紫香楽宮跡
名所・史跡
3.32
紫香楽宮跡 クチコミ・アクセス・周辺情報
信楽 観光 満足度ランキング 6位
聖武天皇が恭仁宮の離宮として造営したが,2年9カ月で歴史から消えた短命の都跡に関連した寺院遺跡、300以上の礎石が残る。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
紫香楽宮跡関連遺跡群発掘調査事務所(出土遺物展示室)にも行ってください。
5.0
- 旅行時期 2026/02
- by しにあの旅人さん
「紫香楽宮跡」となっていますが、これは「甲賀寺跡」ではないかと思います。 ここまで来たらぜひ紫香楽宮跡関連遺跡群発掘調査... 続きを読む事務所にも行ってください。紫香楽宮跡から車でほんの5分です。紫香楽宮あとで発掘された資料を基にした、再現ビデオが大変貴重なものです。 まさに発掘中の作業事務所という感じ。建物はプレハブで安っぽいすが、中身は全く違います。 ここを見なければ、紫香楽宮跡を見学したことにならないと言っても、過言ではありません。 事務所の前に駐車場が3台分くらいあります。 〒529-1801 滋賀県甲賀市信楽町宮町641-1 電話〒0748-83-1919 開館日、時間は事前に必ず電話で確認して下さい。 閉じる
クチコミ・評判
3.32
(13件のクチコミ)- アクセス:
- 3.45
- 車以外いけません。 by しにあの旅人さん
- 人混みの少なさ:
- 4.36
- 訪れる方はほとんどないようです。土曜日に訪れましたが出会った人は二人でいた。 by パリが大好きさん
- バリアフリー:
- 3.30
- こう配のない坂道を登る必要があります。 by パリが大好きさん
- 見ごたえ:
- 4.00
- どのようなところに都が置かれたのか興味がありましたが、よく分かりませんでした。 by パリが大好きさん
1~12件(全13件中)
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「史跡紫香楽宮跡」
- 3.0
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
- 0
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興味を持っていた紫香楽宮跡ですが一帯は松林と建物の礎石だけでした。
- 3.0
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
- 0
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離宮の跡
- 3.0
- 旅行時期:2021/08(約5年前)
- 0
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「紫香楽京跡宮町地区」と「紫香楽京跡内裏野地区」、駐車場あり。
- 5.0
- 旅行時期:2021/07(約5年前)
- 0
2021年12月19日現在、紫香楽京跡でグーグルマップを検索すると、「紫香楽京跡宮町地区」と「紫香楽京跡内裏野地区」がヒッ... 続きを読むトします。
「紫香楽京跡宮町地区」は、かつて聖武天皇の紫香楽宮があったところです。宮町公民館がありますが、2度行って2度とも閉まっていました。広いグランドなので、駐車には困りません。ただし野球場も兼ねているので、なにか行事があると止められないかもしれません。
「紫香楽京跡内裏野地区」は厳密には甲賀寺跡です。近くに別に「甲賀寺跡」の表示がでることがありますが、これは甲賀寺跡への参道の起点です。
近くに10台くらい駐車可能です。
閉じる投稿日:2021/12/19
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天皇の気まぐれで作ったのか
- 2.5
- 旅行時期:2020/07(約6年前)
- 0
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奈良時代の都だった場所かも…。
- 5.0
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
- 4
近江国信楽、この地に第45代聖武天皇が平城京の離宮として紫香楽宮を造営し始めたのは天平14(742)年のことであった。仏教... 続きを読むに帰依していた聖武天皇は翌年紫香楽宮に盧舎那仏を造営することを発願するが、これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものと考えられている。造営中だった恭仁京の造営を中止し、紫香楽宮造営が一挙に加速することとなる。天平16(744)年には都近くに建立した甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が出来上がっており、記録によると天平17(745)年1月には紫香楽宮(甲賀宮)が〝都〟とされている。そのまま盧舎那仏像が作られ日本の都としての歴史が始まるはずだったが、天変地異や山火事が立て続けに起こったため、遷都が仏の怒りに触れたとして僅か5ヶ月後には平城京へと戻ることとなった。
災いが起こるたびに遷都して逃れようとした聖武帝ではあったが、その考えに賛同してきた者は官民問わず少なかったと言われている。紫香楽宮に至っては〝田舎暮らし〟を嫌がった藤原氏や光明皇后などが仕組んだ〝山火事〟を起こしたとする学者もいる程である。結局平城京に戻った聖武帝は国分寺建立の詔、次いで東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。天平勝宝4(752)年には念願の東大寺大仏の開眼法要を行い、気が済んだのか四年後には崩御されている。聖武帝から生前譲位された阿倍内親王が第46代孝謙天皇(重祚第48代称徳天皇)となった後の政権の混乱は史実の通りである。
奈良時代に陪都とされた伝承は多くあるものの、詳細が不明な場所も少なくはない。つい最近までは紫香楽宮もそのひとつであった。そもそも〝紫香楽宮跡〟と言われていたものは内裏野地区の一角を指すものに過ぎない。大正時代に国の史跡に指定されているが、近年の発掘調査や研究によって、北に位置する宮町遺跡が実際の〝紫香楽宮跡〟と言うことが確実視されている。
現在の内裏野地区は史跡公園となっており、建物跡の礎石等を眺めて往時を知るところとなっている。対して宮町地区は礎石等の史跡は勿論、紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所では資料館として発掘等で出土した品々や、発掘過程をビジュアル的に見ることができる〝体験施設〟にもなっている。行ってみればわかる話ではあるが、〝静と動〟という全く違う観点からの城跡考察なのである。残念ながら歴史音痴の観光ガイドにはその違いは書かれていないし書こうとも思っていないようだ。訪れるなら公的資料を利用して訪れることをお勧めしたい…そんな思いをしながら一日を〝紫香楽宮跡巡り〟に費やした私であった。 閉じる投稿日:2020/08/12
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新名神高速道路を信楽インターで出て信楽方面へ向かうとすぐに史跡・紫香楽宮跡がありました。
- 4.0
- 旅行時期:2019/11(約6年前)
- 2
新名神高速道路を信楽インターで下りると、平成3年に起きた信楽高原鐵道列車衝突事故現場を通り、信楽方面へ向かうとすぐに国立紫... 続きを読む香楽病院と史跡・紫香楽宮跡がありました。
信楽高原鐵道の紫香楽宮跡駅から北西へ約1km、松林に覆われた丘陵地に残る国指定の史跡です。
東西90m、南北110mにわたる広い丘陵地には、建造当時の335個の礎石が残り、はるか天平時代の雅やかな雰囲気が偲ばれます。
史跡・紫香楽宮跡の緑の松林には、金堂跡を囲むように僧坊跡・経堂跡・鐘楼跡・塔院跡などの礎石(そせき)が並び、東大寺とよく似た建物配置の寺院跡になっています。
この寺院は、聖武天皇が紫香楽宮で大仏造立をはじめた甲賀寺跡だと考えられています。
閉じる投稿日:2019/12/22
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「感じる心で」紫香楽宮の宮殿跡。首都の今は!【紫香楽宮跡群 宮】歴史浪漫
- 5.0
- 旅行時期:2018/10(約8年前)
- 5
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ここに都があったとは考えられない風景でした
- 4.5
- 旅行時期:2018/02(約8年前)
- 0
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静かなところだったわぁ―
- 3.5
- 旅行時期:2018/01(約8年前)
- 0
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信楽高原鉄道 紫香楽宮跡駅から
- 4.0
- 旅行時期:2017/11(約8年前)
- 0
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昔の都の跡
- 3.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 0
1件目~12件目を表示(全13件中)
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