奈良時代の都だった場所かも…。
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- 旅行時期:2020/06(約6年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
信楽 クチコミ:11件
近江国信楽、この地に第45代聖武天皇が平城京の離宮として紫香楽宮を造営し始めたのは天平14(742)年のことであった。仏教に帰依していた聖武天皇は翌年紫香楽宮に盧舎那仏を造営することを発願するが、これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものと考えられている。造営中だった恭仁京の造営を中止し、紫香楽宮造営が一挙に加速することとなる。天平16(744)年には都近くに建立した甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が出来上がっており、記録によると天平17(745)年1月には紫香楽宮(甲賀宮)が〝都〟とされている。そのまま盧舎那仏像が作られ日本の都としての歴史が始まるはずだったが、天変地異や山火事が立て続けに起こったため、遷都が仏の怒りに触れたとして僅か5ヶ月後には平城京へと戻ることとなった。
災いが起こるたびに遷都して逃れようとした聖武帝ではあったが、その考えに賛同してきた者は官民問わず少なかったと言われている。紫香楽宮に至っては〝田舎暮らし〟を嫌がった藤原氏や光明皇后などが仕組んだ〝山火事〟を起こしたとする学者もいる程である。結局平城京に戻った聖武帝は国分寺建立の詔、次いで東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。天平勝宝4(752)年には念願の東大寺大仏の開眼法要を行い、気が済んだのか四年後には崩御されている。聖武帝から生前譲位された阿倍内親王が第46代孝謙天皇(重祚第48代称徳天皇)となった後の政権の混乱は史実の通りである。
奈良時代に陪都とされた伝承は多くあるものの、詳細が不明な場所も少なくはない。つい最近までは紫香楽宮もそのひとつであった。そもそも〝紫香楽宮跡〟と言われていたものは内裏野地区の一角を指すものに過ぎない。大正時代に国の史跡に指定されているが、近年の発掘調査や研究によって、北に位置する宮町遺跡が実際の〝紫香楽宮跡〟と言うことが確実視されている。
現在の内裏野地区は史跡公園となっており、建物跡の礎石等を眺めて往時を知るところとなっている。対して宮町地区は礎石等の史跡は勿論、紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所では資料館として発掘等で出土した品々や、発掘過程をビジュアル的に見ることができる〝体験施設〟にもなっている。行ってみればわかる話ではあるが、〝静と動〟という全く違う観点からの城跡考察なのである。残念ながら歴史音痴の観光ガイドにはその違いは書かれていないし書こうとも思っていないようだ。訪れるなら公的資料を利用して訪れることをお勧めしたい…そんな思いをしながら一日を〝紫香楽宮跡巡り〟に費やした私であった。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 新名神信楽インターチェンジから車で10分。
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 平日だったので誰にも会わなかった。
- バリアフリー:
- 5.0
- 足場は良くない。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 紫香楽宮跡の〝静と動〟は行く価値大いにあり。
クチコミ投稿日:2020/08/12
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