク通り=環状道路沿いに、)双子の建物(美術史美術館・自然史博物館)の建設は開始された。
ルーヴルをはじめ、ヨーロッパの由緒ある美術館の多くが、かつての王宮や宮殿内に設けられているのに対し、この美術館はハプスブルク王家のコレクションを展示するために、純粋に美術館として建てられたもの。 -
美術史美術館から見た自然史博物館。
2つの博物館の間はマリア・テレジア広場で、
11月半ばからクリスマスまではクリスマスマーケットが開催されています。
広場に堂々とそびえるのはマリア・テレジア像。マリア テレジア広場 広場・公園
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美術史美術館(博物館)
この美術館が所蔵する「絵画」は7000点以上、古代エジプト、ギリシア、ローマから18世紀までの彫刻、工芸品、コインやメダルなど、総数40万点におよぶ。
絵画コレクションは、ルネサンス、バロックの傑作が目白押しだが、決して総花的ではなく、コレクションとしての 個性 が目立っている。 理由は、このコレクションをつくりあげたハプスブルク家の歴代の王たちが、美術史をたどるような優等生的な集め方をしなかったため。 彼らは支配下の国々から、自分の好みにあった完成度の高い、芸術の成熟期に生み出される絵画を集めた。 16〜17世紀のフランドル、ヴェネツィア絵画が多いのもこのような理由によるものでコレクションの質は高い。
なかでもルドルフ2世(1552〜1612)は、ヨーロッパ最大の収集家とうたわれた。 ブリューゲル(父)やデューラー作品群を獲得。 ルドルフ2世は特にブリューゲルの作品を熱狂的に集めた王で、この美術館にはブリューゲルの全作品の約3分の1にあたる12点が集められている。
レオポルト・ヴィルヘルム大公(1614〜62)は、オランダ・フランドルの名画やヴェネツィア派の作品群の収集に貢献した。 -
2階(1st Floor)の絵画ギャラリーへの階段ホール。
新古典主義の代表的彫刻家カノーヴァ作の 「ミノタウルスを討ちとめるテセウス」の群像が迎えてくれます。 ちなみに、この像は、フォルクス庭園のテセウス神殿にあったものだそうです。
華麗な建物は、ウィーンの建築家ハーゼナウアーと、ドイツの名建築家ゼンパー(ドレスデンのゼンパーオーパー/オペラ座が有名)の設計。 内装は、ハーゼナウアーが手がけ、 高価な素材や当時を代表する芸術家や工芸家たちが、惜しみなく起用されました。
円天井にはムンカーツィーの「ルネサンス賛歌」がのびやかに描かれ、その下には19世紀ウィーンの画家マカルトと若きクリムト兄弟による装飾画が描かれている。 -
階段ホールの西側と東側。
上部のルネット画(半月形の部分/ティンパヌム)は、ハンス・マカルト作。
ハンス・マカルトが1884年に亡くなり、三角小間(スパンドレル)の部分は、芸術家カンパニーの3人(グスタフ/エルンスト・クリムト兄弟とフランツ・マッチュ)が担当。 -
階段ホール踊り場のカノーヴァの彫刻を背にして反対側にはクリムトの装飾壁画。
私が美術史美術館に何度も来る理由の1つは、クリムトファンとしてこれを見るためでもあります。 ブルク劇場階段ホールの装飾画 と並び、一般的に知られる世紀末的要素の濃い絵画(接吻等)を描く前の、クリムト初期の作品を堪能できる。
※ルネットの部分(ハンス・マカルト作)は、 左が「ミケランジェロ」、真ん中が「絵画のアレゴリー」、 右が「ティツィアーノ」等々、東西南北で合計10人の偉大な画家が描かれている。【 ハンス・ホルバイン / デューラー / ラファエロ / レンブラント / ルーベンス / ミケランジェロ / ティツィアーノ / ムリーリョ / ベラスケス / レオナルド・ダ・ヴィンチ 】
※階段ホールの装飾画の詳細をこの写真の左下部分に文字で書き入れました。 (2010年9月追加) *印のついた作品がこの写真で写っている作品。 写真を拡大すると少しは見やすいかも。美術史美術館 博物館・美術館・ギャラリー
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階段の間の三角小間(スパンドレル)と支柱の間に、
クリムト/弟エルンスト/フランツ・マッツュの作品。
古代エジプトからギリシャ、ローマ、そしてルネッサンスに至る美術の発展の歴史を、それぞれの時代にふさわしい様式、コスチュームを備えた人物像によって示した。 クリムト28歳のときだった。 -
美術史美術館、クリムトの作品(1890-91年)。
クリムトは11場面におよぶ装飾画を描いている。
「聖女、ローマの1400年代」
「総督、ヴェネツィアの1400年代」★
「タナグラの乙女、古代ギリシア」★
「パラス・アテネ、古代ギリシア」★
「裸体の若い娘、エジプト」★
「ミーラ、エジプト」
「青年、フィレンツェの1400年代」
「若い娘と幼児、イタリア・ルネッサンス」
「ダンテの彫像と幼児」
「ダヴィデ、フィレンツェの1400年代」
「ヴィーナス、ルネッサンスのフィレンツェ」
(参考文献:クリムトとウィーン/木島俊介著/六耀社)
★印が、この写真に写っている作品です。 -
美術館内の 「カフェ・ゲルストナー」。
