2017/08/15 - 2017/08/15
3927位(同エリア13009件中)
dimeizaさん
- dimeizaさんTOP
- 旅行記20冊
- クチコミ6件
- Q&A回答0件
- 41,397アクセス
- フォロワー1人
2017年8月に行ってきた、主に史跡巡りをテーマにした旅行記です。
出雲(島根)、備中、備前(岡山)、安芸(広島)、周防(山口)と回ってきました。
足立美術館→(出雲大社)→松江城→備中松山城→(頼久寺)→後楽園→岡山城→(閑谷学校)→原爆ドーム→広島城→(縮景園)→宮島→錦帯橋→岩国城。
以前から行きたかった中国地方の史跡をピックアップしたのですが、旅の途中で行きたいところ(括弧で括った場所)が増えてしまい、とても忙しい旅でした。
前回同様、記憶から記録に起こすことで、改めて旅を追体験し、思い出にしておこうかと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
さて3日目。
実は昨日、夜の後楽園に行く前に、3日目の予定を考えていました。
予定では3日目に後楽園を観光する予定だったのです。ところが2日目にこれでもかと言うほど後楽園を観光してしまった、と。
この時間、何かに使えないか? と、またしても欲が出てきてしまいましてね。岡山付近で何か観るべき所はなかっただろうかと、調べていました。ホテルグランヴィア岡山 宿・ホテル
-
で、朝イチでチェックアウトして、ホテルに一旦荷物を預けた後、電車に揺られて40分、私はこんな駅にいました。
吉永駅 駅
-
さらに、吉永駅からバスに揺られて20分。私はこんな所にいました。
バスは市営のバスなんですが、バスというよりマイクロバスです。一応ここに向かうことが主目的のバスなんですが、どちらかと言うと地元のお年寄りが病院に通うために使われている、そんな印象でしたね。
実際、ここで降りたのは私一人でした。 -
2分ほど歩くと見えてきました。ここに行ってみようかな、と思ったのです。
私もはじめは読めなかったんですが『閑谷(しずたに)学校』です。 -
進んで行くと、この閑谷学校で学んだ知識人たちのリストが。
-
この右半分辺りから、閑谷学校教授役とか、学校運営側に関わった人々です。
-
この辺は創設、運営側ですね。
-
というわけで、特別史跡、旧閑谷学校です。
閑谷学校は、昨日見た後楽園を造園した池田綱政の父、池田光政の手によって作られた学校です。
現存する世界最古の公立庶民学校。創建当時の姿をほぼ残しており、国宝の講堂をはじめ、建物のほとんどが重要文化財です。 -
しばらく歩いていくと橋の向こうに門が。
ただ、この門からは入れません。入り口は右手に折れてしばらく進んだ先にあります。 -
ここですね。ここで入場料を払って中に入ります。
-
門をくぐった所で1枚。
-
右手を見ると、石段の向こうに何やら門が見えます。
-
まずは入り口から壁に沿って歩くことにしました。
すると、先程表からは入れなかった門が。 -
これが閑谷学校の校門だそうです。
聖廟の正面に位置し…聖廟?
