小牧旅行記(ブログ) 一覧に戻る
続日本百名城の小牧山城の紹介です。小牧市歴史館の展示物は、尾北古窯の中心をなす『篠岡古窯跡群』の須恵器、陶器の展示が充実していいました。大山廃寺の展示も興味深い内容でした。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

2017夏、続日本百名城の小牧山城(5/8):大山廃寺、篠岡古窯群、南外山遺跡、辻ノ内遺跡

1いいね!

2017/07/07 - 2017/07/07

207位(同エリア221件中)

旅行記グループ 2017夏、尾張の続百名城巡り

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

続日本百名城の小牧山城の紹介です。小牧市歴史館の展示物は、尾北古窯の中心をなす『篠岡古窯跡群』の須恵器、陶器の展示が充実していいました。大山廃寺の展示も興味深い内容でした。(ウィキペディア、続日本百名城・公式ガイドブック)

交通手段
私鉄 徒歩

PR

  • 小牧山城の再建外観を持ち、内部は博物館として使用されている、小牧市歴史館の和風の造りの室内光景です。(同上)

    イチオシ

    小牧山城の再建外観を持ち、内部は博物館として使用されている、小牧市歴史館の和風の造りの室内光景です。(同上)

  • 『大山廃寺跡』のタイトルがあった説明パネルです。国指定の史跡である大山廃寺は、小牧市北東の山の中腹、標高180メートルほどに位置する、古代~中世の山岳寺院跡です。仁平2年(1152年)、僧兵の焼き討ちにより焼失し、廃絶したとされます。しかし、13世紀以降の出土土器が圧倒的に多く、その後も大きな勢力を持っていたようです。(同上)

    『大山廃寺跡』のタイトルがあった説明パネルです。国指定の史跡である大山廃寺は、小牧市北東の山の中腹、標高180メートルほどに位置する、古代~中世の山岳寺院跡です。仁平2年(1152年)、僧兵の焼き討ちにより焼失し、廃絶したとされます。しかし、13世紀以降の出土土器が圧倒的に多く、その後も大きな勢力を持っていたようです。(同上)

  • 『篠岡古窯跡群』のタイトルがあった説明パネルです。愛知県下の主な古窯群は、北から尾北古窯、瀬戸古窯、猿投古窯、常滑古窯と渥美古窯の五つです。『篠岡古窯跡群』は尾北古窯の中心をなし、110箇所の古窯が見付かっています。10世紀から11世紀前半が篠岡古窯の最盛期とされます。(同上)

    『篠岡古窯跡群』のタイトルがあった説明パネルです。愛知県下の主な古窯群は、北から尾北古窯、瀬戸古窯、猿投古窯、常滑古窯と渥美古窯の五つです。『篠岡古窯跡群』は尾北古窯の中心をなし、110箇所の古窯が見付かっています。10世紀から11世紀前半が篠岡古窯の最盛期とされます。(同上)

  • 『あな窯』のタイトルがあった説明パネルです。あな窯は、山の斜面に溝を掘り、その天井を粘土で覆った単純な仕組みの窯ですが、焼成温度は千度を超えるようです。篠岡地区には、あな窯が7世紀から12世紀にかけて110基以上築かれました。(同上)

    『あな窯』のタイトルがあった説明パネルです。あな窯は、山の斜面に溝を掘り、その天井を粘土で覆った単純な仕組みの窯ですが、焼成温度は千度を超えるようです。篠岡地区には、あな窯が7世紀から12世紀にかけて110基以上築かれました。(同上)

  • 『須恵器の時代』のタイトルがあった説明パネルです。7世紀から8世紀にかけて篠岡古窯群で焼かれていたのは、古墳時代からの伝統を受け継ぐ、釉薬を使わない黒灰色の硬質の陶器の須恵器でした。篠岡古窯群で焼かれた須恵器は、奈良の藤原京でも使われていたとされます。(同上)

    『須恵器の時代』のタイトルがあった説明パネルです。7世紀から8世紀にかけて篠岡古窯群で焼かれていたのは、古墳時代からの伝統を受け継ぐ、釉薬を使わない黒灰色の硬質の陶器の須恵器でした。篠岡古窯群で焼かれた須恵器は、奈良の藤原京でも使われていたとされます。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(記銘瓦)<br />左から、記銘瓦『山田安・・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『・田里・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『多楽里張戸蓮・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『五十長・』(奈良時代:8世紀前半)です。(同上)<br />