ウィーン美術史美術館の 《絵画ギャラリー》 は、
階段ホールを上がり 日本式2階 (1st Floor) にあります。
真ん中の 階段 を境に、東ウィングと西ウィングに展示室が分かれています。
さらに各ウィングで、内側と外側に展示室が分かれていて、各部屋(内側⇔外側)毎に出入り口があるわけではないので、何度来ても若干ややこしいかなぁという印象です。
Floor Plans
http://www.khm.at/en/explore/floor-plans/カフェ (美術史美術館) カフェ
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【 Netherlands 15th−16th centuries 】
ネーデルランド15-16世紀絵画から見学開始。
さっそく、この美術館最大の見所でもある「ブリューゲル」の部屋へ。
「バベルの塔」を模写されている方がいました。 -
ブリューゲル(父) 「バベルの塔」 1563年
旧約聖書に出てくる有名な場面。
「バベルの塔」と云えば、イコールこれと言うくらいにに有名な作品。
繁栄する人間はおごり、天に届く塔を作ろうとした。
バベルの塔の物語は人間のおごり、愚行に対する神の審判、怒りをテーマとしている。 -
現場を視察するニムロデ王と石工たち。
《 彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。 ・・われわれは降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。 (創世記11:6-7) 》 -
永遠の未完成に終わる巨大な塔。 工事現場が語る言葉の混乱。
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ブリューゲル(父) 「ベツレヘムの嬰児殺し」 1567年頃
《 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り・・ ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。(マタイによる福音書2:16) 》
新約聖書の場面。 聖家族のエジプト逃避も、元々、ヘロデ王の嬰児殺しを逃れるためだった。 ヘロデ王としては自分にとって代わるかもしれない未来の王(ユダヤ人の王となる人=キリスト)の誕生を恐れ、早いうちにその芽を摘もうとしたのである。 -
罪もない幼い子供たちを見境なく殺す野蛮な兵士たち。
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哀願し、おびえ、絶望する母親たち。
ブリューゲルが活動した16世紀半ばはフェリペ2世の時代だった。 神聖ローマ皇帝カール5世の後継となったスペイン王フェリペ2世(1527-98)は異母姉マルガレータをネーデルラント総督とし、重税を課す対象としていた。 ( ※ スペイン領ネーデルラント=スペイン・ハプスブルク家の統治下に置かれた南ネーデルラント・・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88 ) -
ブリューゲル(父) 「農家の婚礼」 1568〜69年
農家の婚礼の宴を描いたこの作品で ”農民ブリューゲル” の名声は決定づけられた。 -
ブリューゲル(父) 「雪中の狩人」 1565年
1年の労働の様子を描いた6枚の月暦画シリーズの1枚。
ピーテル・ブリューゲル(1525-69年)は、フランドル絵画の卓越した巨匠として知られる画家。 2人の息子ピーテルとヤンも画家になり、その子孫も18世紀に至るまで画家を生業とした。 同名の息子と区別するために、ブリューゲル(父)と表記されるのが一般的。
また父子それぞれが得意とした画題や作風から、
「農民のブリューゲル」(父ピーテル)、
「地獄のブリューゲル」(子ピーテル)、
「ビロードのブリューゲル」(子ヤン) と呼ばれている。 -
空いていて、ゆっくり見れた、水曜昼の美術館。
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ヤン・ブリューゲル Jan Brueghel the Elder
「The Great Bouquet」1606-07年
ビロードのブリューゲル。 -
バルトロメウス・スプランヘル Bartholomeus)Spranger
「ヘルマアフロディトスとサルマキス」
Hermaphroditus und die Nymphe Salmacis 1580年
これは、ギリシア神話、両性具有の起源の話から。
ヘルマアフロディトスは神々の伝令であり、美青年として知られるヘルメスと、愛の女神アフロディテが合体してできた子で、諸国を放浪するうち、ある泉にたどりつく。 そこにニンフのサルマキスが住んでいたが、この美少年に一目惚れしたサルマキスはいそいそと晴れ着を着け、化粧もし直して彼を口説きにかかる。 それでも気のない素振りの美少年に彼女は、実力行使に出る。
「二人の体は混ざり合って合一し、見たところひとつの体になった・・(変身物語)」 -
ヤン・ゴサールト「聖母子を描く聖ルカ」1520年頃
