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コールマルクト通りをぬけると急に目の前が開け、湾曲した城壁かと見惑う王宮のミヒャエル門の前に出る。<br /><br />王宮(ホーフブルグ)は13世紀以降ハプスブルグ家代々の居で、その間増改築が繰り返されてきた。<br /><br />最初に目にしたのはその内旧王宮と呼ばれている宮殿で、中央の薄緑のドームは特にその中のスイス宮の王宮礼拝堂の屋根部分。<br /><br />旧王宮内では、美と人間らしさとを求めた悲劇の皇妃、シシイことエリザベートのシシイ・ミューシアムを観光。<br /><br />旧王宮を抜けると、左側に旧王宮とは直角に建つ宮殿が新王宮。<br />新王宮の前にはオーストリア救国の士、オイゲン公の銅像が建っている。<br /><br />この新王宮は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が旧城壁を壊し、環状道路を建設した時期に建てられた。<br /><br />新王宮の前のカール大公像が建つ英雄広場を挟んで、新王宮と向き合うようにもう一つの王宮を建てる設計であったが、財政がこれを許す状況になかった為計画は中止され、今はフォルクス園。<br /><br /><br />丁度何かのイベントの真っ最中で、ここはそそくさと素通りしブルグ門を潜る。<br /><br />環状道路を渡るとマリア・テレジア広場。ここも広場の両袖に対照的な重厚な建物が建っており、右の建物が自然史博物館、左がこれから見学する美術史美術館。<br /><br />その中央に女帝マリア・テレジアの坐像が、逆光を浴びて高々と威厳を漂酔わせている。<br />この像は1887年完成までに13年を費やした。<br /><br />「女帝」と言う言葉からは直感的に”猛烈な女性”を連想してしまう。<br />確かにマリア・テレジアは対外的にも多くの困難を乗り越え、国内でも大いなる改革を行い、その上16人の子を儲け、常人でないことは疑いようが無い。<br /><br />しかし彼女にまつわるエピソードを見ると、そこには人間味溢れる愛おしい女性の姿が浮かびあがってくる。<br /><br />そもそもマリア・テレジアは正式な「女帝」ではなく、「皇后」であり、帝位は夫ロートリンゲン公フランツシュテファンである。<br /><br />マリア・テレジアは父カール6世の長女として生まれ、箱入り娘として、帝王学とは無縁の世界で育てらる。<br /><br />彼女はフランスの国境に近い小国・ロートリンゲン公国からウイーンに留学に来ていたフランツ・シュテファンと「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」ほどの恋に落ち、当時の王族社会では珍しかった恋愛結婚を果たす。<br />(10フリードリヒ大王の夏の離宮・サンスーシ宮殿その1参照)<br />http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10220924/<br /><br /><br />マリア・テレジアは兄レオポルドの死亡により23才で図らずもハプスブルグ家を継ぐことになり、父カール6世の死去に伴いハプスブルグ家の継承問題で端を発したオーストリア継承戦争(1740〜1748)以降、「箱入り娘」の衣をぬぐい捨て、「女帝」の鎧をまとうようになる。<br /><br />しかし夫ロートリンゲン公が死去した後は再び「箱入り娘」に戻ったかのように、亡き夫を偲んで終生黒の喪服で通した。<br /><br />彼女が使用していた祈祷書に1枚の紙切れ挟まっていた。<br />その紙切れには夫と共に過ごした時間が次のように書かれていた。<br /><br />「29年6ヶ月6日、29年、335ヶ月、1540週、1万781時間、35万8744分」。<br /><br />完成までに13年を費やした彫刻家カスパール・フォン・ツンブッシュの思いが伝わってくるような気がする。

67王宮とマリア・テレジア像のある広場

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2007/09/29 - 2007/09/29

5237位(同エリア6058件中)

WT信

WT信さん

コールマルクト通りをぬけると急に目の前が開け、湾曲した城壁かと見惑う王宮のミヒャエル門の前に出る。

王宮(ホーフブルグ)は13世紀以降ハプスブルグ家代々の居で、その間増改築が繰り返されてきた。

最初に目にしたのはその内旧王宮と呼ばれている宮殿で、中央の薄緑のドームは特にその中のスイス宮の王宮礼拝堂の屋根部分。

旧王宮内では、美と人間らしさとを求めた悲劇の皇妃、シシイことエリザベートのシシイ・ミューシアムを観光。

旧王宮を抜けると、左側に旧王宮とは直角に建つ宮殿が新王宮。
新王宮の前にはオーストリア救国の士、オイゲン公の銅像が建っている。

この新王宮は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が旧城壁を壊し、環状道路を建設した時期に建てられた。

新王宮の前のカール大公像が建つ英雄広場を挟んで、新王宮と向き合うようにもう一つの王宮を建てる設計であったが、財政がこれを許す状況になかった為計画は中止され、今はフォルクス園。


丁度何かのイベントの真っ最中で、ここはそそくさと素通りしブルグ門を潜る。

環状道路を渡るとマリア・テレジア広場。ここも広場の両袖に対照的な重厚な建物が建っており、右の建物が自然史博物館、左がこれから見学する美術史美術館。

その中央に女帝マリア・テレジアの坐像が、逆光を浴びて高々と威厳を漂酔わせている。
この像は1887年完成までに13年を費やした。

「女帝」と言う言葉からは直感的に”猛烈な女性”を連想してしまう。
確かにマリア・テレジアは対外的にも多くの困難を乗り越え、国内でも大いなる改革を行い、その上16人の子を儲け、常人でないことは疑いようが無い。

しかし彼女にまつわるエピソードを見ると、そこには人間味溢れる愛おしい女性の姿が浮かびあがってくる。

そもそもマリア・テレジアは正式な「女帝」ではなく、「皇后」であり、帝位は夫ロートリンゲン公フランツシュテファンである。

マリア・テレジアは父カール6世の長女として生まれ、箱入り娘として、帝王学とは無縁の世界で育てらる。

彼女はフランスの国境に近い小国・ロートリンゲン公国からウイーンに留学に来ていたフランツ・シュテファンと「夜は彼のことを夢見、昼は女官達に彼のことを話している」ほどの恋に落ち、当時の王族社会では珍しかった恋愛結婚を果たす。
(10フリードリヒ大王の夏の離宮・サンスーシ宮殿その1参照)
http://4travel.jp/traveler/shintch/album/10220924/


マリア・テレジアは兄レオポルドの死亡により23才で図らずもハプスブルグ家を継ぐことになり、父カール6世の死去に伴いハプスブルグ家の継承問題で端を発したオーストリア継承戦争(1740〜1748)以降、「箱入り娘」の衣をぬぐい捨て、「女帝」の鎧をまとうようになる。

しかし夫ロートリンゲン公が死去した後は再び「箱入り娘」に戻ったかのように、亡き夫を偲んで終生黒の喪服で通した。

彼女が使用していた祈祷書に1枚の紙切れ挟まっていた。
その紙切れには夫と共に過ごした時間が次のように書かれていた。

「29年6ヶ月6日、29年、335ヶ月、1540週、1万781時間、35万8744分」。

完成までに13年を費やした彫刻家カスパール・フォン・ツンブッシュの思いが伝わってくるような気がする。

同行者
その他
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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