
1998/11/13 - 1998/11/18
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arfaさん
世界史の中でも最も呪われた歴史のひとつであるカンボジアの血塗られた近世をアップしてみます。
この国は第二次世界大戦直後は世界でもっとも豊かな国の一つでした。直接の攻撃を受けていないアメリカは別として日本や西欧は戦災で国土が荒廃し、当時の富裕国はブラジル、アルゼンチン、カンボジアなど戦争の被害にあわなかった農業大国が豊かな国でした。終戦後、食料の極度に不足していた日本にシアヌーク国王は日本は「数百年来の友人だ」と無償で最大の援助国となり沢山の米を送ってくれ、また日本人は長粒米でなく短粒米を好むと聞いてカンボジアの作米の種類を短粒米に変えてまで援助してくれたほどでした。現在のカンボジア米が短粒米なのはこのためです。日本が内戦の終結に尽力したのもお世話になった感謝が理由の一つにありました。そのような歴史があり今でもカンボジア人は日本人贔屓なのです。
ベトナム戦争でベトコンに手を焼く米軍はホーチミン・ルートが通るカンボジア領内の空爆をシアヌーク国王に迫りましたが国王は断固拒否されました。そのため米国の工作によりロンノル派のクーデターによるシアヌーク国王海外亡命、続く中国、ベトナムの参入などで23年に渡り自国民同士が血で血を洗う内戦の時代に突入します。最大の悲劇は毛沢東にだまされたポルポト時代の虐殺です。その写真をアップして見ます。人口1000万人のうちポルポト支配の2年間で200万から300万人の人が命を落としました。おそらくは直接の殺害が半分、あとの半分は知識人の農村への強制移住で一日700カロリーしか食事を与えず衰弱死させたのです。これは毛沢東がカンボジアには知識層を根絶やしにし、教育を禁止することで国家の根幹を破壊し、カンボジアから中国に連れてきた500名の若い女性に中国人の男性の子供を産ませ毛沢東思想に洗脳したあとカンボジア人!のエリート層として国家を乗っ取るという戦略があったそうです。気が付いた時、ポルポトは毛沢東に騙されたと涙を流して悔しがったそうですがその破壊によりカンボジアはいまだ三流国から抜け出せず観光と国際支援で生きているような状態です。
表紙の写真はトゥール・スレン博物館に展示されていた直径10cmくらいの頭骸骨で作られたカンボジアの地図。そう虐殺された子供たちの頭蓋骨です。
現在はあまりにも残酷すぎるとして取り外されました。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- タクシー
- 航空会社
- タイ国際航空
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トゥールスレン博物館。この博物館は元リセ(高校)です。これは有名な写真。ポルポト派がトゥールスレンを撤収する際、ベッドに縛られたまま放置されていた遺体。ベトナム軍がここを確認した際生き残っていたのはわずか4人とか。
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当時、この遺体があったベッドはそのまま部屋に保存されています。
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ベッドに置かれている写真の血が今でも消えずにベッドの足元にこびりついています。
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次の部屋の写真。
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その次の部屋。
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そのまた次の部屋。ここの写真はひどく顔は白骨化、体は腐って異様に膨れています。ベトナム軍がここに入ったときは死臭で息ができなかったそうです。
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殺された人達の写真がこのように並んで飾られています。
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そのアップです。全て番号を付け管理してる様子が伺えます。
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高校の部屋をレンガで区切って独房です。1畳あまりの部屋にレンガ一個くらいのブリキの簡易トイレ。これと繋がれていた鎖が部屋の全て。
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表紙に使った写真。直径10cmくらいの子供の頭骸骨で作られたカンボジアの地図。川は赤で血管のように作られています。
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アップです。
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アップ。もうこの地図は残酷すぎると言う理由で外されています。
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キリングフィールドから遺骨を掘っている作業中の写真。
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キリングフィールドの遺骨を掘っている写真。ものすごい人骨ですが埋もれているのはまだこの何倍かあると言うことです。
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拷問の器具の数々。ここではなかなか殺してもらえず延々と拷問が続き、ほとんどの人が殺される際にやっと楽になると笑みを浮かべて死んでいったそうです。いかに激しい拷問であったか想像を絶するものでしょう。拷問の質問はたった1つ。「反動分子は誰だ。」
無実の一般の人に拷問してまた捕まえて口を割らせる。これでカンボジアの人口の3割をたった2年で殺したのです。 -
左はこのトゥールスレンの高校の講堂か体育館に収容した人の姿。逃げられないように1本の鉄棒に左右交互に足首を固定されています。
右は校庭の鉄棒に後ろ手に吊るされている人。10分も持たずに肩の関節が脱臼するでしょうね。脱臼すれば「死」です。 -
拷問の器具。右側は水責めの道具。真ん中の写真は女性の乳首をペンチで潰す拷問。左は頭が下がれば刀の上に落ちる器具だったと思います。
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場所を移動してここはキリングフィールドの慰霊塔です。頭蓋骨はここに整然と並べられています。
ここを建てた時、国内ではすでに僧侶も皆殺しにされており、僧侶がおらず外国から僧侶を呼び寄せてお経を上げてもらったほどの徹底した抹殺ぶりでした。
プノンペン陥落でポルポト派はストゥートレンの虜囚をここ、後日名付けられた「キリングフィールド」で一気に殺害し、まとめて埋めてしまいます。 -
キリングフィールドです。遺骨に花が添えられています。ここでは性別、年代別にきちんと整理されて頭蓋骨が並べられています。几帳面なカンボジア人の性格。
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日本人やドイツ人もよく言われますが几帳面な種族は反面、狂気の残酷さを持つそうです。カンボジアの悲劇も几帳面なカンボジア人だからこその徹底なのでしょうか。
銃とかではなく斧で頭を殴られ殺されています。 -
きれいに並べられた頭骸骨。
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同じく。ここは少し骨に痛みがあるようです。地層が悪かったのでしょうか。
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キリングフィールド。地面に見える白いものは人間の骨です。
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見えている紫色の布は殺された人の着ていた服が地表に出ているそうです。この下には……この服を着た死体があります。
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点々と見える白いもの。人間の骨です。
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ここの管理事務所の人に言われて落ちていた人間の腕の骨で地面を掘ってみました。出てきた針金は殺された人の手首を縛っていたものだそうです。手錠ではなく針金で人を縛る。残酷です。
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遺体を掘った跡の穴は池のようになってます。池になっていないところは下は人骨が埋まっていると言うことです。
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ここも掘った跡です。
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公園の職員が囚われた人の縛られた様子を再現して説明します。10cm感覚で左右に固定されます。
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このキリングフィールドの遺骨を掘った場所が記載されています。
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ここで殺された有名人の写真。外国人(オーストラリア)もいます。
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プノンペンの地図。おそらくポルポト派の退路が記されここで邪魔になった虜囚を殺害したのでしょう。
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