ルカはマタイ、マルコ、ヨハネと共に四福音書の著者の一人として知られるが職業は医者であったとされる。 しかし美術作品に医者として登場することはほとんどなく、もっぱら彼の夢に現れた聖母子を描いた最初の画家として人気があった。 この伝説により彼は《画家の守護聖人》となり、特に15-16世紀のネーデルランド(ほぼ現在のオランダ、ベルギー)で画家組合その他のために盛んに描かれた。
背後には十戒の板を持ったモーセの石像が置かれ、ここが聖なる寺院の中であることを物語っている。 -
《画家の守護聖人》 聖ルカ。
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彼の手に添えられた天使の手は、描いているのはルカ自身というより、神の手、神からの霊感によってであることを暗示している。
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ヨアヒム・パティニール Joachim Patinier
「キリストの洗礼」 1515年
イエスより6ケ月年長のヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、ヨルダン川で罪を告白した人に洗礼を授けていた。 そこにガリラヤからイエスが洗礼を受けにやってきた。 キリストに聖霊が降り神の子であることが示された。
ヨルダン川で洗礼を受けるキリスト。 父なる神と聖霊の鳩。 洗礼を施すヨハネ。 -
ヒエロニムス・ボッシュ(ボッス)1480年
「十字架を担うキリスト」Christ Carrying the Cross
今回、ウィーンの造形アカデミー絵画館がちょうどリノベーション中でそこにあるボッスが見れないのが残念だったのだけれど・・ 良かった・・こちらにも2点ボッスありました。
ボッスと云えば、やっぱりプラド美術館の「快楽の園」が一番印象に残っています。 -
Hieronymus BOSCH 1480s
Christ Child with a Walking Frame
ボッス(ボッシュ)は、史料が乏しく、伝記には不明な点が多いのです。 現在のオランダのベルギー国境近くにあるス・ヘルトーヘンボスの画家一家に生まれ、30点ほどのシュルレアリスム的作品を残している。 フェルメールとともに作品数が少ないので貴重。 -
メムリンク Hans Memling 1485/1490
「トリプティック(三連祭壇画)−聖母子」
初期フランドル(フレミッシュ・プリミティブ)の創始者が 【 ヤン・ファン・アイク 】 。 宗教的な情熱をキャンパスに表現したのが 【 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 】 。 フレミッシュ・プリミティブを女性像を通して最も分かりやすい形で描いてみせたのが 【 メムリンク 】 という定評もある。(フランドル美術紀行/日経BP社) -
メムリンク Hans Memling 1485/1490
「アダムとイヴ」Adam and Eve
上のような三連だと、トリプティック(Triptych)、
これ(ニ連)は、ディプティック(Diptych)
多翼は、ポリプティック(Polyptych) といいます。
メムリンクのアダムとイヴ。 (旧約聖書)創世記では神はまずアダムを造ったが、アダムにはパートナーが必要と考え、アダムの肋骨の一部を抜いてイヴを造った・・。 -
ヒューホ・ファン・デル・フース
Hugo van der Goes -
ヒューホ・ファン・デル・フース
「原罪」 1479年
(上のディプティックの向かって左側)旧約聖書の一場面、アダムとイブ。 楽園に住む特権を与えられたアダムとイヴは、動物のうち最も賢いとされた蛇(この絵では女の頭部をもつサラマンダー(火蜥蜴)の姿をしている)にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまう。 誘惑に弱い人間の性、欲望の原理を暗示している。 -
ウェイデン Rogier van der Weyden 1440
「トリプティック(三連祭壇画)−磔刑」
中央が、キリストの磔刑。
左は、マグダラのマリア。
右は、聖骸布を持つ聖女ヴェロニカ。
ヴェロニカの聖なる布は8世紀以来、サン・ピエトロ寺院に聖遺物として保存されている。 聖女ヴェロニカは、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの額の汗と血をぬぐってやった聖女。 キリストの顔が亜麻布に写ったという言い伝えから写真家の守護聖女とされる。 -
ヘラルト・ダヴィト Gerard David 1510年頃
「大天使ミカエルの祭壇」
Altarpiece of the Archangel Michael
ラテン語: ミカエル
英 語: マイケル
仏 語: ミシェル
独 語: ミヒャエル
伊 語: ミケーレ
西 語: ミゲル
この人気の聖人に捧げられた教会はあちこちに多いですね。 -
【 Flanders 17th century 】
フランドル17世紀絵画コーナーに移ります。
ダフィット・テニールス(子) David Teniers d. J.
