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続日本百名城の小牧山城祉紹介の締め括りです。石垣などの発掘作業が進み、信長公、家康公に所縁の小牧山城は、この後が楽しみになってきました。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

2017夏、続日本百名城の小牧山城(8/8):展示館、お城寄贈の平松氏胸像、裏込石、土塁

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2017/07/07 - 2017/07/07

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旅行記グループ 2017夏、尾張の続百名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

続日本百名城の小牧山城祉紹介の締め括りです。石垣などの発掘作業が進み、信長公、家康公に所縁の小牧山城は、この後が楽しみになってきました。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 『上御園遺跡出土遺物』のタイトルがあった説明パネルです。既に紹介しましたように、信長の小牧山城築城と同時期に造成された城下町の遺跡です。(同上)

    『上御園遺跡出土遺物』のタイトルがあった説明パネルです。既に紹介しましたように、信長の小牧山城築城と同時期に造成された城下町の遺跡です。(同上)

  • 『上御園調遺蹟出土・金属製品』のタイトルがあった展示です。先程の説明文には、出来るだけさびを落とし、また、錆の進行を止めた処理をしての展示と紹介されていました。貨幣のほか、鍛治屋町とされる場所からは、鍛冶関連の金属製品の出土が多かったようです。(同上)

    イチオシ

    『上御園調遺蹟出土・金属製品』のタイトルがあった展示です。先程の説明文には、出来るだけさびを落とし、また、錆の進行を止めた処理をしての展示と紹介されていました。貨幣のほか、鍛治屋町とされる場所からは、鍛冶関連の金属製品の出土が多かったようです。(同上)

  • 小牧市歴史館を寄贈された平勝茂氏についての紹介パネルです。同氏所縁の品も展示されています。年表の最後に、没後に小牧市名誉市民の栄誉を受けられたことが記されていました。(同上)

    小牧市歴史館を寄贈された平勝茂氏についての紹介パネルです。同氏所縁の品も展示されています。年表の最後に、没後に小牧市名誉市民の栄誉を受けられたことが記されていました。(同上)

  • 小牧市名誉市民の平松茂氏の胸像です。先ほど紹介した氏の年表では、染色技術の取得のため、複数回ドイツに留学し、日本での染色業で成功を収めた方と読み取れました。(同上)

    小牧市名誉市民の平松茂氏の胸像です。先ほど紹介した氏の年表では、染色技術の取得のため、複数回ドイツに留学し、日本での染色業で成功を収めた方と読み取れました。(同上)

  • こちらも既に紹介した、第19代尾張徳川家の当主だった徳川義親公の銅像です。戦前は侯爵に叙せられていました。(同上)

    こちらも既に紹介した、第19代尾張徳川家の当主だった徳川義親公の銅像です。戦前は侯爵に叙せられていました。(同上)

  • 『主郭の段築状石垣』のタイトルがあった説明パネルです。信長公が初めてお城を築いた時期、まだ石垣積の技術が未成熟だったことから、何段かに分けて石垣が積み上げられ、高さが確保されていたようです。(同上)

    『主郭の段築状石垣』のタイトルがあった説明パネルです。信長公が初めてお城を築いた時期、まだ石垣積の技術が未成熟だったことから、何段かに分けて石垣が積み上げられ、高さが確保されていたようです。(同上)

  • 屋外に展示された、石垣の発掘作業の際の説明パネルです。石積技術で、現代にまで名を残しているのが穴太衆(あのうしゅう)です。穴太衆の起源は、奈良時代末期の788年、最澄が比叡山延暦寺(大津市)を開いた際、急斜面の基礎工事や参道工事に動員された石工職人集団とされています。(同上)

    イチオシ

    屋外に展示された、石垣の発掘作業の際の説明パネルです。石積技術で、現代にまで名を残しているのが穴太衆(あのうしゅう)です。穴太衆の起源は、奈良時代末期の788年、最澄が比叡山延暦寺(大津市)を開いた際、急斜面の基礎工事や参道工事に動員された石工職人集団とされています。(同上)