ということは誰かの墓があるってことですね。誰だろうか…? -
校門を離れて歩いていくと、大きな建物が近づいてきました。
これが国宝の講堂ですね。 -
講堂には小さな建物が付随しています。
小斎。藩主の御成の間らしいですね。
閑谷学校完成後、創設者の池田光政始め、藩主は学生の学習ぶりを見に来ていたのだそうです。 -
正門の向かいにもう一つの門が。
これは公門というらしいです。いわゆる御成門で、藩主がここに来る時に使った門だとか。 -
講堂には何と上がることができて、外周の廊下を歩いて回ることができます。
-
講堂の中はこんな感じ。観光者は外周の廊下を歩けるだけで、内部には入れません。
-
趣のある廊下。
-
講堂は渡り廊下経由で別の建物とつながっています。
-
外から見るとここにつながっています。
手前の建物が習芸斎。奥が飲室。
習芸斎は教室で、農民も立ち入ることができたのだとか。
飲室は休憩室です。教師と生徒が文字通りお茶を飲んでいた部屋。 -
飲室の向かいには、飲室門、という別の門があります。どうもここが生徒の通用口だったみたいですね。
-
習芸斎の中。講堂経由か、あるいは直接玄関から靴を脱いで入ることができます。
-
ここが飲室の中です。囲炉裏っぽいのがありますね。
-
飲室から講堂に向けて。
講堂、教室、休憩室と、連続した一つの建物として学校を構成していた、というわけです。 -
飲室から出て右手に向かうと、文庫が。
書籍を収めた書庫で、八千冊が蔵されていたとか。 -
文庫の近くには石垣で覆われた山があって、これを火除山というそうです。道が続いているので先に進んでみます。
-
道を真っ直ぐ進むと資料館があります。左手の石塀に沿って進みますが、なんとこの石塀も重要文化財。
-
道の先には資料館があります。
この資料館は明治に建てられたもので、かつての学房(生徒の寄宿舎)跡に建てられたそうです。一応登録有形文化財。
ここで閑谷学校と、創立者の池田光政について色々と学びました。
池田光政は江戸中期の三名君(保科正之、徳川光圀、池田光政)の一人として有名です。池田輝政の孫で、幼いころ家康に謁見したこともあったそうです。
池田本家を相続して姫路を継承したものの、幼少を理由に鳥取に転封、その後岡山に入ったとか。
幼くして大封を継承したので、どのように治めればよいか日々悩んでいた所、儒学を知ることで治世の方途を知り、夜眠れるようになった、なんていう逸話があり、若い頃から好学の大名だったようです。
儒学については、江戸初期から中期にかけて、幕府が統治のため朱子学を推奨していました。その辺を忖度したのかな、と思っていたら、光政は朱子学(主知主義、身分秩序中心)ではなく、あえて対立する陽明学(知行合一、実践変革中心)を選択したそうで、このあたりから私は光政の確固たる主体性を感じました。
閑谷学校の存続については光政は非常に気を配ったそうで、岡山藩の財政逼迫時、息子から一時停止を打診されても断じて存続するように言ったとか。
光政は学校の存続を遺言して亡くなったのですが、これを受けた津田永忠という家臣がまた賢くて。
彼は周辺の田畑を岡山藩ではなく学校の所有として、学校が独自に運営できるように取り計らったそうです。これは単に学校が独立した、というだけではなく、転封や改易等、岡山藩に何かあっても学校が閉校されずに存続し続けることを担保するための施策でした。
その後も学校は幾度か衰微しつつも、都度復旧し、維新後も閑谷精舎、閑谷黌、私立閑谷中学校と名を変えながらも、学問の灯を灯し続けていたのだそうです。 -
資料館を見た後、一旦講堂まで戻り、高台にある建物の方へ歩いていきます。
-
すると何やら階段が。
-
上がりきるとこんな門が。
これが先程出てきた聖廟です。
