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続日本百名城の小牧山城の紹介の続きです。平成29年(2017年)4月、続日本100名城の149番に選定されました。日本百名城からの連番です。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

2017夏、続日本百名城の小牧山城(2/8):休憩所の展示パネル、杉並木、4コースの登山道

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2017/07/07 - 2017/07/07

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旅行記グループ 2017夏、尾張の続百名城巡り

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旅人のくまさん

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続日本百名城の小牧山城の紹介の続きです。平成29年(2017年)4月、続日本100名城の149番に選定されました。日本百名城からの連番です。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 小牧山の麓に『史跡公園』として整備されているエリアの光景です。地元の観光協会で入手した『小牧山』と題されたパンフレットの図面には、麓の東側一帯が、桜の名所ともなる『史跡公園』と表示されていました。(同上)

    小牧山の麓に『史跡公園』として整備されているエリアの光景です。地元の観光協会で入手した『小牧山』と題されたパンフレットの図面には、麓の東側一帯が、桜の名所ともなる『史跡公園』と表示されていました。(同上)

  • 同じく、小牧山の山麓の『史跡公園』の光景です。『小牧山』と題されたパンフレットの図面を参照しますと、山北橋に近いこの箇所は、東側に位置する『虎口(ここう)』の一つでした。(同上)

    同じく、小牧山の山麓の『史跡公園』の光景です。『小牧山』と題されたパンフレットの図面を参照しますと、山北橋に近いこの箇所は、東側に位置する『虎口(ここう)』の一つでした。(同上)

  • 休憩所に展示されていたパネルの紹介です。最初のパネルは、『史跡小牧山・帯曲輪地区発掘調査の解説」のタイトルがありました。小牧山全体が城跡で、帯曲輪は、その麓の部分と解説されていました。信長時代の小牧城では、麓を取り囲む土塁はなく、堀等で区画と防御がされていたと説明されていました。(同上)

    休憩所に展示されていたパネルの紹介です。最初のパネルは、『史跡小牧山・帯曲輪地区発掘調査の解説」のタイトルがありました。小牧山全体が城跡で、帯曲輪は、その麓の部分と解説されていました。信長時代の小牧城では、麓を取り囲む土塁はなく、堀等で区画と防御がされていたと説明されていました。(同上)

  • 『小牧山城の遺跡』と題された説明パネルです。右側に二つある図面の上側が、これまでの発掘調査で判明した、『小牧山遺跡分布図』、下側が、エリア分けした、『小牧山城概略図』でした。色分けされたエリアは、主郭地区、西側曲輪地区、大手曲輪地区、西側谷地区(曲輪群)と帯曲輪地区(細長い曲輪群)(の五つでした。信長が城を築いた1563年頃の遺跡と、家康と秀吉が争った1584年の小牧・長久手の戦いの時の複合遺跡であることなども紹介されていました。(同上)

    『小牧山城の遺跡』と題された説明パネルです。右側に二つある図面の上側が、これまでの発掘調査で判明した、『小牧山遺跡分布図』、下側が、エリア分けした、『小牧山城概略図』でした。色分けされたエリアは、主郭地区、西側曲輪地区、大手曲輪地区、西側谷地区(曲輪群)と帯曲輪地区(細長い曲輪群)(の五つでした。信長が城を築いた1563年頃の遺跡と、家康と秀吉が争った1584年の小牧・長久手の戦いの時の複合遺跡であることなども紹介されていました。(同上)

  • 次は、『小牧山城の史蹟整備』と題された説明パネルです。整備の状況などが4種のイラストと一覧表などで説明されていました。左側の一覧表は、平成8年度(1996年)から平成15年度(2003年)までの8年間の整備工事一覧でした。イラストの右上は中学校移転に伴う遺蹟整備工事、後の三つは、第1区~第三区の整備工事概要図でした。(同上)

    次は、『小牧山城の史蹟整備』と題された説明パネルです。整備の状況などが4種のイラストと一覧表などで説明されていました。左側の一覧表は、平成8年度(1996年)から平成15年度(2003年)までの8年間の整備工事一覧でした。イラストの右上は中学校移転に伴う遺蹟整備工事、後の三つは、第1区~第三区の整備工事概要図でした。(同上)

  • 『小牧城下町』のタイトルの説明パネルです。織田信長が清州から小牧山に居住を移した際、清州の商工業者も一緒に移転させ城下町造りを行ったことからの説明です。小牧山の南約1.5キロ、東西約1キロの規模とされ、南には、長さ1キロの堀と土塁とからなる惣構えを築いたことも紹介されていました。その惣構えにあった虎口二つは、小牧・長久手の戦い時に家康により改造されていたようです。江戸時代の尾張名所図会にも描かれています。(同上)