  • 信長が穴太衆の技術に着目したのは、延暦寺の焼き討ち(1571年)の時の出来事とする説があります。再使用できないように、石垣を壊そうと思ってもなかなか壊れなかったとするエピソードです。信長の着眼は、壊れない石垣を積み上げた穴太衆に向いたとされます。安土城を築いた時の石垣は、この穴太衆を使いました。天正4年(1576年)に築城された、望楼型地上6階地下1階の天守を持つ城でした。(同上)

    信長が穴太衆の技術に着目したのは、延暦寺の焼き討ち(1571年)の時の出来事とする説があります。再使用できないように、石垣を壊そうと思ってもなかなか壊れなかったとするエピソードです。信長の着眼は、壊れない石垣を積み上げた穴太衆に向いたとされます。安土城を築いた時の石垣は、この穴太衆を使いました。天正4年(1576年)に築城された、望楼型地上6階地下1階の天守を持つ城でした。(同上)

  • 小牧山城の発掘調査現場から出土した、大量の裏込石の集積場所の光景です。あまりに大量なため、側面を石垣のように積んだ箇所や、算木積の場所もあるようです。職人さんたちの遊び心のようです。栗石ともよばれる小石と、表の大石の組合せが、地震時に遊び部分がクッションとなり、大雨時の水のはけ口ともなります。小牧山城でも大量の裏込石が使われていたことは、注目すべきことに思えます。(同上)

    小牧山城の発掘調査現場から出土した、大量の裏込石の集積場所の光景です。あまりに大量なため、側面を石垣のように積んだ箇所や、算木積の場所もあるようです。職人さんたちの遊び心のようです。栗石ともよばれる小石と、表の大石の組合せが、地震時に遊び部分がクッションとなり、大雨時の水のはけ口ともなります。小牧山城でも大量の裏込石が使われていたことは、注目すべきことに思えます。(同上)

  • 『小牧山城主郭周辺案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査で見つかった石垣部分、裏込石の仮置き場、転落石の場所などが図面に書き込まれていました。まだ全体の発掘調査は完了していないようでしたが、主郭全体を取り囲む石垣が確認されそうです。(同上)

    『小牧山城主郭周辺案内図』のタイトルがあった説明パネルの光景です。発掘調査で見つかった石垣部分、裏込石の仮置き場、転落石の場所などが図面に書き込まれていました。まだ全体の発掘調査は完了していないようでしたが、主郭全体を取り囲む石垣が確認されそうです。(同上)

  • 往きとは別の道を下りながら、小牧山全体が城郭だったとされる地形を見学しました。現在は木々がおピ茂小牧山城ですが、築城(1563年)当時は、木々は切り払われていたようです。樹木が茂った頂上に天守があれば、麓からの火責めを受ける恐れがあります。しかし、歴史的に大々的な火責めは記録されていないようです。むしろ責められた方が自裁し、自ら火を放ったケースが記録に残りました。(同上)

    往きとは別の道を下りながら、小牧山全体が城郭だったとされる地形を見学しました。現在は木々がおピ茂小牧山城ですが、築城(1563年)当時は、木々は切り払われていたようです。樹木が茂った頂上に天守があれば、麓からの火責めを受ける恐れがあります。しかし、歴史的に大々的な火責めは記録されていないようです。むしろ責められた方が自裁し、自ら火を放ったケースが記録に残りました。(同上)

  • 木漏れ日が心地よい明暗を作り出した帰り道の光景です。信長と穴太衆の話に戻ります。美濃を攻略し、僅か4年で岐阜城に引っ越した信長ですが、その麓に残る信長館には、高さはないものの、巨石を使った石積が各所に残されています。現在も発掘調査中ですが、ポルトガル人宣教師のフロイスの記録にも残った巨石の石垣です。(同上)