この学校が儒学を中心として教えてきた学校であることを考え合わせて、この聖廟が誰のものか、ようやくわかりました。これは孔子廟です。
残念ながらこのときは工事中で入ることができませんでした。毎年10月には釈菜という行事があって、中の孔子像を観ることができるのだとか。 -
聖廟から階下を見下ろすと、まっすぐ校門に道が伸びていて、この閑谷学校はまさに孔子廟を中心として作られた、儒学中心の教育機関であることを印象づけられます。
-
ちなみに高台にはもう一つ建物があって。
これは閑谷神社です。 -
中にはこんなお堂が。
閑谷学校の創設者、池田光政を祀っているそうです。 -
このあたりから雨がぱらついてきましてね。
ところが周囲は観光客も少なく、雨音以外静謐を破るものはなく、山野に囲まれたこの閑谷学校はとても静かでした。
なるほど、確かにここであれば世俗の喧騒から距離を置いて学問に集中できるというもの。今日でいうなら郊外にキャンパスを置いている大学と同じ意味合いで、光政はここを選んだんだろうなぁと。分かっていらっしゃる。
…と思っていたら、講堂から何か声が聞こえてきました。 -
何と、講堂内で論語の授業をしているとか。
往時の閑谷学校の再現というわけです。 -
『子曰わく(のたまわく)』『子曰わく』
『義を見てせざるは勇なきなり』『義を見てせざるは勇なきなり』
と、復唱しながら論語の内容を講釈しているようでした。 -
折しも外は雨。
私は広場側の廊下に座り、雨音とともにしばらくその講釈を聞いていました。
人がどう生きるべきか、という規範をどこに求めるか。
西洋であればキリスト教という宗教だったりするわけですが、中国や日本では、大きな共通の形式知として儒学を使ったのだろうなぁと。
日本にも神道や仏教といった宗教はあったわけですが、西のキリスト教が教条から庶民の行動指針へと落とし込むことに成功したのに対して、東の我が国では、宗教は高尚な教えとして庶民の行動指針とならず、一部宗教人だけのものになってしまったのかもしれません。
宗派の対立という宗教間問題もあり、広い階層において共通の道徳として用いることができたのは、結局儒学だけだったのかな、と。
幕府の意向や藩主の好学が大きな影響を与えているとは言え、江戸期の学校において儒学中心の教育が盛んに行われたのは、そういう流れの中だったからかもしれない、なんてことを考えていました。 -
さて、時間もあるのでそろそろお暇しなければ。
閑谷学校を出た後、最後に隣りにある史跡へ。 -
椿山、という場所があって。
池田光政が亡くなった後、彼の髪や爪が収められた後、椿が植えられた場所なのだそうです。ここもまた彼の廟であると。 -
折しも季節は夏。椿は望むべくもありませんが、奥へと進みます。
-
奥へ進むと、こんな塚山がありました。
なるほど。これはそう呼んでいませんが墳墓と言えるでしょうね。
池田光政は死してなお、閑谷学校とともにある、ということです。 -
バス停への帰り道、こんな建物を見かけました。
これは岡山県の青少年教育センターの"閑谷学校"です。
閑谷学校は今なお、人々の教育という使命を持ち続け、学問の灯を絶やさずにいる、と。なるほど。
私も色々学ばせてもらいました。 -
閑谷学校を後にした私は岡山駅まで戻り、新幹線を捕まえて、一路広島へ。
広島駅 (JR) 駅
-
路面電車に乗って。車掌さんが忙しそうでしたね。
原爆ドーム前停留場 駅
-
下りた先は。
原爆ドーム 名所・史跡
-
不思議な巡り合わせでした。
この日(8/15)、ここ(原爆ドーム)にいる、ということを、不覚にも旅程立案時に意識していなかったのです。3日目に広島観光しよう、程度にしか思っていませんでした。
まさか終戦記念日に訪問することになろうとは。原爆ドーム 名所・史跡
-
世界遺産、原爆ドームです。
原爆ドーム 名所・史跡
-
産業奨励館の残骸だったんですね。