「レオポルト・ヴィルヘルム大公の絵画陳列室」1651年
Archduke Leopold Wilhelm in his Gallery in Bussels
この旅行記3枚目の写真のところで、《 レオポルト・ヴィルヘルム大公(1614〜62) は、オランダ・フランドルの名画やヴェネツィア派の作品群の収集に貢献した。 》 と書いていましたが、この絵は、彼のブリュッセルの絵画陳列室を描いています。
このギャラリーに1400点以上の絵画を所有していたそうですが、この絵では、51のイタリア絵画の中、大公と画家自身も描かれています。
テニールスが描いた絵画陳列室の絵は、プラド美術館、バイエルン州立美術館などにもあります。
http://www.wga.hu/html/t/teniers/jan2/index.html -
ルーベンス Peter Paul Rubens 1610年
「受胎告知」 The Annunciation -
ルーベンス 1611/14年
「聖母被昇天」 Assumption of the Virgin Mary
死の3日後、栄光に包まれて天に召されたという「被昇天」の物語は、中世以降高まった 聖母信仰 を反映している。 聖母マリア信仰は西欧では12世紀頃から一般化し、聖母マリアに捧げられたゴシックの大聖堂がいたるところに建てられるようになった。 しかし、この時代にはまだ「マリア」という名をそのまま用いることは畏れ多いとされ、「われらの貴婦人」(仏 Notre Dame/英 Our Lady)、マドンナ(伊 Madonna)と呼ばれていた。 独ですと、フラウエン教会という名の教会は聖母マリアに捧げられた教会になります。 聖母被昇天の祝日は8月15日。 -
ルーベンス 1636/37年
「ヴィーナス(ウェヌス)の饗宴」 The Feast of Venus -
ルーベンス 1638年
「毛皮のコートをまとった画家の女」
17世紀の偉大なフランドルの画家ルーベンス(1577〜1640年)。 彼は31歳の時、当時ハプスブルク家の支配下にあったネーデルランドの統治者、アルブレヒト大公の宮廷画家となった。 語学が堪能なうえ、豊かな学識を備えていたルーベンスは、外交官としてもヨーロッパ各地を飛び回り、精力的に活躍するかたわら、画家としての名声を国外にまで広めた。 -
【 Holland 17th century 】
オランダ17世紀絵画へ。
レンブラント Rembrandt Harmensz van Rijn 1633-35年
「使徒(伝道者)パウロ」The Apostle Paul
聖パウロは、キリスト教世界の礎を築いた最大の指導者。 英語では、聖ポール教会が彼に捧げられた教会。 ローマの守護聖人。エンブレムは本と剣。
レンブラントの作品は、非常に光を反射するところに飾ってあり撮りにくかったです。 -
レンブラント 1656/57年
「The Artist's Son ,Reading」
光を描いた17世紀のオランダ天才画家といえば・・ レンブラント・ハンメルス・ファン・レイン(1606〜69年) や ヨハネス・フェルメール・ファン・デルフト(1632〜75年)。
レンブラント と フェルメール 、オランダ絵画の絶頂をなす2人の画家は、 ”光” の微妙な効果に着目した。
レンブラントは、闇のなかに対象が浮かび上がるような独自のキアロスクーロ(明暗法)により、絵画のドラマ性を高めることに成功した。 現在も、このレンブラントのキアロスクーロは ”レンブラント・ライト” と呼ばれ、写真の技術に生かされている。
寡作の画家フェルメールは、現存する作品(約35点)のほとんどが、左から光が差し込む室内に1〜2人の人物が描かれた。 フェルメールはカメラ(現代の写真機とは違い、箱にレンズを取り付けただけの暗箱)を用いて絵を描いたと言われている。 当時レンズ研磨は先端技術で、オランダの技術水準は世界有数のものだった。 -
フェルメール Johannes Vermeer van Delft
「絵画芸術(画家のアトリエ)」
Die Malkunst/The Art of Painting 1666/68年 -
一時はこんなニュースもありました。
2009/9/15 News:
ウィーンの美術館、ヒトラーに売却されたフェルメール名画を返還か
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2641815/4593157 -
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632年10月31日 - 1675年12月15日)は、17世紀にオランダで活躍した画家。 レンブラントと並び17世紀のオランダ美術を代表する画家とされる。 生涯のほとんどを故郷デルフトですごした。
最も初期の作品の一つ 『マリアとマルタの家のキリスト』(1654-1655頃) に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。 静謐で写実的な迫真性のある画面は、綿密な空間構成と巧みな光と質感の表現に支えられている。 現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの33〜36点と少ない。 -