    篠岡古窯跡群出土品(記銘瓦)
    左から、記銘瓦『山田安・・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『・田里・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『多楽里張戸蓮・』(奈良時代:8世紀前半)、記銘瓦『五十長・』(奈良時代:8世紀前半)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(陶器)<br />上から順に、甕・口縁部『山寸』(白鳳時代:7世紀後半)、甕・胴部『山寸』(白鳳時代:7世紀後半)、杯・底部『尾山寸』(白鳳時代:7世紀後半)です。(同上)<br />

    篠岡古窯跡群出土品(陶器)
    上から順に、甕・口縁部『山寸』(白鳳時代:7世紀後半)、甕・胴部『山寸』(白鳳時代:7世紀後半)、杯・底部『尾山寸』(白鳳時代:7世紀後半)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(須恵器)<br />前列は、左から初(飛鳥時代:7世紀)、平瓶(飛鳥時代:8世紀後半)、杯蓋・杯(飛鳥時代:7世紀後半)、陶錘(飛鳥時代:7世紀後半)です。<br />後列は、左から(不明)、器台(飛鳥時代:7世紀後半)、短頸壷(飛鳥時代:7世紀)です。(同上)

    篠岡古窯跡群出土品(須恵器)
    前列は、左から初(飛鳥時代:7世紀)、平瓶(飛鳥時代:8世紀後半)、杯蓋・杯(飛鳥時代:7世紀後半)、陶錘(飛鳥時代:7世紀後半)です。
    後列は、左から(不明)、器台(飛鳥時代:7世紀後半)、短頸壷(飛鳥時代:7世紀)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(硯ほか)<br />前列は、左から宝珠硯・2個(平安時代:9世紀後半)、宝珠硯・蓋(平安時代:9世紀後半)、宝珠硯・蓋(平安時代:9世紀後半)です。<br />後列は、左から円面硯(平安時代:8世紀後半)、鉢(平安時代:9世紀後半)です。(同上)<br />

    篠岡古窯跡群出土品(硯ほか)
    前列は、左から宝珠硯・2個(平安時代:9世紀後半)、宝珠硯・蓋(平安時代:9世紀後半)、宝珠硯・蓋(平安時代:9世紀後半)です。
    後列は、左から円面硯(平安時代:8世紀後半)、鉢(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

  • 『灰釉陶器の時代』のタイトルがあった説明パネルです。篠岡古窯群では、9世紀後半(平安時代)になると、灰釉を使った薄緑色の灰釉陶器が焼かれ始めました。灰釉は木の灰を溶かした釉薬で、尾張の特産品です。僅かですが、濃い緑の緑釉陶器も焼かれました。(同上)

    『灰釉陶器の時代』のタイトルがあった説明パネルです。篠岡古窯群では、9世紀後半(平安時代)になると、灰釉を使った薄緑色の灰釉陶器が焼かれ始めました。灰釉は木の灰を溶かした釉薬で、尾張の特産品です。僅かですが、濃い緑の緑釉陶器も焼かれました。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(灰釉陶器)<br />手前の列は、左から耳皿(平安時代:10世紀)、皿(平安時代:10世紀前半)、碗(平安時代:9世紀後半)です。<br />後の列は、左から長頸壷(平安時代:9世紀後半)、手付瓶(平安時代:9世紀後半)です。(同上)<br />

    イチオシ

    篠岡古窯跡群出土品(灰釉陶器)
    手前の列は、左から耳皿(平安時代:10世紀)、皿(平安時代:10世紀前半)、碗(平安時代:9世紀後半)です。
    後の列は、左から長頸壷(平安時代:9世紀後半)、手付瓶(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(灰釉陶器)<br />手前の列は、左から陰刻花文角盤(平安時代:9世紀後半)、陰刻花文皿(平安時代:9世紀後半)、小瓶(平安時代:10世紀前半)です。<br />後の列は、左から三足盤(平安時代:9世紀後半)、四足盤(平安時代:10世紀後半)、短頸壷(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

    篠岡古窯跡群出土品(灰釉陶器)
    手前の列は、左から陰刻花文角盤(平安時代:9世紀後半)、陰刻花文皿(平安時代:9世紀後半)、小瓶(平安時代:10世紀前半)です。
    後の列は、左から三足盤(平安時代:9世紀後半)、四足盤(平安時代:10世紀後半)、短頸壷(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品<br />手前の列は、左から陰刻花文香炉蓋(平安時代:10世紀前半)、釜道具・見(平安時代:9世紀後半)、記銘皿(平安時代(10世紀)です。<br />後の列は、左から記銘甕(平安時代:10世紀)、陰刻花文高坏(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