原爆ドーム 名所・史跡
-
よく見ると昨年保存工事してますね。
オバマ大統領の訪問と関わりがあるのかもしれません。原爆ドーム 名所・史跡
-
一周しながら目に焼き付けていきます。
原爆ドーム 名所・史跡
-
この辺りは損壊がひどいですね。こっちが爆心側ってことかしら。
原爆ドーム 名所・史跡
-
何というか、ここだけ戦争時から時間が止まっているかのようでした。
この場所以外の広島の全ては、戦後から復興を遂げて、もはや戦争の面影のかけらすら見受けられません。
であればこその原爆ドームの価値なのだな、と。
世界中から多くの人が来ているようで、外国人観光客のほうが多かったです。唯一の被爆国として、少しでも思いを共にしてもらえれば、と思いました。原爆ドーム 名所・史跡
-
一応、平和記念公園は名勝、資料館は重要文化財なんですね。
原爆ドーム 名所・史跡
-
資料館の方へ歩いていくと、平和の灯と平和の池が。
原爆ドーム 名所・史跡
-
『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』
多くの人が手を合わせていました。原爆ドーム 名所・史跡
-
その後資料館へ。
なんでも本館は現在改修工事中らしく、展示は新館だけで行われていました。
色々と展示を見てきましたが、ただひとつ確かなのは、『核兵器は悪魔の所業である』ということでした。
放射線で殺し、熱線で痛めつけ、爆風で吹き飛ばし、黒い雨で蝕む。
この兵器は、こうした何重もの死神の鎌を持っています。ありとあらゆる手段を使って、絶対に人を殺す、という圧倒的な殺人の意思を具現化した、おそらく唯一の兵器なのではないか、と。原爆ドーム 名所・史跡
-
資料館から帰り際、往時の広島産業奨励館と原爆ドームの姿を見比べ、慄然としました。
確かに、こんな悪魔の兵器が、無辜の人々の上に降り注ぐことがあってはならないと。原爆ドーム 名所・史跡
-
戦争の爪痕の記憶を刻み込みつつ、私は原爆ドームを後にして北の方へ向かいます。まだ広島における私の旅は終わっていませんからね。
旧広島市民球場跡を抜け、ひろしま美術館のそばを抜けて北へ。
見えてきました。広島城 名所・史跡
-
史跡 広島城跡。
築城者は毛利輝元です。
毛利家は代々吉田郡山城という山城を根拠にしていましたが、毛利元就の代に中国地方全土に版図を拡大し、さらに戦国末期の世になってくると、山城の吉田郡山城では広大な版図の統治に手狭になってきます。
秀吉に臣従し、大阪城や聚楽第を目の当たりにした孫の輝元が、やがてここに城を築いた、というわけです。
一方で、広島は元就自身が重要視していたという説もあって、その意味では、元就が夢み、輝元が築いた城、といえるのかもしれません。広島城 名所・史跡
-
先ほどちらりと見えた二ノ丸表御門は復元されたものです。それもこれも全て原爆のせい。
350年間存続していたということですから、広島城ともども現在まで残っていたら少なくとも重文、あるいは国宝だったかもしれません。
今回の旅では戦災で亡失した史跡を訪れることが多く、戦災によって日本がいかに文化財を多く失ったかを印象づけられる旅でもありました。こうした文化財を喪失しないようにするためにも、戦争はダメだな、と。広島城 名所・史跡
-
門の前には橋がかかっています。
復元とは言え、なかなか雰囲気出てますね。広島城 名所・史跡
-
門をくぐると広場に出ます。
広島城 名所・史跡
-
ここは二の丸跡。馬出しの機能を持つ特異な郭と書いてありますね。
馬出しというのは入り口の外側に郭を築いた構造のことです。
この二の丸、これから向かう本丸の南に突き出したような構成になっていて、周囲を塀と堀に囲まれています。外部への出口は今通ってきた二ノ丸表御門しかありません。
二ノ丸によって本丸の南出口に橋頭堡ができ、一定の防御力が備わっているんですね。