    『小牧城下町』のタイトルの説明パネルです。織田信長が清州から小牧山に居住を移した際、清州の商工業者も一緒に移転させ城下町造りを行ったことからの説明です。小牧山の南約1.5キロ、東西約1キロの規模とされ、南には、長さ1キロの堀と土塁とからなる惣構えを築いたことも紹介されていました。その惣構えにあった虎口二つは、小牧・長久手の戦い時に家康により改造されていたようです。江戸時代の尾張名所図会にも描かれています。(同上)

  • 『小牧山の歴史』のタイトルの説明パネルです。一覧表で説明されていました。古くは旧石器時代から現在の平成までの年表でした。南斜面中腹からは、旧石器が出土し、鎌倉・室町時代には、西側中腹から麓にかけて寺院があったことから始まっていました。その後の戦国時代から安土・桃山時代は、主に信長に関わる出来事、その最後に小牧・長久手の戦いがありました。江戸時代は神君・家康所縁の地として、一般人の立ち入りが禁止されていたことなどが説明されていました。(同上)

    『小牧山の歴史』のタイトルの説明パネルです。一覧表で説明されていました。古くは旧石器時代から現在の平成までの年表でした。南斜面中腹からは、旧石器が出土し、鎌倉・室町時代には、西側中腹から麓にかけて寺院があったことから始まっていました。その後の戦国時代から安土・桃山時代は、主に信長に関わる出来事、その最後に小牧・長久手の戦いがありました。江戸時代は神君・家康所縁の地として、一般人の立ち入りが禁止されていたことなどが説明されていました。(同上)

  • 最後のパネルは、『小牧山の自然』のタイトルでした。位置、標高(85.9メートル)、面積(約21ヘクタール)、地質から始まり、植生などが説明されていました。地質では、小牧山が約2億5千万年前に堆積した海底で、秩父古生層の残丘であることが紹介されていました。小牧山東部の山地や岐阜の金華山も同じ地層と紹介されていました。一番下の図面は、小牧山の職制概略図です。タブノキやコナラの範囲もかなり広範囲でした。(同上)

    最後のパネルは、『小牧山の自然』のタイトルでした。位置、標高(85.9メートル)、面積(約21ヘクタール)、地質から始まり、植生などが説明されていました。地質では、小牧山が約2億5千万年前に堆積した海底で、秩父古生層の残丘であることが紹介されていました。小牧山東部の山地や岐阜の金華山も同じ地層と紹介されていました。一番下の図面は、小牧山の職制概略図です。タブノキやコナラの範囲もかなり広範囲でした。(同上)

  • 小牧山の麓の『帯曲輪』の遺跡が残る、『遺跡公園』の光景です。小牧市教育委員会の帯曲輪発掘調査結果では、『武家屋敷は小牧山城の北麓から東麓にかけて連続して配置され、45メートル級の武家屋敷は10区画程度』と報告されていました。また、武家屋敷群の南端に75メートル四方の大きな武家屋敷跡があり、信長の居館跡ではないかと推測されています。(同上)

    小牧山の麓の『帯曲輪』の遺跡が残る、『遺跡公園』の光景です。小牧市教育委員会の帯曲輪発掘調査結果では、『武家屋敷は小牧山城の北麓から東麓にかけて連続して配置され、45メートル級の武家屋敷は10区画程度』と報告されていました。また、武家屋敷群の南端に75メートル四方の大きな武家屋敷跡があり、信長の居館跡ではないかと推測されています。(同上)

  • 小牧山の麓の木漏れ日の光景です。その中で、山麓に沿って堀址らしい地形もありました。『小牧山城の史蹟整備』の説明パネルと重ねますと、武家屋敷の土塁や堀跡のようです。信長が小牧山城を築いたのは、永禄6年(1563年)、岐阜に移るまでの僅か4年でした。信長30歳から34歳の時です。小牧山城の築城は、初めから美濃攻めの拠点とする説が有力なようです。(同上)

    小牧山の麓の木漏れ日の光景です。その中で、山麓に沿って堀址らしい地形もありました。『小牧山城の史蹟整備』の説明パネルと重ねますと、武家屋敷の土塁や堀跡のようです。信長が小牧山城を築いたのは、永禄6年(1563年)、岐阜に移るまでの僅か4年でした。信長30歳から34歳の時です。小牧山城の築城は、初めから美濃攻めの拠点とする説が有力なようです。(同上)