フェルメールは、描画の参考とするため「カメラオブスキュラ」という一種のピンホールカメラを用いていたという説がある。
絵に見られる鮮やかな青は、フェルメール・ブルーとも呼ばれ、この青は、天然ウルトラマリンブルーという絵具で、ラピスラズリという非常に貴重な鉱石を原材料としている。 ラピスラズリは、17世紀には金よりも貴重であったといわれ、 ”天空の破片” とも呼ばれたそうです。 -
【 Germany 】
ドイツ絵画コーナーへ。
「神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世」 アルブレ人・デューラー 1519年
「聖母子」 アルブレ人・デューラー 1512年
武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、また芸術の保護者であったことから(デューラーも庇護)、中世最後の騎士と謳われる神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世。 シャルル突進公の娘ブルゴーニュ公国唯一の後継者マリーとの仲むつまじさが素敵なマクシミリアン。
「戦争は他家に任せておけ。 幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」
婚姻により領土を拡大してきたハプスブルク家の最も成功した例はマクシミリアンの時代。
彼は、宮廷礼拝堂少年聖歌隊(ウィーン少年合唱団の前身)を創設しました。
王宮礼拝堂ミサのチケットにはマクシミリアンの肖像が印刷されています。 -
デューラー 1511年
「聖三位一体の礼拝」Landauer Altar
《彼らは父と子と聖霊の名によって洗礼を受け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(マタイによる福音書28:19)》
三位一体(Trinity)については聖書に具体的な定義、説明があるわけではなく、後世の神学者、聖人などにより教義化された部分が多い。 「父」とは神であり、「子」とは神のひとり子、つまりキリストであり、「聖霊」とは世界を創造した神の霊であって、キリストや聖人に奇跡や預言の能力を与えたのも聖霊である。 ほとんどの場合、白い鳩の形をとる。 -
クラナハ Lucas Cranach d. Ae. 1530年
「ユディト」Judith
この絵画は、怖いですが、大変有名です。
ユーディトは、旧約聖書に登場するユダヤ救国のヒロイン。 ユディトは、味方を救うため勇敢にも敵地に乗り込み、巧妙な策略によって敵将ホロフェルネスの首をとる。 手にたずさえた首と剣がユディトの象徴。 クラナハは絵の中で、彼が長年勤めたザクセン宮廷で流行していた衣装をユディトに着せ、時代を表現している。 聖書では人一倍信仰あつく愛国心に燃え、かつ貞淑な未亡人として描かれている。
美術作品に頻繁に登場するユディット。 ファム・ファタル(宿命の女)として描いたのは、世紀末ウィーンの画家クリムト。 -
模写する女性が描いているのは、
新古典主義のドイツ人画家、
アントン・ラファエル・メングス Anton Raphael Mengs(1728-1779)
「ヨゼフの夢」。 -
カフェ・ゲルストナーの天井から差し込む太陽光。
やっと東ウィングの鑑賞が終わりました。 次は西ウィングへ・・。
クーポラの部分上部にはハプスブルク家8名の名前やイメージが刻まれています。
(この写真は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の部分。) -
【 Spain, (France and England) 】
スペインコーナーへ入ります。
ディエゴ・ベラスケス
「白いドレスのマルガリータ王女 Margarita Theresa 」 1656年頃
マドリードからウィーンへ「見合い写真」として贈られた王女の肖像画。
マルガリータは、スペイン・ハプスブルク家の王女として、1651年7月12日に生まれた。
ハプスブルク家は、彼女の父フェリペ4世の曾祖父、カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の代からスペインとオーストリア両国に君臨したが、両国ハプスブルク家の間では、信頼の証として何組もの婚姻が結ばれていた。 マルガリータも3歳の頃から、母マリアーナの実家、オーストリア・ハプスブルク家に嫁ぐことがすでに決められていたという。
ハプスブルク家は代々、軍事力で他国を侵略制覇するというやり方は好まず、政略結婚という平和的な方法でヨーロッパ各地に勢力を伸ばしていた。 フランス革命にまきこまれ、ギロチンにかけられた悲劇の王妃マリー・アントワネットも、オーストリア・ハプスブルク家の出。
1547年時点でのハプスブルク家の領土(カール5世時代)
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Habsburg_Map_1547b.jpg
中世から20世紀初頭まで650年続いたヨーロッパ一の名門王家、ハプスブルク Haus Habsburg。 1918年、第一次世界大戦に敗れ、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。 かつてヨーロッパ中に権威を誇ったハプスブルク家の栄光も、世紀末ウィーンの面影とともに、その華麗な歴史の幕を閉じた。 1918年はクリムトが亡くなった年でもあります。 -
