回向院
寺・神社・教会
3.62
回向院 クチコミ・アクセス・周辺情報
両国 観光 満足度ランキング 3位
振袖火事と称した江戸の大火で死んだ人を弔うため建てた。以来無縁仏や無縁犬猫を供養する。
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
赤穂義士は休息のため入るのを拒絶されましたが、誰でも分け隔てなく埋葬してくれる無縁寺です。
4.0
- 旅行時期 2023/12
- by Lily-junjunさん
「両国回向院」は、墨田区両国2丁目にあります。「両国回向院」へのアクセスは、JR総武本線「両国駅」の西口を出て、左方向に進... 続きを読むむと140m先に「国道14号」(京葉道路)があります。横断歩道を渡るとすぐ目の前に「両国回向院」の朱色の「山門」があります。その「山門」の両脇には、「回向院」を守るように二体の仁王像が安置されています。 「回向院」は、今からおよそ360年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、「諸総山無縁寺回向院」と呼ばれています。そして、「回向院」の理念は、「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」で、江戸時代から変わることなく引き継がれています。なぜ、それは何故かと言うと、「回向院」が開かれた明暦3年(1657年)に、江戸では、「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。そのようなことから無縁寺とも呼ばれている訳です。江戸は火事が多い街で、人口の増加による家屋の密集、冬場に吹く「からっ風」がその要因に挙げられます。その中でも明暦の大火は「振袖火事」でその名が知られています。そして、当時の将軍「徳川家綱」は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸にある現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが「回向院」の歴史の始まりです。 では、「回向院」の「山門」を潜ります。「回向院」の「正門」は、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです。「正門」の「扁額」と「寺号碑」に注目してください。扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。 次が、「力塚の碑」が参道を進むと右手にあります。「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。 更に進むと「塩地蔵」があります。「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。 次に、「鳥居清長顕彰碑」です平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。「鳥居清長」は、江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。 更に進むと「鼠小僧次郎吉の墓」です。「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。その他の見どころである、「水子塚」、「千体地蔵尊」、「馬頭観世音菩薩像」、「オットセイ供養塔」、「猫塚」など多数ありますので、下記に取りまとめてありますから、ご覧いただければ幸いです。 01_【一口メモ】 ⑴ 所在地…〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8-10 電話:03-3634-7776 ⑵ 回向院の概要 ①山号…諸宗山 ②院号…回向院 ③寺号…無縁寺 ④宗派…浄土宗 02_【アクセス】 1 電車を利用して ⑴ JR総武本線「両国駅」西口から徒歩4分290m ⑵ 都営地下鉄大江戸線「両国駅」A5番出口から徒歩10分700m 03_【「両国回向院」の見どころ】 ⑴ 「本尊阿弥陀如来」 「回向院」の御ご本尊は、宝永2年(1705年)に安置された銅の「阿弥陀如来座像」です。かつては、野外に置かれ、濡仏さまと呼ばれていました。「阿弥陀如来座像」は、「釜屋六右衛門」の作によるもので、現在は、東京都の有形文化財にも指定されています。「阿弥陀如来座像」は、身の丈六尺五寸五部、蓮座三尺四寸五分もある大きな銅作りの坐像で、数多くの無縁仏を見守ってきたその眼差しは慈愛に満ち溢れています。 ⑵ 「水子塚」 「回向院」の「水子塚」は、寛政5年(1793年)に老中「松平定信」の命によって造立されたもので、「水子供養の発祥」とされています。ちなみに、「水子塚」とは、陽の目をみずに葬られた水子の霊を供養するためものです。「水子塚」の板石には、地蔵菩薩坐像と他では見られないような「水子塚」という大きな文字が刻まれていました。 ⑶ 「塩地蔵」 劣化が激しく「塩地蔵」の建立年は不詳ですが、「塩地蔵」は、右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。「東都歳時記」所載の江戸東方48ヶ所地蔵尊参りには、その42番目として数えられています。現在、私の知る限りでは、「西新井大師」、「浄土宗常光山源覚寺(こんにゃく閻魔)」など都内10社寺で確認していますが、かつては48ヶ所にあったのですね。 ⑷ 「千体地蔵尊」 「千体地蔵尊」は、ご本尊の背面にあり、ご先祖の供養や家運や社運の隆昌・繁栄を祈願する人々によって奉安されたものです。関東大震災により焼失してしまった尊像で「増上寺」の「黒本尊」と同木といわれ、「恵心僧都」の作と伝えられた「備中千体阿弥陀如来像」をその由縁としております。後光のようにご本尊を守護するさまは必見です。 ⑸ 「力塚の碑と回向院相撲」 「力塚の碑」は、昭和11年(1936年)に大日本相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊のために建立したもので、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑となっています。ちなみに、日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集め(寺社建立の資金となる浄財を集めるなど)のための「勧進相撲」興行の形態をとっていました。貞享元年(1684年)、江戸での「勧進相撲」が許可されると相撲はさらに盛んになりました。その後、「勧進相撲」が「回向院」境内で初めて行われたのは明和5年(1768年)で、天保4年(1833年)以降は春秋2回の興行の定場所として江戸での「勧進相撲」を独占しました。そして、明治42年(1909年)の旧両国国技館が完成するまでの76年の間、「回向院相撲の時代」が続きました。「回向院」が定場所となり、回向院で行うことが定例となり、この「回向院」の定場所が今に続く、両国国技館の前身ということですね。