  • 花壇で咲いていた、『ギボウシ(擬宝珠)』の一叢です。キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属の植物の総称とされます。斑入りの葉を持ったギボウシでした。永禄10年(1566年)、信長は、美濃の稲葉山城(岐阜城)を攻め落とすと、すぐさま稲葉山のある井ノ口を『岐阜』と名前を改め、自らの居城も『岐阜城』とし、小牧城から移りました。この素早い行動が、美濃攻めの拠点説の根拠のようです。(同上)

    イチオシ

    花壇で咲いていた、『ギボウシ(擬宝珠)』の一叢です。キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属の植物の総称とされます。斑入りの葉を持ったギボウシでした。永禄10年(1566年)、信長は、美濃の稲葉山城(岐阜城)を攻め落とすと、すぐさま稲葉山のある井ノ口を『岐阜』と名前を改め、自らの居城も『岐阜城』とし、小牧城から移りました。この素早い行動が、美濃攻めの拠点説の根拠のようです。(同上)

  • 広い通りの両脇がケヤキ並木になっていました。タブノキやコナラは自生の樹木ですが、桜やケヤキなどは跡から植栽されたものです。この辺りも、信長時代の武家屋敷跡の一部のようでした。信長は、20代の時の永禄3年(1560年)、桶狭間で今川義元を破るまで、父の信秀と同じように、どちらかといえば東方面を重視していたようです。(同上)

    広い通りの両脇がケヤキ並木になっていました。タブノキやコナラは自生の樹木ですが、桜やケヤキなどは跡から植栽されたものです。この辺りも、信長時代の武家屋敷跡の一部のようでした。信長は、20代の時の永禄3年(1560年)、桶狭間で今川義元を破るまで、父の信秀と同じように、どちらかといえば東方面を重視していたようです。(同上)

  • 桶狭間での勝利の後に、信長が目を向けたのは東ではなく、西の美濃でした。その先には、関ヶ原を通過すれば京の都へと展望が開けます。後ほど紹介しますが、小牧山城の天守からは、岐阜城がある金華山も、関ヶ原方面の見晴らしも利きます。(同上)

    桶狭間での勝利の後に、信長が目を向けたのは東ではなく、西の美濃でした。その先には、関ヶ原を通過すれば京の都へと展望が開けます。後ほど紹介しますが、小牧山城の天守からは、岐阜城がある金華山も、関ヶ原方面の見晴らしも利きます。(同上)

  • ケヤキ並木から、いつの間にか新緑の桜並木に代わったようです。信長の正室は、斉藤道三の娘の濃姫でした。(同上)

    ケヤキ並木から、いつの間にか新緑の桜並木に代わったようです。信長の正室は、斉藤道三の娘の濃姫でした。(同上)

  • 各方面への道案内標識があった場所です。左に見える階段を上るコースは、小牧山東自然歩道、右側方面が、杉並木経由歴史館コースで、ここから650メートルです。このコースを選びました。(同上)

    各方面への道案内標識があった場所です。左に見える階段を上るコースは、小牧山東自然歩道、右側方面が、杉並木経由歴史館コースで、ここから650メートルです。このコースを選びました。(同上)

  • 小牧山上の、まだ麓に近い場所の光景です。樹木などが整備されて、自然公園のような光景でした。(同上)

    小牧山上の、まだ麓に近い場所の光景です。樹木などが整備されて、自然公園のような光景でした。(同上)

  • 『小牧山ガイド』のタイトルがあった平面図の光景です。現在地が、図面の下側中央の杉並木の入口辺りに記されています。北方向が下側になる地図ですから、小牧山の北麓になります。(同上)

    イチオシ

    『小牧山ガイド』のタイトルがあった平面図の光景です。現在地が、図面の下側中央の杉並木の入口辺りに記されています。北方向が下側になる地図ですから、小牧山の北麓になります。(同上)

  • 杉並木の入口付近から振り返って眺めた三叉路方面の光景です。細長い曲輪が山全体を取り囲んでいますが、北から東は幅が広く、西では幅が狭く、小牧・長久手の合戦の際、家康が城を改修し、北から東にかけて多人数の軍勢を収容した跡と想定されています。(同上)

    杉並木の入口付近から振り返って眺めた三叉路方面の光景です。細長い曲輪が山全体を取り囲んでいますが、北から東は幅が広く、西では幅が狭く、小牧・長久手の合戦の際、家康が城を改修し、北から東にかけて多人数の軍勢を収容した跡と想定されています。(同上)

  • 『小牧山杉並木』の文字が刻まれた、おにぎり型の石標の光景です。目立たない場所に隠れていました。(同上)

    『小牧山杉並木』の文字が刻まれた、おにぎり型の石標の光景です。目立たない場所に隠れていました。(同上)