    篠岡古窯跡群出土品
    手前の列は、左から陰刻花文香炉蓋(平安時代:10世紀前半)、釜道具・見(平安時代:9世紀後半)、記銘皿(平安時代(10世紀)です。
    後の列は、左から記銘甕(平安時代:10世紀)、陰刻花文高坏(平安時代:9世紀後半)です。(同上)

  • 篠岡古窯跡群出土品(緑釉陶器)<br />下側は、左が鉢(平安時代:9世紀)、右側が皿(平安時代:10世紀後半)です。<br />上側は、短頸壷(平安時代:10世紀後半)です。<br />

    篠岡古窯跡群出土品(緑釉陶器)
    下側は、左が鉢(平安時代:9世紀)、右側が皿(平安時代:10世紀後半)です。
    上側は、短頸壷(平安時代:10世紀後半)です。

  • 『武士の時代・たたかいの時代へ』のタイトルがあった説明パネルです。室町時代の半ば、織田氏が尾張の守護代に任命されて以来、小牧はその支配下に置かれていたようです。織田氏の支配をうける前後、平手氏の小木城、西尾氏の大草城、堀尾氏の南外山城が築かれ、それぞれの区域に支配が及んでいたようです。小牧付近の大きく情勢が変わったのは、信長が桶狭間の戦いで今川氏を破った後です。信長が小牧城を築き、天下人への足掛かりを築き始め、本能寺の変で斃れた後は、尾張の支配者は織田信勝、羽柴秀次、福島正則と代わり、関ヶ原の戦い後は徳川家の支配となり江戸時代となりました。(同上)

    『武士の時代・たたかいの時代へ』のタイトルがあった説明パネルです。室町時代の半ば、織田氏が尾張の守護代に任命されて以来、小牧はその支配下に置かれていたようです。織田氏の支配をうける前後、平手氏の小木城、西尾氏の大草城、堀尾氏の南外山城が築かれ、それぞれの区域に支配が及んでいたようです。小牧付近の大きく情勢が変わったのは、信長が桶狭間の戦いで今川氏を破った後です。信長が小牧城を築き、天下人への足掛かりを築き始め、本能寺の変で斃れた後は、尾張の支配者は織田信勝、羽柴秀次、福島正則と代わり、関ヶ原の戦い後は徳川家の支配となり江戸時代となりました。(同上)

  • 『南外山遺跡』のタイトルがあった説明パネルです。縄文時代から江戸時代にいたる、約2000年間の複合遺跡であることが紹介されていました。弥生時代から古墳時代の方形周溝墓、中世の遺構では南外山城の堀跡も確認されています。(同上)

    『南外山遺跡』のタイトルがあった説明パネルです。縄文時代から江戸時代にいたる、約2000年間の複合遺跡であることが紹介されていました。弥生時代から古墳時代の方形周溝墓、中世の遺構では南外山城の堀跡も確認されています。(同上)

  • 南外山遺跡出土品です。<br />手前の列は、左から東濃型の山茶碗(鎌倉時代)、東濃型の墨書・山茶碗(鎌倉時代)、尾張型小皿(鎌倉時代:13世紀)、尾張型小皿(鎌倉時代:14世紀)です。<br />奥の列は、左側が広口壷(室町時代)と土馬(飛鳥~平安時代)です。(同上)<br />

    南外山遺跡出土品です。
    手前の列は、左から東濃型の山茶碗(鎌倉時代)、東濃型の墨書・山茶碗(鎌倉時代)、尾張型小皿(鎌倉時代:13世紀)、尾張型小皿(鎌倉時代:14世紀)です。
    奥の列は、左側が広口壷(室町時代)と土馬(飛鳥~平安時代)です。(同上)

  • 南外山遺跡出土品です。<br />手前側の展示品は下駄(鎌倉~室町時代)、奥の展示品は二つとも漆器の椀(鎌倉~室町時代)です。(同上)<br />

    南外山遺跡出土品です。
    手前側の展示品は下駄(鎌倉~室町時代)、奥の展示品は二つとも漆器の椀(鎌倉~室町時代)です。(同上)

  • 『辻ノ内遺跡・大字小松寺・中世』のタイトルがあった説明パネルです。発掘調査結果で、13世紀から16世紀中頃まで続いた村落跡であったことが分かっています。出土品は、古瀬戸陶器、常滑製品、土師器、山茶碗などのほか、中国製陶器も見つかっています。発掘調査が済んだのはまだ一部分だけです。(同上)