そして、「力塚」の敷地内には、「角力記」、「東京相撲記者碑」という相撲の発展に寄与した相撲記者の慰霊碑も建てられています。 ⑹ 「馬頭観世音菩薩像」 「馬頭観音堂」は第4代将軍「徳川家綱」の愛馬の供養として創祀されました。また、「回向院」は動物供養でも知られ、犬、猫、オットセイ、小鳥などの塚や碑もあります。供養のために建てられた「馬頭観音堂」は、回向院二世信誉貞存上人が建立し、自らが鑿をとって彫刻した「馬頭観世音菩薩像」を安置しました。「馬頭観世音菩薩像」は、享保年間頃から「江戸三十三観音」でした。「回向院」の「馬頭観世音菩薩」に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな観音様として、人々の厚い信仰を集めたそうです。現在も昭和新撰「江戸三十三所観音参り」での第四番札所となっています。 ⑺ 「一言観音像」 「一言観音」は、奈良の「唐招提寺」の像と同じ木で彫られたもので「恵心僧都源信」作と伝えられています。 元禄16年(1703年)10月に回向院四世「観誉上人」の夢枕にこの観音様が現れ、他所へ遷すように告げられたため、「観誉上人」はこの聖観音像を墓所へ遷したところ、ちょうどその年11月に大地震及び火災により、寺院は倒壊・類焼してしまいました。この移転により聖観音像が倒壊を免れたことが知れ渡り信仰を集めるようになるとともに、その御前で一言願をかけると願い事が叶うと慕われ、いつしか一言観音と呼ばれるようになりました。 ⑻ 「鼠小僧次郎吉の墓」 「ねずみ小僧」は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗んで町民に配ったと伝えられている時代劇でよく見た義賊です。計90回の盗みの後、ようやく御用になり処刑されてしまいましたが、長年捕縛されなかった運にあやかって墓石を削りお守りとする風習が江戸時代からありました。現在では、特に、合格祈願に来る受験生に人気で、墓石の前に削り取り用の石の「お前立ち」が置かれています。 ⑼ 「関東大震災供養塔」 東京が一朝にして焼土と化した大正12年(1923年)の関東大震災において、当時の住職であった第21世「浄厳師」は、役僧を引き連れ焼野原を歩き、亡骸を見つけては巡回回向し、また被服廠跡や隅田堤で日夜読経念仏したと伝えられます。大正14年(1925年)に東京市は遺族に対して遺骨の引き取り方を公告しました。各区にわたる死者は分骨して「回向院」にも納骨されました。 ⑽ 「正門」 「回向院」は一般的な表記ですが、「正門」の扁額には古字を用い「囘向院」、そして、「正門」前の「寺号碑」には俗字を用いて「囬向院」と表記されています。令和元年(2019年)に、「正門」に「仁王像」が安置されました。「回向院」の「正門」は、かつては、現在の「両国2-8-10」あたりの位置にありました。残念ながら「回向院」の伽藍は東京大空襲で焼失しましたが、戦後、再建され、「正門」は現在の京葉道路沿い国技館通りに正対する位置に移されました。かつての「回向院正門」は、江戸城側から両国橋を越えると真正面にあり、橋上からその姿をはっきりと見ることができたそうです ⑾ 「鳥居清長顕彰碑」 「鳥居清長」は、鳥居派四代目として八頭身の美人画を確立したことで知られる浮世絵師です。江戸の六大浮世絵師の一人でもあります。江戸の六大浮世絵師とは、「鈴木春信」、「鳥居清長」、「喜多川歌麿」、「東洲斎写楽」、「葛飾北斎」、「歌川広重」ら六人です。「鳥居清長」の墓碑は以前から「回向院」にあったとされていましたが、「関東大震災」や「東京大空襲」により所在不明となっていましたが、近年の調査で過去帳に名が記されていることが発見され、平成25年(2013年)に「鳥居清長顕彰碑」が建立されました。石碑正面には、「鳥居清長」の「大川端夕涼み」に登場する女性が描かれたブロンズプレートが取り付けられています。 ⑿ 「オットセイ供養塔」 「オットセイ供養塔」は、大正15年(1938年)に建てられたオットセイのための供養塔です。漢字で書くと非常に難しく、「膃肭臍」と書いてオットセイと読みます。大正時代に「回向院」のなかにあった見世物小屋にいたオットセイを供養するために建てられたものです。これだけでも「回向院」の栄華が分かりますね。 ⒀ 「猫塚」 「歌川国芳」は、大の猫好きで知られる江戸後期の浮世絵師です。常に数匹、多い時には十数匹の猫を飼い、猫の戒名の書かれた位牌で飾られた猫用の仏壇を自宅に設けていたそうです。「歌川国芳」が生きていた時代にはすでに「回向院」の猫塚は存在し、「歌川国芳」は何匹もの愛猫の供養をお願いしていたそうです。「猫塚」が回向院に築かれることになったきっかけは、次の様な逸話からです。猫を大変かわいがっていた魚屋が、病気で商売ができなくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が、どこからともなく二両のお金をくわえてき、魚屋を助けます。ある日、猫は姿を消し戻ってきません。ある商家で、二両くわえて逃げようとしたところを見つかり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋とともにその遺体を回向院に葬りました。このようなことにより「回向院」の猫塚が築かれたそうです。 閉じる
クチコミ・評判 21ページ目
401~420件(全462件中)
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そもそもの回向院のはじまりの供養塔
- 3.0
- 旅行時期:2014/04(約12年前)
- 0
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昔からペット供養ってあったのか・・・
- 3.0
- 旅行時期:2014/04(約12年前)
- 0
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両国らしい供養塚
- 3.0
- 旅行時期:2014/04(約12年前)
- 0
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石を削って持ち歩くといいことがあるようで
- 3.0
- 旅行時期:2014/04(約12年前)
- 0
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明暦の大火で亡くなった江戸町民のための寺
- 3.0
- 旅行時期:2014/04(約12年前)
- 0
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回向院にあるのが「加藤千蔭墓」~両国~
- 4.0
- 旅行時期:2014/03(約12年前)
- 0
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相撲はここから
- 3.5