ここは毛利輝元が関が原で負けたあと、福島正則が入城した際に増築されたとかで、表御門が西を向いていることからも、西に追われたこの城のかつての主、毛利氏の襲来に備えてのこととも言われていたりします。
そもそも二ノ丸といえば、城の中でも本丸に次ぐ中枢で、政務を執るための機関があるべき所、軍事色むき出しの施設になっている、というのも珍しいです。広島城 名所・史跡
-
なるほど立派な城壁。
広島城 名所・史跡
-
角には櫓もありますね。
広島城 名所・史跡
-
二ノ丸表御門の隣にも櫓があって、ここから櫓と城壁の内部に入ることができます。
広島城 名所・史跡
-
堀を渡って二ノ丸から本丸に入ります。
広島城 名所・史跡
-
この辺に門があったようです。
中御門跡。広島城 名所・史跡
-
本丸に入ってすぐの石垣を上がって、二ノ丸方面を見てみると。
これは面白い。本丸から二ノ丸はよく見通せます。
ところが、外周の石垣は本丸側よりずっと高く築かれていて、外からは中の様子が見えない、という造りです。なるほどなぁと。広島城 名所・史跡
-
本丸に上がっても、城外の見通しは平山城や山城ほどよくありません。
平城ですね。広島城 名所・史跡
-
本丸内を歩いていくと護国神社が。
広島城 名所・史跡
-
広島城跡の歴史はこっちに詳しいですね。
毛利輝元が築城した後、関ヶ原で毛利氏が安芸を追われると、代わって戦勝者の福島正則が乗り込んできます。彼は彼なりに広島の統治に尽力したようですが、ついに平時の名君とはなれなかったようで。
この広島城の修繕を幕府に無断で行ったことが武家諸法度違反に問われ、改易されちゃうんですよね。ただ、これって実は天災(洪水)に対する修復であって、ある意味でやむなきことだったりします。このあたりを幕府に咎め立てされる、というのは、豊臣恩顧だった大名として、幕府側とは良い関係が築けていなかったことを意味しているのかもしれません。
その後、浅野長晟が入城し、以降浅野家の統治が続き維新に至る、という流れですね。浅野長晟は浅野長政の子ですから、結局広島には豊臣恩顧の血が最後まで在しつづけた、というのは皮肉な話です。広島城 名所・史跡
-
中央の方へ歩いていくと、何やら弾があって、建物の跡らしき場所が。
広島城 名所・史跡
-
広島大本営跡でした。
日清戦争を機に、ここに大本営が置かれたことがあり、一時明治天皇も滞在したのだとか。広島城 名所・史跡
-
お、見えてきましたね。
広島城 名所・史跡
-
天守は上段から更に一段階段を上がっていきます。
広島城 名所・史跡
-
この石垣は手が入っているんですかねぇ。
広島城 名所・史跡
-
天守を正面から。
なんでも8/10から天守閣の壁の剥離、崩落に備えた安全対策中らしく、それで入り口に屋根が付けられているようです。
すでに築後60年が経過しているらしく、復元天守とは言え、維持管理は頭の痛い問題のようです。
ここも中は展示館になっていて、一方で撮影禁止箇所が多かったので、素早く最上階へ。広島城 名所・史跡
-
天守からの眺め。
広島城 名所・史跡
-
広島城 名所・史跡
-
広島城 名所・史跡
-
広島城 名所・史跡
-
周囲はマンション等の近代建築に囲まれていて、すっかり近代の眺めです。
が、城内で見た広島城の復元図を見たところだと、広島城の縄張りはこの堀を越えて相当広く、大封の中心都市を治める平城として、相当の規模があったようです。広島城 名所・史跡
-
新幹線で岡山から広島まで移動している間、お昼を食べながら広島の回るべきところを確認していたんですが、またしても回りたいところを見つけてしまいましてね。
何でも庭園があるらしいじゃないですか。しかも名勝と言われるような。
というわけで、結構時間が押しているんですが駆け足で寄ってみました。