    木漏れ日が心地よい明暗を作り出した帰り道の光景です。信長と穴太衆の話に戻ります。美濃を攻略し、僅か4年で岐阜城に引っ越した信長ですが、その麓に残る信長館には、高さはないものの、巨石を使った石積が各所に残されています。現在も発掘調査中ですが、ポルトガル人宣教師のフロイスの記録にも残った巨石の石垣です。(同上)

  • 山中の曲輪らしい広場に出てきました、中央奥に見えるのが、主郭から降りてきた階段状の通り道です。この館に招かれたフロイスは、巨大な石垣や『劇場のごとき大きな家屋』を、『ギリシャのクレタ島に栄えた古代文明の迷宮』のようだと書き残しています。(同上)

    山中の曲輪らしい広場に出てきました、中央奥に見えるのが、主郭から降りてきた階段状の通り道です。この館に招かれたフロイスは、巨大な石垣や『劇場のごとき大きな家屋』を、『ギリシャのクレタ島に栄えた古代文明の迷宮』のようだと書き残しています。(同上)

  • 曲輪の隅にあった石碑の光景です。『六友会記念植樹』の文字が刻まれていました。ネット検索しても詳しいことは分かりませんでした。記念植樹が行われたのは、徳川家から小牧氏に小牧山が寄贈された昭和5年(1930年)以降の可能性が高いようです。あるいは、版籍奉還により国有地となった明治2年(1869年)から徳川家が再所有した、明治22年(1889年)の間だったかも知れません。(同上)

    曲輪の隅にあった石碑の光景です。『六友会記念植樹』の文字が刻まれていました。ネット検索しても詳しいことは分かりませんでした。記念植樹が行われたのは、徳川家から小牧氏に小牧山が寄贈された昭和5年(1930年)以降の可能性が高いようです。あるいは、版籍奉還により国有地となった明治2年(1869年)から徳川家が再所有した、明治22年(1889年)の間だったかも知れません。(同上)

  • 小牧山の南面の麓近くに残る、曲輪跡らしい広場の光景です。周りを鬱蒼とする木々が覆っていました。広場に枝を伸ばした樹木は、カエデ(楓)が多いようです。(同上)

    小牧山の南面の麓近くに残る、曲輪跡らしい広場の光景です。周りを鬱蒼とする木々が覆っていました。広場に枝を伸ばした樹木は、カエデ(楓)が多いようです。(同上)

  • 同じく、小牧山の南面の麓近くに残る、曲輪跡らしい広場の光景です。この後紹介する『小牧山ガイド』の案内図には、『桜の馬場』と表記されたエリアの一部のようでした。『桜は』近代の植樹、『馬場』はかつての小牧山城の名残の呼び名の組合せのようでした。(同上)

    同じく、小牧山の南面の麓近くに残る、曲輪跡らしい広場の光景です。この後紹介する『小牧山ガイド』の案内図には、『桜の馬場』と表記されたエリアの一部のようでした。『桜は』近代の植樹、『馬場』はかつての小牧山城の名残の呼び名の組合せのようでした。(同上)

  • 『小牧山の樹木」のタイトルがあった立看板の光景です。樹木が影響したのか、表面は少し緑がかっていました。常緑広葉樹、針葉樹、落葉広葉樹と植樹に分けて名前が一覧にされていました。ゴイサギ(五位鷺)の大群の生息で樹勢が衰え、大正以降には二度の台風の被害を受けたことなどが紹介されていました。大正以降の表現が気になりますが、伊勢湾台風(昭和34年)と室戸台風(昭和9年)でしょうか。(同上)

    『小牧山の樹木」のタイトルがあった立看板の光景です。樹木が影響したのか、表面は少し緑がかっていました。常緑広葉樹、針葉樹、落葉広葉樹と植樹に分けて名前が一覧にされていました。ゴイサギ(五位鷺)の大群の生息で樹勢が衰え、大正以降には二度の台風の被害を受けたことなどが紹介されていました。大正以降の表現が気になりますが、伊勢湾台風(昭和34年)と室戸台風(昭和9年)でしょうか。(同上)