    『辻ノ内遺跡・大字小松寺・中世』のタイトルがあった説明パネルです。発掘調査結果で、13世紀から16世紀中頃まで続いた村落跡であったことが分かっています。出土品は、古瀬戸陶器、常滑製品、土師器、山茶碗などのほか、中国製陶器も見つかっています。発掘調査が済んだのはまだ一部分だけです。(同上)

  • 辻ノ内遺跡出土品です。<br />手前の列は、左から瀬戸・美濃の天目茶碗(室町時代)、青磁の鉢(鎌倉~室町時代)と古瀬戸のおろし皿(鎌倉~室町時代)です。<br />奥の列は、左から古瀬戸の徳利(室町時代)、古瀬戸の耳付水注(室町時代)と瀬戸・美濃のすり鉢(室町時代)です。(同上)<br />

    辻ノ内遺跡出土品です。
    手前の列は、左から瀬戸・美濃の天目茶碗(室町時代)、青磁の鉢(鎌倉~室町時代)と古瀬戸のおろし皿(鎌倉~室町時代)です。
    奥の列は、左から古瀬戸の徳利(室町時代)、古瀬戸の耳付水注(室町時代)と瀬戸・美濃のすり鉢(室町時代)です。(同上)

  • 辻ノ内遺跡出土品です。<br />手前の列は、左から東濃型の小皿(室町時代)、東濃型の山茶碗(室町時代)、古瀬戸の緑釉小皿(室町時代)です。<br />奥の列は、左から土師器の皿(室町時代)と土師器の羽釜(室町時代)です。(同上)<br />

    辻ノ内遺跡出土品です。
    手前の列は、左から東濃型の小皿(室町時代)、東濃型の山茶碗(室町時代)、古瀬戸の緑釉小皿(室町時代)です。
    奥の列は、左から土師器の皿(室町時代)と土師器の羽釜(室町時代)です。(同上)

  • 『蔵骨壷』のタイトルがあった展示です。<br />左:『四耳壷』<br />古瀬戸<br />鎌倉時代(13世紀中頃)<br />右:『取手付長頸瓶』<br />灰釉陶器<br />平安時代(9世紀後半~10世紀)<br />小牧山山麓出土

    『蔵骨壷』のタイトルがあった展示です。
    左:『四耳壷』
    古瀬戸
    鎌倉時代(13世紀中頃)
    右:『取手付長頸瓶』
    灰釉陶器
    平安時代(9世紀後半~10世紀)
    小牧山山麓出土

  • 『円空仏』の説明パネルです。拾い読みしながら説明を加えます。『円空(1632~1695年)』は、江戸時代前期の天台宗の僧で、仏師で歌人です。各地を行脚しながら、生涯に約12万体の仏像を彫ったとされます。『円空仏』は、粗削りながら、柔和な笑顔が特徴です。円空仏は、北は北海道、青森、南は三重県、奈良県に及びます。(同上)

    『円空仏』の説明パネルです。拾い読みしながら説明を加えます。『円空(1632~1695年)』は、江戸時代前期の天台宗の僧で、仏師で歌人です。各地を行脚しながら、生涯に約12万体の仏像を彫ったとされます。『円空仏』は、粗削りながら、柔和な笑顔が特徴です。円空仏は、北は北海道、青森、南は三重県、奈良県に及びます。(同上)

  • 一体だけ展示してあった円空仏です。手を合わせて拝む姿が、粗削りで表現されていました。現在までに確認された円空仏の総数は、2015年時点での現存数が5,298体、所在不明・消失・盗難などの像が88体で、確認数は5,386体とされます。分布は愛知県の3,241体が最多で、岐阜県の1,684体、埼玉県の175体、北海道の51体と続きます。(同上)

    イチオシ

    一体だけ展示してあった円空仏です。手を合わせて拝む姿が、粗削りで表現されていました。現在までに確認された円空仏の総数は、2015年時点での現存数が5,298体、所在不明・消失・盗難などの像が88体で、確認数は5,386体とされます。分布は愛知県の3,241体が最多で、岐阜県の1,684体、埼玉県の175体、北海道の51体と続きます。(同上)

  • 『江戸時代の発展・小牧のまちのはじまり』のタイトルがあった説明パネルです。江戸時代の初めの頃、尾張藩により積極な新田開発が行われたことなどが紹介されていました。その中心事業が、犬山に築かれた入鹿池と、木曽川から直接水を引く木津(こっつ)用水や新木津(こっつ)用水の開削工事です。(同上)