これも有名なベラスケス作
マルガリータ王女 Infanta Margarita Teresa 1660 (姉) と
フェリペ・プロスペロ皇太子 Infant Philipp Prosper 1659(弟)。
結婚政策で近親相姦を繰り返していたので病弱な子も多く、この絵の皇太子(November 28, 1657−November 1, 1661) も4歳になる前に亡くなってしまいました。
ところで、マルガリータ王女はハプスブルク家レオポルト1世に嫁ぎましたが、レオポルト1世の時代には、オスマントルコによる第ニ次ウィーン包囲(1683年)
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=39792602/
がありました。 その際にトルコ軍の忘れていった「コーヒー豆」をコルツィスキーが発見したのが、ウィーンのカフェハウスのはじまりだとか。 -
そして、このご夫婦が、上の2人の親、
フェリペ4世とマリアナ・デ・アウストリア王妃(フェリペ4世の2番目の妻)。
ディエゴ・ベラスケス作
ベラスケスと云えば(上のマルガリータ王女と同じ頃描かれた)プラド美術館所蔵の 『 ラス・メニーナス 』 が有名ですが、この 『 ラス・メニーナス 』 の面白い部分、 ’奥の鏡の中’ に描かれているのが、このご夫婦です(中心がマルガリータ王女、左に立つのがベラスケス)。
http://bit.ly/1K6vics
若くして、フェリペ4世のお気に入りの宮廷画家となったベラスケス。 写実的描写の天才といわれた彼は、特に肖像画において優れた能力を発揮した。 その徹底した描写力は「鏡のようなレアレスム」といわれるほどで、見たものを、とくに美化することも理想化することもなく、あるがままの姿を描くところに特徴があった。
「ベラスケスの筆は正直すぎる」とは、ローマ教皇インノケンティウスの言葉。 -
(ベラスケスの絵を) 「近くに寄り過ぎると何が描かれているのかわからないが、離れて見ると奇跡が起こる。」といった伝記作者。
ベラスケスは、最も少ない筆の動きで最大限の効果を発揮した画家。 衣装(ドレス)は、遠くから見るとかなり細かい動きで繊細に描写されているかのように見えるけれど、画面に近づくと十分な厚さに下塗りされた色の上に必要最小限の筆の動きによって描かれているのが分かる。 印象派画家モネの睡蓮にも通じそうな表現ですね。 -
ムリーリョ Bartolome Esteban MURILLO 1650-55年
「洗礼者ヨハネ」John the Baptist as a Child
ムリーリョはスペイン・バロックを代表する画家の1人。 華やかで甘美な画風で知られている。 -
ムリーリョ
「悪魔を奈落に突き落とす大天使ミカエル」1665-68年 -
【 Italy 15th-16th centuries 】
イタリア15-16世紀絵画へ。
ブロンズィーノ Agnolo Bronzino 1540年頃
「聖家族」 Holy Family with St.Anna and the Boy John -
アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo
「夏」 Summer 1563年
アルチンボルドは1527年にミラノで画家の息子として生まれ、1562年、ウィーンで、フェルディナント1世の宮廷画家となり、その息子のマクシミリアン2世や孫にあたるルドルフ2世にも仕えた。 静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られる。
アルチンボルドを庇護したルドルフ2世は、プラハ城を主たる居城とし、北翼を建設。 そこにスペイン・ホール を作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。 1648年30年戦争の過程で、ルドルフ2世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った。
ルドルフ2世は、政治的には無能だったが、教養に富んでいたことから文化人としては優れ、芸術や学問を保護し、また特に錬金術に興味を示し多くの錬金術師のパトロンとなっていた。 -
アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo
「冬」 Winter 1563年 -
ティントレット Jacopo Robusti, gen. Tintoretto
「スザンナの沐浴(水浴)」 1555/1556年
旧約聖書に登場する女性スザンナは、"純潔"の象徴。 水浴中に2人の元老から姦通を迫られた彼女は、純潔を守ったがために無実の罪に陥れられてしまうが、預言者ダニエルがその疑いを晴らし、最後には救われる。 この物語はルネサンス以降、宗教的な意味合い以上に、沐浴シーンのエロチックさによって愛され、多くの画家に取り上げられている。 -
ティツィアーノ Tizian und Werkstatt
「ダナエ」Danae 1554年