  • 『小牧山が井戸』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在地が、『桜の馬場』に記されていました。便宜的に付けられた、近代の呼び名のようです。発掘調査のエリア訳では大手曲輪に含まれるようです。(同上)

    『小牧山が井戸』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在地が、『桜の馬場』に記されていました。便宜的に付けられた、近代の呼び名のようです。発掘調査のエリア訳では大手曲輪に含まれるようです。(同上)

  • 『小牧城下町』のタイトルがあった説明パネルです。南北1.3キロ、東西1キロと、城下町の広さが紹介されていました。パネルなどの説明資料では、東西の1キロは統一されていましたが、南北については、この1.3キロのほか、1.4キロと1.5キロの記述もありました。その他には、2箇所での発掘調査のことが紹介されていました。(同上)

    『小牧城下町』のタイトルがあった説明パネルです。南北1.3キロ、東西1キロと、城下町の広さが紹介されていました。パネルなどの説明資料では、東西の1キロは統一されていましたが、南北については、この1.3キロのほか、1.4キロと1.5キロの記述もありました。その他には、2箇所での発掘調査のことが紹介されていました。(同上)

  • 小牧山の山麓付近から眺めた南側の光景です。小牧市役所の建物です。その手前に大規模な土塁の光景がありました。小牧・長久手の戦い時に家康が改築した二重の土塁と堀の一部かも知れません。『堤防のような姿の土塁』といった表現もあるようです。(同上)

    小牧山の山麓付近から眺めた南側の光景です。小牧市役所の建物です。その手前に大規模な土塁の光景がありました。小牧・長久手の戦い時に家康が改築した二重の土塁と堀の一部かも知れません。『堤防のような姿の土塁』といった表現もあるようです。(同上)

  • 同じく、『堤防のような姿の土塁』の内側から眺めた、南側の市街光景です。先程の写真よりは、東寄りの光景になります。『堤防のような姿の土塁』の表現は、その規模と、外側が急峻で、内側が緩やかな形状にあるようです。(同上)

    イチオシ

    同じく、『堤防のような姿の土塁』の内側から眺めた、南側の市街光景です。先程の写真よりは、東寄りの光景になります。『堤防のような姿の土塁』の表現は、その規模と、外側が急峻で、内側が緩やかな形状にあるようです。(同上)

  • 後ろの文字が隠れてしまいましたが、『史蹟・小牧山』の立看板です。愛知県では、特別史跡の名古屋城の1件を含目、計38件が国の史跡に指定されています。小牧山が指定されたのは、昭和2年(1927年)10月です。(同上)

    後ろの文字が隠れてしまいましたが、『史蹟・小牧山』の立看板です。愛知県では、特別史跡の名古屋城の1件を含目、計38件が国の史跡に指定されています。小牧山が指定されたのは、昭和2年(1927年)10月です。(同上)

  • 中央やや左手の案内標識には、左向きの矢印で『史跡・小牧山』の表示がありました。今見学してきた場所です。その方角には、山頂、歴史館、桜の馬場と大手道の添書きがありました。(同上)

    中央やや左手の案内標識には、左向きの矢印で『史跡・小牧山』の表示がありました。今見学してきた場所です。その方角には、山頂、歴史館、桜の馬場と大手道の添書きがありました。(同上)

  • 帯曲輪のエリアに下る、緩やかな坂道の光景です。滑り止めの亀甲文様の溝が刻まれたコンクリート道です。その脇には、シャガ、サンゴ樹、桜並木があり、下りた先には、一般道路も見えてきました。(同上)

    帯曲輪のエリアに下る、緩やかな坂道の光景です。滑り止めの亀甲文様の溝が刻まれたコンクリート道です。その脇には、シャガ、サンゴ樹、桜並木があり、下りた先には、一般道路も見えてきました。(同上)