名勝 縮景園。縮景園 公園・植物園
-
先程出てきた浅野長晟の別邸として作られた庭園だったそうです。
ここも原爆で一度壊滅していますが、復旧されたとか。縮景園 公園・植物園
-
中に入ってしばらく歩いていると井戸が。
井戸枠と石橋を江戸屋敷から持ってきたんですが。縮景園 公園・植物園
-
外周にそって歩いていくともう一つ井戸があって、これは明治天皇が行幸した際に使ったらしいです。
ちなみにその奥にある建物は広島県立美術館。
美術館の景観として庭園を楽しめるとは、なかなかいい作りです。縮景園 公園・植物園
-
美術館を左手に歩いていくと、右に真っ直ぐ伸びる砂の道が。
縮景園 公園・植物園
-
順路に沿って塚を登っていったら池に出ました。
縮景園 公園・植物園
-
池に向かって左川に降りると州浜。
縮景園 公園・植物園
-
東京とかでもそうなんですが、今日では高層ビルが借景になるんですよね、都会の庭園ってやつは。
縮景園 公園・植物園
-
塚を離れて砂の道に戻ると、調馬場跡。どうもこの砂の道自体が馬場だったみたいです。
後楽園もそうですが、馬場のある大名庭園って割とあるんですね。縮景園 公園・植物園
-
水溜。
今でこそ庭園の水は水道から取水してポンプで回していけばいいですが、当時は電気もありませんからね。よく考えると潤沢かつ流れを持つ水の確保はけっこう大変です。縮景園 公園・植物園
-
庭園の外周は川(猿股川)に面しています。
縮景園 公園・植物園
-
川から少し登っていくと、こんな家がありました。
名月亭。月を愛でる館のようです。縮景園 公園・植物園
-
こうして見ると、結構島嶼(島)が多いような気がしてきます。
縮景園 公園・植物園
-
園内に神社が据えられていました。
祺福山というそうです。
かつて藩主が稲荷を祀ったことがあったとか。縮景園 公園・植物園
-
島嶼の説明。
14個もあるんですね。たしかに多い。
鶴島、亀島は頼久寺でも出てきましたね。縮景園 公園・植物園
-
水辺の辺りを歩きますが、奥にも島があるようです。
縮景園 公園・植物園
-
ここにも水田が。
ここは藩主が五穀豊穣を祈念する場だったと。縮景園 公園・植物園
-
庭園を歩いていると、幾つもの島を橋で渡って行くことになります。
あれ、これってひょっとして、瀬戸内の島々を表現している?
と気づいた時に、なるほど、だから『縮景』園なのか、とこのときは一人納得していました。
一説には中国の西湖の光景を模したとも言われているそうです。縮景園 公園・植物園
-
松が植えられた島嶼が散在しているというこの庭園の光景、私は西湖や瀬戸内よりも、むしろ松島を想起してしまいますね。
縮景園 公園・植物園
-
岡山後楽園とは違って、水辺まで木々が迫ってきていて、水辺のそばを歩くと自動的に木陰を歩くような、そんなイメージです。
面積に比して木々の比率が大きいように思います。縮景園 公園・植物園
-
ここの水は汽水らしいです。
塩水が混じっているのは浜離宮ぐらいだと思っていました。
コイ、ボラ、スズキ、チヌが一緒にいる庭園とは珍しい。縮景園 公園・植物園
-
珍しい形の石灯籠。
楊貴妃型石灯籠というそうですが、これのどこが絶世の美女なんだ? と一瞬本気で首を傾げました。縮景園 公園・植物園
-
そろそろ広島滞在時間もなくなってきたので、最後に超然居という園内最大の島に寄ってから帰ります。
縮景園 公園・植物園
-
超然居からの眺め。
縮景園 公園・植物園
-
縮景園 公園・植物園
-
アーチ型の橋。跨虹橋(ここうきょう)というらしいです。
縮景園 公園・植物園
-
縮景園 公園・植物園
-
ここはもう少しゆっくり来たかったですね。突然行くことを決めたので仕方ないと言えば仕方ないのですが。