スペイン国王フェリペ2世の注文により描かれた美しいダナエ。 クリムトは「ユディト」も描いたと上で書きましたが、「ダナエ」も描いています。
ダナエとは・・ ギリシア神話に登場する王アクリシオスの娘。 ある時、父によって幽閉されてしまうが、黄金の雨に姿を変えたゼウスが彼女のもとを訪れる。 ゼウスに愛されて英雄ペルセウスを生んだ・・。
「神聖ローマカール5世でさえ、ティツィアーノが制作中に落とした絵筆を喜んで拾いあげた。」 ・・ティツィアーノは、フェリペ2世の父、ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の騎馬像も描いている。(1548年/プラド美術館蔵)
http://bit.ly/1OUxpnp
2010年ウィーンフィル ニューイヤー・コンサート Das Neujahrskonzert der Wiener Philharmonikerでは、このティツィアーノのダナエのある展示室や美術史美術館内で、ウィーン国立歌劇場 OPERのバレエダンサーが踊っていましたね! -
ティツィアーノ
「毛皮をまとう若い娘」 -
ヴィヴァリーニ Antonio Vivarini 1441年
「聖ヒエロニムスの祭壇」 Hieronymus-Altar
ヒエロニムスは若い頃よりギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語をマスターし、修辞学、哲学を修め、聖書を熟読し、その他広汎な知識を学んだ。 聖書をギリシャ語とヘブライ語からラテン語に翻訳したもっとも偉大な聖書学者。 学生、大学、神学科、図書館、司書の守護聖人。
彼は通常白髪・白髭の老人として描かれ、3つの異なった姿で絵画化される。
1.半裸で髪をふり乱した懺悔者の姿。 荒野で磔刑像を前に跪き、石を持っている。
2.書斎に座って執筆中の学者。 書物、ペン、角製のインク壷などが小道具となる。
3.枢機卿の衣をつけて立つ教会博士。 手には教会の雛型を持つ。
この ヒエロニムス は、3.ですね。 次の ヒエロニムス は、1.です。 -
ペルジーノ Perugino 1502年頃
「聖ヒエロニムス」St.Hieronymus
1.半裸で髪をふり乱した懺悔者の姿。 荒野で磔刑像を前に跪き、石を持っている。
語学堪能なヒエロニムス。 仏語ではジェローム、伊語だとジローラモ。
ペルジーノは、フィレンツェでダ・ヴィンチと共にヴェロッキオ工房で学びました。 -
ペルジーノ Perugino 1493年
「聖母子と4聖人」 Mary with Child and Four Saints
私の撮ってきた説明版プレートによれば、4聖人は、ペトロ、パウロ、福音記者(使徒)ヨハネ(?)、洗礼者ヨハネと、書かれていました。 説明版も(?)付きでした。
ペトロは、英ピーター、仏ピエール、伊ピエトロ、独ペーター、西ペドロ、露ピョートル。 ちなみに、エルミタージュ美術館のあるサンクトペテルブルク(英セントピーターズバーグ)は 「 聖ペトロの街 」 という意味。 -
ラファエロ Raffaello Sanzio 1505-06年
「草原の聖母」 The Madonna of the Meadow
バチカン博物館に「アテナイの学堂」「聖体の論議」のような絵もあるけれど、こういう絵を見ると、さすが 《 聖母の画家 》 ラファエロ、と実感しますね。 -
やわらかく、美しい。
-
去年の同じ時期に見た(ドレスデン) ラファエロ作
『システィーナのマドンナ(サン・シストの聖母)』 の天使たちを思い出しました!
http://bit.ly/1MRnPEf -
ラファエロ Raffael and Workshop 1513/14年
「聖家族と少年ヨハネ」 Holy Family with Young John
and Workshop とクレジットがあるので、純粋にラファエロ1人の作品ではないみたい。 -
ラファエロ Raffael and Workshop 1518年
「(アンティオキアの)聖女マルガリタ」 St.Margaret
14救難聖人のひとり。 拷問を加えられ、あげくに悪魔の化身である竜に
飲み込まれたが、無傷で出られたことから、安産、妊婦、誕生、婦人病の守護聖女となった。 エンブレムはドラゴン、鉄櫛、十字架、シュロ、書物。
東方教会での呼び名はマリナ。
ずいぶん上の方で 「 レオポルト・ヴィルヘルム大公の絵画陳列室 」 という絵を載せましたが、その絵の中にこの絵 ( 「(アンティオキアの)聖女マルガリタ」 ) が描かれていました! -
バルトロメオ Fra Bartolommeo
「聖母子」Mary with Child 1514/1516年頃
フラ・バルトロメオは、(1498年に処刑された)ドミニコ会の急進的で過激な指導者サヴォナローラの教えに引かれるようになったイタリア・ルネサンス期のフィレンツェの画家。 -
パルミジャニーノ Parmigianino 1527/28年頃
「聖パウロの回心」 The Conversion of St.Paul
新約聖書の一場面。 パウロ(この時はまだサウロといった)は自ら進んでキリスト教徒を迫害しようとダマスクスに向かった。 だが、途中で天からの光を受けて地に倒れ、なぜわたしを迫害するのか、という神の声を聞いた。 目が見えなくなったパウロは、ダマスクスで奇跡によって目が開かれ、異邦人に布教するという神の使命を知らされた。 ペテロと並んで最も重要な使徒となるパウロは、こうして生まれた。