  • 『史跡・小牧山』の説明立て看板の光景です。古い標識は『史蹟』の表記でしたが、こちらは『史跡』の文字が使われていました。旧法の文化財保護法と、新法の文化財保護法による使い分けのようです。現行の文化財保護法は、昭和25年5月30日法律第214号として制定されました。新法では国宝も重要文化財の一種とされました。(同上)

    『史跡・小牧山』の説明立て看板の光景です。古い標識は『史蹟』の表記でしたが、こちらは『史跡』の文字が使われていました。旧法の文化財保護法と、新法の文化財保護法による使い分けのようです。現行の文化財保護法は、昭和25年5月30日法律第214号として制定されました。新法では国宝も重要文化財の一種とされました。(同上)

  • 左手に見える石標には、『史蹟・小牧御山』の文字が見えました。旧法時代に建てられた石標です。昭和25年改訂の新法では、『文部(科学)大臣は、重要文化財のうち「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条)を国宝に指定することができる』と定められました。このため、旧法の多くの国宝が新法では『重要文化財』の呼び名となりました。(同上)

    左手に見える石標には、『史蹟・小牧御山』の文字が見えました。旧法時代に建てられた石標です。昭和25年改訂の新法では、『文部(科学)大臣は、重要文化財のうち「世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるもの」(文化財保護法第27条)を国宝に指定することができる』と定められました。このため、旧法の多くの国宝が新法では『重要文化財』の呼び名となりました。(同上)

  • 歩道面に設置してあった、『小牧長久手合戦の土塁』のタイトルがあったパネルの光景です。踏み付けられながらも、まだ十分に文字や図面が読み取れました。説明文を読みますと、帯曲輪の発掘調査は済んだものの、主郭部分の石垣の発掘調査に手が付けられていない時期のようでした。そろそろ書き換えた方がよさそうです。(同上)

    歩道面に設置してあった、『小牧長久手合戦の土塁』のタイトルがあったパネルの光景です。踏み付けられながらも、まだ十分に文字や図面が読み取れました。説明文を読みますと、帯曲輪の発掘調査は済んだものの、主郭部分の石垣の発掘調査に手が付けられていない時期のようでした。そろそろ書き換えた方がよさそうです。(同上)

  • 前方に見える光景は、発掘調査が済んだ、帯曲輪のエリアのようです。武家屋敷が並んだ一角の広い区画が、信長の屋敷跡と推定されていましたが、引き続いて発掘調査による検証も必要なようです。江戸時代の前に役目を終えた城跡ですから、多分、古文書による調査はこれ以上進まないかも知れません。(同上)

    前方に見える光景は、発掘調査が済んだ、帯曲輪のエリアのようです。武家屋敷が並んだ一角の広い区画が、信長の屋敷跡と推定されていましたが、引き続いて発掘調査による検証も必要なようです。江戸時代の前に役目を終えた城跡ですから、多分、古文書による調査はこれ以上進まないかも知れません。(同上)

  • 合瀬川に架かる近代橋の光景です。欄干の先に『合瀬川』の青いパネル表示が見えました。『木津用水(こっつようすい)』とも呼ばれます。合瀬川は、小牧市中部で原川を合わせ、北名古屋市では、中江川と大山川が合流します。北名古屋市と名古屋市北区の境界で、新川に注ぎ、伊勢湾に注ぎます。(同上)

    合瀬川に架かる近代橋の光景です。欄干の先に『合瀬川』の青いパネル表示が見えました。『木津用水(こっつようすい)』とも呼ばれます。合瀬川は、小牧市中部で原川を合わせ、北名古屋市では、中江川と大山川が合流します。北名古屋市と名古屋市北区の境界で、新川に注ぎ、伊勢湾に注ぎます。(同上)

  • 小牧山城の東側を南北に流れる合瀬川の光景です。信長が築いた城下町の東の端にもなっていました。これで小牧山城の紹介はおしまいです。(同上)

    小牧山城の東側を南北に流れる合瀬川の光景です。信長が築いた城下町の東の端にもなっていました。これで小牧山城の紹介はおしまいです。(同上)

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