まぁ、広島ほどの都市であれば、また来る機会もあるでしょう。その折はもっとゆっくり散策してみたいものです。縮景園 公園・植物園
-
さて、宿にチェックイン時刻を後倒しするように連絡していたとは言え、予定外の観光で時間を使ってしまった私は急いで宮島口へ向かいます。
そう。今回安芸の宿は広島市街ではないのです。
しかし電車に飛び乗った辺りで、どうやら私の体力もかなり限界に近かったらしく、危うく荷物を忘れて降りてしまうところでした。宮島口駅 駅
-
フェリー乗り場に着いたら、フェリーから人が降船を始めていて、すぐに出発するということだったので、割と急いで飛び乗る。
宮島フェリー 乗り物
-
単なる高速船ではなくフェリーなので車も乗っかります。
宅急便の車とかが乗っかってましたね。宮島フェリー 乗り物
-
というわけで船上の人になったのですが、フェリーが出港するやいなや、あちこちに歩き回って写真を撮り始めます。
お前疲れてたんじゃないのかと。子供かと。宮島フェリー 乗り物
-
暮れなずむ瀬戸内の海を一枚。
牡蠣か何かですかね。浮いているのは。宮島フェリー 乗り物
-
ん? 何やら赤いのが見えてきましたね。
宮島フェリー 乗り物
-
宮島の大鳥居ですね。とうとう来たんだなぁ。
宮島フェリー 乗り物
-
振り返ると、宮島口ははるか遠く。
宮島フェリー 乗り物
-
雲が抱えた太陽が、気だるげに映し出す瀬戸内の海。
この光景を見ていたら、フェリーが港に到着したというアナウンスが聞こえてきました。宮島フェリー 乗り物
-
というわけで、日本三景にして世界遺産の宮島、上陸です。
宮島桟橋 乗り物
-
日が沈もうというこのタイミングで宮島に渡ったことから分かる通り、私はこの日の宿を宮島に取っていました。
ここです。宮島別荘。
現在プレオープン中ですが、近日中に正式オープンするそうです。
新しいところだということで、物珍しさで泊まってみることにしました。 -
私が泊まったのはこういうロフトの部屋です。
色々真新しくてよくできてました。この辺は口コミで書いたほうが良いですかね。
チェックインしてお風呂に浸かったら、その後小一時間ぐらい椅子の上から動けませんでした。お腹が空き始めても立ち上がれないほど気だるい。
まぁこれだけ歩けばそうなろう、と、しばらくのんびりしていました。
ところがですね。
私がチェックインする時に、宿の人からある情報を聞いてしまったのです。それを聞いた私が、またしても欲を出してしまった、と。 -
欲を出した私は、夜ご飯を食べて回復したあと、再び宿の表に出ます。
夜の宮島。観光客の立場では、この時間にわざわざフェリーで来るか、この宮島に宿を取った者しか歩くことを許されません。宮島桟橋 乗り物
-
桟橋付近から。対岸が綺麗です。
これだけで十分じゃない? と思いきや、私の目的は他にあります。宮島桟橋 乗り物
-
このタイミングで、この看板から先に行くわけです。
厳島神社 寺・神社・教会
-
なんか妙に獣臭いな、と思ったら、何食わぬ顔で歩いて行く四つ足の生き物が。鹿ですね。
厳島神社 寺・神社・教会
-
なんか全く人を恐れずに、自分たちの庭のような顔でそこらに座ってるんですよね。
厳島神社 寺・神社・教会
-
さて、見えてきました。
厳島神社 寺・神社・教会
-
これを見に来たのです。
大鳥居ライトアップ。厳島神社 寺・神社・教会
-
よく見ると、対面の厳島神社もライトアップしています。
…あれ? 何か随分近くまで降りている人がいますね。
ひょっとして、潮が引いているからあんなところまで行けたりするのか…? と思いながら、宮島の潮の満ち引きをおもむろに調べ始めます。
すると、21:10ぐらいに干潮のピークを迎えるらしく。ただ、海面は110cm程度で、鳥居まで歩けるほど潮は引かないようでした。
干潮時まで後数十分あったので、それまでしばらく辺りを散策します。厳島神社 寺・神社・教会
-
ここは厳島の社殿入り口ですね。
流石にこの時間は閉まっています。明日来ることを期して、踵を返します。厳島神社 寺・神社・教会
-
だいぶ潮が引いてきたので、この辺まで近づくことはできました。
…あ、いや、正直に言うとですね。
靴を脱いで足を濡らす覚悟があれば、この時点でも鳥居の下に行けるには行けるのです。実際覚悟を決めた方々は見ての通り行っていますからね。単に私の覚悟がなかった、というだけの話でして。
厳島神社 寺・神社・教会
-
振り返ると厳島神社はこんな感じでした。
昼間の姿とは違って、これもなかなかの美しさ。厳島神社 寺・神社・教会
-
斜めからだともう少し近づけました。
厳島神社 寺・神社・教会
-
夜だというのに子どもたちがワーキャー言いながら近づいていってましたね。
厳島神社 寺・神社・教会
-
潮が引くのを待つ間、何やら大きな声が聞こえてきたので近づいていってみると、どこかのホテルの方が宿泊客を引き連れて観光案内をしていました。
お婆ちゃんが話をしていたのですが、なかなか面白い語り口だったので、宿泊客に紛れて話を聞いていました。
厳島神社の三女神の話。
名の由来と扁額の文字。裏表で文字が違う(島側が伊都岐島、本土側が嚴嶋)そうですね。伊都岐島というのが神を斎きまつる島という意味なのだとか。その後厳島と呼ばれていたが、戦後宮島と改名されたのだとか。
平清盛と祭神。低い家柄から出た平氏には祭神がなく、かつては別の貴族と祭神を同じくしていたが、朝廷での地位を上げるにつれ自分たちの祭神が欲しくなり、厳島に寄進をしたことから厳島神社が平氏の祭神となった、ということ。その後、清盛が厳島に参詣する度に彼の階位は高まり、やがて平氏は絶頂を極めたが、この宮島でも起きている、潮の満ち干を見誤って滅んだのだ、と。厳島神社 寺・神社・教会
-
本土との関連についても話してくれました。
宮島は島自体が神の体であり、島民が死しても亡骸を宮島に埋めることは許されない。死後宮島にいられるのは四十九日までで、島民は最後、本土で眠るのだと。
宮島は広島市街から離れていたので原爆の爆風の被害は受けなかったそうですが、黒い雨は降ったのだそうです。
やがて、広島に出ていた島民の亡骸が運ばれてきたのですが、もはや体が焼け焦げていて、男女の区別すらつかぬほどだったと。そこで島民は亡骸を海に浮かべたのだそうです。うつ伏せになったら男、仰向けなら女、そうやって性別を判定した後、再び船に載せ本土に葬ったのだとか。
『宮島には墓がないから死なないんです』とお婆ちゃんは笑って話をしていましたが、この神の島にもそんなことがあったんだな、と。厳島神社 寺・神社・教会
-
大鳥居を撮影した後、明日もあるのでそろそろ宿屋に帰ろうと、商店街方面を抜けて宿に帰ることにしました。
宮島表参道商店街 (清盛通り) 市場・商店街
-
清盛通り、と書いてありました。
この地とは切っても切り離せない人物です。私が宮島を見てみたかったのも、平清盛あってのことでした。宮島表参道商店街 (清盛通り) 市場・商店街
-
なんか馬鹿でっかい杓子があったので。
宮島細工のシンボルとして昭和に制作したものを、世界遺産登録を期に展示することにしたとか。杓子で有名らしいですね、宮島は。宮島の大杓子 名所・史跡
-
いやーほんと君ら、自分の家みたいに寛いでるねー。
私も宿に帰って寛ぐわー。と言いながら、さすがに疲れた私は宿に戻って床につきました。
忙しかった旅も残り一日です。以下次号。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
広島 の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 城と神と庭を巡り歩く、中国地方5カ国の旅路
0
145