  • 僅かだけの人影でしたが、小牧山城の天守を目指して登る人達を見かけました。あまり接近しないよう、ゆっくりと登りました。出来るだけ追い越さないようにしましたが、道の端に寄って休憩中の人達だけを追い越しました。(同上)

    僅かだけの人影でしたが、小牧山城の天守を目指して登る人達を見かけました。あまり接近しないよう、ゆっくりと登りました。出来るだけ追い越さないようにしましたが、道の端に寄って休憩中の人達だけを追い越しました。(同上)

  • 三叉路の中央にあった案内標識です。右方向が下り、左方向が上りになります。迷わず、左方向に向かいました。(同上)

    三叉路の中央にあった案内標識です。右方向が下り、左方向が上りになります。迷わず、左方向に向かいました。(同上)

  • 緩やかな登り坂コースは、途中、下り坂になった部分もありました。この辺りでは、心地よい新緑の木漏れ日の散策路になっていました。(同上)

    緩やかな登り坂コースは、途中、下り坂になった部分もありました。この辺りでは、心地よい新緑の木漏れ日の散策路になっていました。(同上)

  • 『小牧山杉並木』の標識があった登り道を振り返って眺めた光景です。下枝がなく、まっすぐ伸びた樹木が杉木立のようでした。搦手口からの登り坂になります。(同上)

    『小牧山杉並木』の標識があった登り道を振り返って眺めた光景です。下枝がなく、まっすぐ伸びた樹木が杉木立のようでした。搦手口からの登り坂になります。(同上)

  • 『市の木・タブの木」の説明パネルです。下のパネルには、『関東以南の海岸線に群生するが、当地区ではこの小牧山だけに自生する』ことが説明されていました。昭和47年(1972年)、公募で『市の木』になったことも紹介されていました。(同上)

    『市の木・タブの木」の説明パネルです。下のパネルには、『関東以南の海岸線に群生するが、当地区ではこの小牧山だけに自生する』ことが説明されていました。昭和47年(1972年)、公募で『市の木』になったことも紹介されていました。(同上)

  • 竹垣で囲われた『タブノキ』の光景です。もう一つの説明パネルは、『タブの木』と題された、NPO法人の『尾張小牧歴史文化振興会』によるものでした。タブの木の説明のほか、『小牧』の名前の由来が、馬の集積地であったための『駒来』、古くは海が入り込み、帆を巻く目印であった『帆巻』説も紹介されていました。『駒来』の表記については、小牧神明社のところでも紹介しておきました。(同上)

    竹垣で囲われた『タブノキ』の光景です。もう一つの説明パネルは、『タブの木』と題された、NPO法人の『尾張小牧歴史文化振興会』によるものでした。タブの木の説明のほか、『小牧』の名前の由来が、馬の集積地であったための『駒来』、古くは海が入り込み、帆を巻く目印であった『帆巻』説も紹介されていました。『駒来』の表記については、小牧神明社のところでも紹介しておきました。(同上)

  • 小牧市の『市の木』とされる、『タブノキ』の古木の上空光景です。この個体は、小牧山に自生しているタブノキの代表選手のようでした。(同上)

    イチオシ

    小牧市の『市の木』とされる、『タブノキ』の古木の上空光景です。この個体は、小牧山に自生しているタブノキの代表選手のようでした。(同上)

  • 右手の戒壇を登って150メートル先の歴史館に向かうか、緩やかな坂道を500メートル歩いて同じ場所に向かうか、選択を迫られる分岐点の標識光景です。左手の平坦コースを選択しました。

    右手の戒壇を登って150メートル先の歴史館に向かうか、緩やかな坂道を500メートル歩いて同じ場所に向かうか、選択を迫られる分岐点の標識光景です。左手の平坦コースを選択しました。

  • 周回道路のような平坦コースの光景です。この辺りでは左右から木々が生い茂り、薄暗い山道になっていました。(同上)

    周回道路のような平坦コースの光景です。この辺りでは左右から木々が生い茂り、薄暗い山道になっていました。(同上)

  • 緩やかな傾斜の周回道路から枝分かれした石段の光景です。天守へ向かっての近道のようでしたが、そのまま周回道路のような道を進みました。(同上)

    緩やかな傾斜の周回道路から枝分かれした石段の光景です。天守へ向かっての近道のようでしたが、そのまま周回道路のような道を進みました。(同上)

  • 鬱蒼とした杉並木の上空光景です。この辺りは麓方面の視界が遮られていましたが、途中、視界が開けた場所もありました。(同上)

    鬱蒼とした杉並木の上空光景です。この辺りは麓方面の視界が遮られていましたが、途中、視界が開けた場所もありました。(同上)

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