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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様々な海難事故の碑が集まっています
- 3.5
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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鼠の墓の隣にある江戸の頃からの猫の墓
- 3.5
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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外国人向けの英語の解説も添えられています
- 3.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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回向院に残る江戸時代の国学者の墓
- 3.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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たくさんの方が眠っています
- 4.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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弟・京山の隣に立つ江戸時代の戯作者の墓跡
- 3.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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回向院に残る江戸の戯作者の墓跡
- 3.0
- 旅行時期:2014/02(約12年前)
- 0
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昭和新選江戸三十三観音霊場第4番札所
- 3.0
- 旅行時期:2014/01(約12年前)
- 0
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振袖火事を偲ぶ
- 4.5
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 0
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明暦の大火による犠牲者を弔うために回向院に造られた供養塔ですが、この火災の原因については諸説あります。
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路... 続きを読む病死者・処刑者その他の横死者に対する供養のために回向院に造られたものです。この火災の犠牲者は10万人以上といわれています。火災の原因は良くわかっていませんが、次の3つが伝えられています。
第1にこの火災が「振袖火災」とも呼ばれ以下のような伝承があります。
ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。そして、恋の病に臥せったまま17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、その振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように7歳で亡くなった。
イクの葬儀に至って三家は相談し、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという説。
第2は、幕府放火説で、幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したとする説
第3が、本妙寺火元引受説で、実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたという説です。
閉じる投稿日:2013/12/23
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一番大きな力塚を中心に、5基の石碑があります。
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
石碑群は、回向院の参道左側の玉垣のなかにあって、最も大きい「力塚」と刻まれた石碑を中心に5基が立てられています。内容は次の... 続きを読む通りです。
(1)角力記=相撲記者慰霊のために建てられた碑
(2)法界万霊塔=初代梅ヶ谷が建立した碑
(3)力塚=歴代相撲・年寄慰霊のために建てられた碑
(4)回向院相撲記=江戸時代からの相撲の歴史を刻んだ石碑
(5)東京相撲記者碑=角力記の続きを記した石碑
墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768年)9月の回向院における初の興行に始まります。
のちに、回向院境内は天保4年(1833年)から定場所となり、明治42年(1909年)に国技館が境内北側に竣工するまで興行が行われました。 閉じる投稿日:2013/12/18
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長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が盛んです。
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
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赤穂浪士は引き揚げにあたって、回向院を休息のために借りようとしましたが、門番に開門させなかったことでも有名です。
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
- 1
回向院は、明暦3年(1657年)のいわゆる「振袖火事」といわれる江戸の大火の死者を弔うために建てられたお寺で、その後火事や... 続きを読む水死した無縁仏を供養されてきました。
江戸時代、お相撲はこの「回向院」で行われていました。
境内には、お相撲さんをまつる「力塚」があります。
有名なのが「鼠小僧次郎吉」のお墓です。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたたないようです。
現在は、削り取り用の、別の石が置かれたいます。
赤穂浪士は引き揚げにあたって、回向院を休息のために借りようとしましたが、住職はかかわりあいになるのを恐れて、門番の開門させなかったことでも有名です。 閉じる投稿日:2013/12/17
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