第15代征夷大将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)公(天保8年(1837年)10月28日〜大正2年(1913年)11月22...
続きを読む日)は、将軍職を辞職し京都朝廷に対し大政奉還を果たしたが、慶應4年(1868年)5月24日に郷里水戸に於いて蟄居する為に江戸城を出発したが、慶喜公警護の共として剣豪の幕臣50名で組織された精鋭隊隊長が 中條影昭(ちゅうじょう かげあき)(文政10年(1827年)6月19日〜明治29年(1896年)1月19日)である。
然し、安住の地と思われた水戸は、現に東北地方に奥羽列藩同盟が存在し、新政府に対し不穏な動きを見せている現状では、万一、該同盟組織に依り慶喜公が奪取され奉主に祀り上げられが如き事態ともなれば、国内勢力の二極化は避けられず、上野彰義隊の戦い以上の内乱状態発生ともなれば、国内混乱に託け、一部諸外国勢力に拠る我が国領土簒奪の可能性に気付いた該隊頭取並隊長代理 関口隆吉(せきぐち たかよし)(天保7年(1836年)10月26日〜明治22年(1889年)5月17日)は、新政府高官たる 大久保利通(おおくぼ としみち)(文政13年(1830年)9月26日〜明治11年(1878年)5月14日)に進言談判し、慶喜公を徳川駿河府中藩御預けとする事に決し、同年7月19日に薩常陸鹿島沖から薩摩藩軍艦に便乗し出発し、同年7月23日に駿河清水湊を経て府中宝台院を蟄居の場と定め、翌明治2年(1869年)10月5日まで該院に於いて謹慎生活を送られた。
他方、府中は静岡と改称し、徳川本家は駿河静岡藩70万石として存続を許されたが、廃藩置県を前に俸禄返還が想定された事から、多数の武士の生活を生活困窮から保障する必要が生じ、関口の提案に依り、当時は金谷原と称された牧之原台地に旧幕臣 精鋭組80戸、及び、新参組220戸、計300戸が入植し、更に、大井川の川越人足が明治3年(1870年)10月に大井川に渡舟が開設された事で失職した為に、丸尾文六(まるお ぶんろく)(天保3年(1832年)〜明治29年(1896年)率る70戸が佐野郡日坂宿御林(現 掛川市)、榛原郡東萩間村(現 御前崎市)、同郡西萩間村(現 御前崎市)、及び、城東郡棚草村(現 菊川市)に入植開墾に従事した結果、途中志半ばにして過労を原因として健康を害たり挫折を体験し離村を余儀無くされる者も出たが、然し、残った人々の手に依り発展を見た結果、現在の一大茶園が成立した。
該銅像は、中條の死後、建立されたもので、大井川を背に大茶園を見下ろしたものである。
牧之原大茶園 中條金之助影昭銅像(まきのはら だいさえん ちゅうじょう きんのすけ かげあき どうぞう)
島田市谷口上4846−37
東海道本線島田駅南口 徒歩1時間
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投稿日:2014/11/07