月読神社(つきよみじんじゃ)は月読尊(つきよみのみこと)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)を...
続きを読む祀る延喜式内社で中世には兵火を受け社殿の焼失と再興を繰り返した歴史がある。月読神社が位置する大住地域は平安時代末期から室町時代末ごろまで奈良興福寺の荘園だったとのことで鎌倉時代初めに源頼朝から神馬の献上があったと伝えられ明治維新の折には鳥羽伏見の戦いを避けるため石清水八幡宮が一時遷座、神宝が薬師堂に安置されたとのこと。現在の本殿は一間社春日造、銅板葺の建物で明治26年(1893年)建造されたもの。
参道入口の鳥居右に『隼人舞伝承地』との高札があり興味深く見た。以下月読神社由緒に関する解説を引用する。
「九州南部の大隅隼人が7世紀頃に大住に移住し、郷土の隼人舞を天皇即位にともなう大嘗祭のときなどに朝廷で演じ、月読神社にも奉納して舞い伝えてきた」とのことで鳥居脇には“隼人舞発祥の碑”との石碑が立っている。
隼人とは、古代の薩摩・大隅地方に居住していた人々で大和民族とは異なり東南アジア島嶼部から南太平洋にかけて分布するオーストロネシア語族に属するとのこと。5世紀頃には大和朝廷に服属したものの完全服従は8世紀前半ともいわれる。隼人の出自について、記紀に記す「海幸彦山幸彦神話」では、天孫ニニギの御子・海幸彦を隼人の祖とするとのこと。 兄・海幸彦(ホデリ命)から借りた釣り針を失い、それを探して海神の宮に行った山幸彦(ホヲリ命、別名:ヒコホホデミ命−天孫ニニギの御子・神武天皇の祖父)が釣り針を見つけての帰国後、海神から与えられた宝珠・潮満珠(シオミツタマ)と潮干珠(シオヒルタマ)をつかって海幸彦を苦しめ、為に海幸彦は「今より以後、汝命の守護人(マモリビト)となりて仕へ奉らむ」と降参した。海幸彦は隼人族の祖であり隼人族が朝廷に仕え伝承する隼人舞を舞うのはこのためであるという。本来の海幸山幸神話は海山の豊穣を約束する神々の物語として南九州に伝わるものといわれる。それが記紀に取り入れられる段階で天孫・ヒコホホデミと結びつけられ隼人族の服従伝承へと改変されたともいう。南九州には天孫ニニギやヒコホホデミに関連する伝承・日向神話がある。
この神話そのものには月神との直接的な関わりはないが山幸彦が海神の館を訪れたとき、門前にある泉の傍らの桂の木に登って海神の娘・豊玉姫を待った話(月には桂の木が生えているという)とか、海神から潮の干満を意のままに操る潮満珠・潮干珠を与えられた話(月は潮の干満を掌る)などは、月神信仰との関わりを示唆するという。 また南九州に伝わる伝承習俗には、月神信仰に関わるものが幾つかあるという。隼人族が南方系海人民族の血をひくとすれば、海の潮を掌る神としての月神信仰を持っていたと思われる。因みに、大隅半島の串良町有里と桜島他に月読神社がある。
大住の地には、樺井月神社の他にも月読命に関わる神社が残っている。月読神社の南約4?の甘南備山(カンナビ)には月読神が降臨したとの伝承があり、山頂に鎮座する神南備神社(式内小社)の本来の祭神は月読命という。また甘南備山北東山麓の薪神社には注連縄を張った神石があり、地元では月読神が降臨した磐座・影向石といわれている。
これらのことからみて、当地に居住した隼人の人々は甘南備山を月読神が降臨した聖地と見、その麓に幾つかの月読社を創建したと思われる。ただ、これらに祀られている月読命は、記紀にいう三貴神の一人としてのそれではなく、潮の干満を左右する月神という土俗的・海人的な月神信仰に基づくものといえる。本殿左手の疎林の中に「宝生座発祥の地」との石碑があり、月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい神社と寺に奉納した能楽座を宝生座と称したとのこと。宝生座は観世座の祖・観阿弥の長兄によって始められた大和4座の一座(室町中期)とのこと。
境内を出た道路脇の植え込みの中に「宮中神楽発祥の地」との黒御影の石碑があり、「庭燎 深山なる霰降るらし 外山なる まさきの葛 色つきにけり」との和歌が刻されている。
以上の解説文は月読神社の歴史について非常に詳く日本の一般的な神社と異質な香りがする。
月読神社に残る「海幸彦山幸彦神話」に繋がる隼人舞伝承地伝説、隼人族南方系海人民族とされる隼人族の海の潮を掌る神としての月神信仰伝説、宝生座発祥の地伝説,かぐやひめ伝説ゆかりの神社とされ歴史的にも魅力ある神社だ。
JR学研都市線・大住駅の北西約1.2?、大住中学校に北摂する叢林の中に東面して鎮座する。叢林の北には大住幼稚園と小学校がり、道路をはさんで東には田畑が広がる。
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投稿日:2012/11/02