マニエリスム画家パルミジャニーノは、すべてを、精神世界に反映して動揺し、ゆがんでいるように描いた。 この形体や空間の不思議なねじれやゆがみは、見る者の不安をかき立てるが、忘れがたい印象を与える。 聖パウロの回心記念日は1月25日。 -
【Italy 17th-18th centuries】
イタリア17-18世紀絵画コーナーへ。
カラヴァッジオ Caravaggio 1604/05年
「ゴリアテの首を持つダビデ」 David with Goliath's Head
2010年は、カラヴァッジオ没後400年で、色々なイベントも開催されるようです。 -
オラツィオ・ジェンティレスキ Orazio Lomi Gentileschi
「十字架を担うキリスト」
Christ Carrying the Cross 1600/05年頃
(イタリアに一時滞在した際に)カラヴァッジオ作品を見たと思われるルーベンス、フェルメール、レンブラント、ベラスケス等へも強い影響を与えましたが、( = ”カラヴァジェスティ ” ) オラツィオ・ジェンティレスキも ”カラヴァジェスティ ” の1人。 -
グアルディ Francesco Guardi
「Gate to the Arsenal in Venice」 1776年
ヴェニスのアルセナーレ(造船所)※ への水門。
1104年、ヴェネツィアに設立された国営造船所(アルセナーレ)※。 造船所の設立は、その後のヴェネツィアの繁栄を理解する上で重要な場所。 これを機に、ヴェネツィアの海事力は質量ともに飛躍的に充実した。 -
グアルディ Francesco Guardi 1776年
「ベニスのサン・マルコ広場」 St.Mark's Square in Venice
グアルディやカナレットの風景画はいいですね。 好きです。 -
カナレット Bernardo Bellotto called Canaletto
「ウィーンの大学広場」
University Square in Vienna 1758/61年
大学広場というのは現在の旧市街北東に位置するイエズス会教会のある広場のこと。 この絵の右手に見えるのがイエズス会教会( http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=15379268 )です。 -
この写真の、上の絵、はここみたいです。
(場所はブラチスラヴァに近い。)
http://www.schlosshof.at/en/picture-archive.html
カナレットといっても、
こちらは ベルナルド・ベッロット(通称カナレット)
Bernardo Bellotto (called Canaletto)。
ベルナルド・ベッロットは、ベネツィアの風景画を描いたカナレット、
ジョヴァンニ・アントーニオ・カナール(通称カナレット)
Giovanni Antonio Canal (called Canaletto)の甥です。
ドイツ系でカナレットといえば、
ベルナルド・ベッロット Bernardo Bellotto を指すみたいです。
下の絵は、シェーンブルン宮殿。 -
ベルナルド・ベッロット(通称カナレット)
Bernardo Bellotto called Canaletto
「Shloss Schoenbrunn;Court Facad」 1759/61年
シェーンブルン宮殿。 -
ベルナルド・ベッロット(通称カナレット)
Bernardo Bellotto called Canaletto
「Vienna Viewed from Belvedere Palace」 1758/61年
これは、この美術館の中でも最も好きな絵のひとつ。
ベルヴェデーレ宮殿から庭園越しに見たウィーンの眺望を描いた作品。
中央に見える塔はシュテファン寺院の塔で、左はカール教会のドーム。 -
「ベルヴェデーレ宮殿から見たウィーンの眺望」 1758/61年
上の絵をズームアップして撮ってみました。
左の塔が、シュテファン寺院。
手前に見えるのが、ベルヴェデーレ宮殿の下宮。 -
これは今回、ベルヴェデーレ宮殿(上宮)から見たウィーン眺望の写真です。
今も、カナレットの絵と同じようなウィーン眺望を楽しむことができます。
左の塔が、シュテファン寺院。
手前に見えるのが、ベルヴェデーレ宮殿の下宮。 -
これは2007年ベルヴェデーレ宮殿上宮から撮ったウィーン眺望。
この時は夕焼けのピンク色の空にウィーンの街を眺望でき、
ほんとうに ”ベルヴェデーレ(美しい眺め)” でした。
今思い出しても印象深い一時でした。 -
美術史美術館を出たら、外はもうまっくらに。
でも・・!
アドヴェントの期間、美術館前(マリア・テレジア広場)では、
クリスマス・マーケットが開催されているので賑やかで安心なのです。
この後は、ライトアップされたウィーンの街中を散策しました♪
皆さんも、是非、一度、アドヴェントのウィーンへいかが・・? 素敵ですよ。
〜〜〜 ウィーン美術史美術館 完〜〜〜
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