    『江戸時代の発展・小牧のまちのはじまり』のタイトルがあった説明パネルです。江戸時代の初めの頃、尾張藩により積極な新田開発が行われたことなどが紹介されていました。その中心事業が、犬山に築かれた入鹿池と、木曽川から直接水を引く木津(こっつ)用水や新木津(こっつ)用水の開削工事です。(同上)

  • 『小牧宿』のタイトルがあった説明パネルです。小牧宿は、名古屋と中山道を結ぶ尾張藩の上街道(木曽街道)に作られた宿場町と紹介されていました。信長が作った小牧城南の城下町を、元和9年(1623年)に移転して整備した宿駅とも紹介されていました。(同上)

    『小牧宿』のタイトルがあった説明パネルです。小牧宿は、名古屋と中山道を結ぶ尾張藩の上街道(木曽街道)に作られた宿場町と紹介されていました。信長が作った小牧城南の城下町を、元和9年(1623年)に移転して整備した宿駅とも紹介されていました。(同上)

  • 『小牧宿』のタイトルがあった説明パネルの図面部分です。宝暦年間(1651~1664年)に描かれたと推定される『小牧宿絵図』が元図です。図面の下部左には、小牧御殿(代官所)が記されています。(同上)

    『小牧宿』のタイトルがあった説明パネルの図面部分です。宝暦年間(1651~1664年)に描かれたと推定される『小牧宿絵図』が元図です。図面の下部左には、小牧御殿(代官所)が記されています。(同上)

  • 『用水と新田開発』のタイトルがあった説明パネルです。小牧地区は、木曽川が犬山を頂点として造る扇状地の東端に位置し、元々水の便には恵まれていない場所との説明から始まっていました。水不足を解消し、新田開発を進める切り札が、大規模な溜池の造成でした。『入鹿六人衆』を中心に進められた入鹿池の工事は、寛永10年(1632年)に完成しました。入鹿池を源流とする入鹿用水が開削され、荒れ地は次々に灌漑地に生まれ変わりました。『入鹿六人衆』とは、小牧村の江崎善左衛門、上末村の落合新八郎と鈴木久兵衛、田楽村の鈴木作右衛門と村中村の丹羽又助(又兵衛)・外坪村の舟橋七兵衛(仁左衛門)の6人です。(同上)

    『用水と新田開発』のタイトルがあった説明パネルです。小牧地区は、木曽川が犬山を頂点として造る扇状地の東端に位置し、元々水の便には恵まれていない場所との説明から始まっていました。水不足を解消し、新田開発を進める切り札が、大規模な溜池の造成でした。『入鹿六人衆』を中心に進められた入鹿池の工事は、寛永10年(1632年)に完成しました。入鹿池を源流とする入鹿用水が開削され、荒れ地は次々に灌漑地に生まれ変わりました。『入鹿六人衆』とは、小牧村の江崎善左衛門、上末村の落合新八郎と鈴木久兵衛、田楽村の鈴木作右衛門と村中村の丹羽又助(又兵衛)・外坪村の舟橋七兵衛(仁左衛門)の6人です。(同上)

  • 『用水と新田開発』のタイトルがあった説明パネルの用水図面部分です。『木津・神木津・入鹿用水系統と村の分布図」のタイトルがありました。水源は木曽川と入鹿池です。入鹿池は、2015年(平成27年)に、国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産に登録されました。(同上)

    『用水と新田開発』のタイトルがあった説明パネルの用水図面部分です。『木津・神木津・入鹿用水系統と村の分布図」のタイトルがありました。水源は木曽川と入鹿池です。入鹿池は、2015年(平成27年)に、国際かんがい排水委員会による世界かんがい施設遺産に登録されました。(同上)

  • 『岸田家・市指定寄尾計民俗文化財』のタイトルがあった説明パネルです。岸だけは、上街道(木曽街道)の小牧宿の下之町にあり、江戸時代には名字帯刀を許され、幕末には脇本陣を務めた名家と紹介されていました。その岸田家に残された、瓦葺の中二階の母屋の紹介でした。(同上)

    『岸田家・市指定寄尾計民俗文化財』のタイトルがあった説明パネルです。岸だけは、上街道(木曽街道)の小牧宿の下之町にあり、江戸時代には名字帯刀を許され、幕末には脇本陣を務めた名家と紹介されていました。その岸田家に残された、瓦葺の中二階の母屋の紹介でした。(同上)

この旅行記のタグ

1いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP