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JR山陽線廿日市駅から広島方向へ徒歩約10分、応龍山・洞雲寺(とううんじ、広島県廿日市市佐方)は長享元年(1487)、厳島神社神主でなおかつ同島に在する桜尾城主であった藤原教親(ふじわら・のりちか)が守護大内氏の守護代で大内氏の重臣であった陶氏の菩提寺である龍文寺から高僧金鋼用兼(きんこう・ようけん)を招き藤原家の菩提寺として創建したものです。<br /><br />当寺には歴史上著名な人物の供養塔(墓)が配されていますがその一人として主家大内氏を支える武将陶晴賢(すえ・はるかた/但し主家大内義隆打倒までは隆房、1521~1555)の首塚(宝篋印塔)があります。<br /><br />そもそも陶氏は大内氏から分かれた石田氏を祖とする大内氏の一族で、弘賢の代に周防国吉敷郡陶村(現山口市)を与えられたことから「陶氏」を称し、その子弘政が都濃郡富田保(現南陽市)に移り、若山城を築城し本拠とするなか歴代陶氏は周防国守護代を務めます。<br /><br />天文8年(1539)4月に父興房(おきふさ)の病死により隆房は9代目として家督を相続、併せて従来通り周防国守護代を継承します。亡興房は主家の大内義興・義隆の補佐を務め、出雲国尼子氏や筑前国小弐氏との戦いで多大の功績を挙げて大内氏ににおける地位を不動にした功労者でした。<br /><br />隆房は勢力拡大をめざす主家大内義隆(おおうち・よしたか、1507~1551)に従い各地を転戦し勝利を収め主家の信頼を揺るぎないものにし、特に出雲の雄尼子氏が南下して毛利氏の吉田城を攻めた際には後詰として出陣し尼子勢を見事撃退します。<br /><br />然しながら天文11年(1541)中国の覇権を巡って対立する尼子氏攻略のため出雲国月山冨田城に向けての親征では敵方への内通者が出て大敗を喫し敗走の途中に義隆は継嗣の晴持(はるもち、1524~1543)を失います。<br /><br />以降継嗣を失った義隆は外征の意向が見られず専ら文治主義に偏重し、同時に武断派の隆房が義隆から疎まれ逆に文治派側近の相良氏が厚遇されその結果相良氏と対立が深まっていくなか、隆房の立場はなくなり次第に謀叛の意思を固め、遂に天文20年(1551)8月山口に軍勢を進め、これに対し義隆は山口を脱出し長門に逃れますが追いつめられた義隆は大寧寺で自害に至ります。<br /><br />周防長門を制圧した隆房は謀叛人としての非難を避けるため豊後から血縁のある大友宗麟の弟晴英(はるひで、1532~1557)を飾り物として迎え大内氏の名跡を継がせ義長(よしなが)と改名し、自らは後見役となり併せてこれを機に晴英の偏諱を得て晴賢に改名します。<br /><br />天文23年(1554)陶氏を宿敵とする吉見氏が晴賢打倒を掲げ、毛利元就もこれに呼応して晴賢と対立を鮮明にすると晴賢は元就攻略の軍勢3万を率い、元就の策略に載せられて桜尾城攻撃のため厳島に上陸、他方村上水軍の支援を得た小早川水軍を中核とする毛利軍勢に急襲され将兵は離散するなか討取られ、本陣を攻められた晴賢も逃げ場を失い自刃するに至ります。<br /><br /><br /><br />山門前に配された洞雲寺案内板には「洞雲寺」と題する説明が記されています。<br /><br />「 洞 雲 寺<br /><br />応龍山洞雲寺は、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこう・ようけん)を開祖とし、桜尾城主であった厳島神主藤原教親(ふじわら・のりちか)・宗親(むねちか)親子により、長享元年(1481)その菩提寺として創建された漕洞宗の禅院である。金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また阿波国(徳島県)守護大名細川成之(ほそかわ・しげゆき)の帰依を受け、同国の丈応寺と桂林寺も管轄していた。<br /><br />現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺におぴて書写したものである。<br /><br />藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利時代には重臣の桂元澄(かつら・もとずみ)、ついで元就(もとなり)の四男元清(もときよ)が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。<br /><br />また、寺内には、藤原興藤(おきふじ)、桂元澄、毛利元清夫妻の墓や陶晴賢(すえ・はるかた)の首塚(いずれも市重文)などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。<br /><br />これらを含め、同寺には現在、県重要文化財7点、重要文化財7点がある。<br /><br />              昭和63年3月<br />                        廿日市市教育委員会」

安芸廿日市 下剋上にて主君大内義隆を自害に追込み厳島合戦では毛利元就の奇襲攻撃に敗死した周防の名門武将陶晴賢を供養する古刹『洞雲寺』散歩

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2017/01/08 - 2017/01/08

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26

滝山氏照

滝山氏照さん

JR山陽線廿日市駅から広島方向へ徒歩約10分、応龍山・洞雲寺(とううんじ、広島県廿日市市佐方)は長享元年(1487)、厳島神社神主でなおかつ同島に在する桜尾城主であった藤原教親(ふじわら・のりちか)が守護大内氏の守護代で大内氏の重臣であった陶氏の菩提寺である龍文寺から高僧金鋼用兼(きんこう・ようけん)を招き藤原家の菩提寺として創建したものです。

当寺には歴史上著名な人物の供養塔(墓)が配されていますがその一人として主家大内氏を支える武将陶晴賢(すえ・はるかた/但し主家大内義隆打倒までは隆房、1521~1555)の首塚(宝篋印塔)があります。

そもそも陶氏は大内氏から分かれた石田氏を祖とする大内氏の一族で、弘賢の代に周防国吉敷郡陶村(現山口市)を与えられたことから「陶氏」を称し、その子弘政が都濃郡富田保(現南陽市)に移り、若山城を築城し本拠とするなか歴代陶氏は周防国守護代を務めます。

天文8年(1539)4月に父興房(おきふさ)の病死により隆房は9代目として家督を相続、併せて従来通り周防国守護代を継承します。亡興房は主家の大内義興・義隆の補佐を務め、出雲国尼子氏や筑前国小弐氏との戦いで多大の功績を挙げて大内氏ににおける地位を不動にした功労者でした。

隆房は勢力拡大をめざす主家大内義隆(おおうち・よしたか、1507~1551)に従い各地を転戦し勝利を収め主家の信頼を揺るぎないものにし、特に出雲の雄尼子氏が南下して毛利氏の吉田城を攻めた際には後詰として出陣し尼子勢を見事撃退します。

然しながら天文11年(1541)中国の覇権を巡って対立する尼子氏攻略のため出雲国月山冨田城に向けての親征では敵方への内通者が出て大敗を喫し敗走の途中に義隆は継嗣の晴持(はるもち、1524~1543)を失います。

以降継嗣を失った義隆は外征の意向が見られず専ら文治主義に偏重し、同時に武断派の隆房が義隆から疎まれ逆に文治派側近の相良氏が厚遇されその結果相良氏と対立が深まっていくなか、隆房の立場はなくなり次第に謀叛の意思を固め、遂に天文20年(1551)8月山口に軍勢を進め、これに対し義隆は山口を脱出し長門に逃れますが追いつめられた義隆は大寧寺で自害に至ります。

周防長門を制圧した隆房は謀叛人としての非難を避けるため豊後から血縁のある大友宗麟の弟晴英(はるひで、1532~1557)を飾り物として迎え大内氏の名跡を継がせ義長(よしなが)と改名し、自らは後見役となり併せてこれを機に晴英の偏諱を得て晴賢に改名します。

天文23年(1554)陶氏を宿敵とする吉見氏が晴賢打倒を掲げ、毛利元就もこれに呼応して晴賢と対立を鮮明にすると晴賢は元就攻略の軍勢3万を率い、元就の策略に載せられて桜尾城攻撃のため厳島に上陸、他方村上水軍の支援を得た小早川水軍を中核とする毛利軍勢に急襲され将兵は離散するなか討取られ、本陣を攻められた晴賢も逃げ場を失い自刃するに至ります。



山門前に配された洞雲寺案内板には「洞雲寺」と題する説明が記されています。

「 洞 雲 寺

応龍山洞雲寺は、大内氏の重臣陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこう・ようけん)を開祖とし、桜尾城主であった厳島神主藤原教親(ふじわら・のりちか)・宗親(むねちか)親子により、長享元年(1481)その菩提寺として創建された漕洞宗の禅院である。金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また阿波国(徳島県)守護大名細川成之(ほそかわ・しげゆき)の帰依を受け、同国の丈応寺と桂林寺も管轄していた。

現在、洞雲寺に所蔵されている「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」(県重文)は、禅師みずからがこの桂林寺におぴて書写したものである。

藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与え、その死亡後も代わって大内氏がこれらの寺領を認め、さらに毛利時代には重臣の桂元澄(かつら・もとずみ)、ついで元就(もとなり)の四男元清(もときよ)が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。

また、寺内には、藤原興藤(おきふじ)、桂元澄、毛利元清夫妻の墓や陶晴賢(すえ・はるかた)の首塚(いずれも市重文)などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。

これらを含め、同寺には現在、県重要文化財7点、重要文化財7点がある。

              昭和63年3月
                        廿日市市教育委員会」

交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • 洞雲寺・遠景<br /><br />JR廿日市駅北側は区画整理され、東西に走る往復4車線の直線道路が走っており、洞雲寺社域はこの道路新設によって本堂と公園が南北に分断されています。

    洞雲寺・遠景

    JR廿日市駅北側は区画整理され、東西に走る往復4車線の直線道路が走っており、洞雲寺社域はこの道路新設によって本堂と公園が南北に分断されています。

  • 洞雲寺(全景)<br /><br />

    洞雲寺(全景)

  • 洞雲寺・寺標

    洞雲寺・寺標

  • 洞雲寺・案内板<br /><br />山門に入る手前には大型の案内・説明板が設置され、中央には寺の見取図が描かれ重要文化財に指定されている墓の所在地がマ-クされており即時に判り易くなっています。

    洞雲寺・案内板

    山門に入る手前には大型の案内・説明板が設置され、中央には寺の見取図が描かれ重要文化財に指定されている墓の所在地がマ-クされており即時に判り易くなっています。

  • 洞雲寺・見取図

    洞雲寺・見取図

  • 陶晴賢の首塚(宝篋印塔)

    陶晴賢の首塚(宝篋印塔)

  • 藤原興藤の墓(宝篋印塔)

    藤原興藤の墓(宝篋印塔)

  • 穂田(毛利)元清夫妻の墓(共に宝篋印塔)

    穂田(毛利)元清夫妻の墓(共に宝篋印塔)

  • 桂元澄夫妻の墓(共に宝篋印塔)

    桂元澄夫妻の墓(共に宝篋印塔)

  • 洞雲寺・山門

    洞雲寺・山門

  • 洞雲寺由緒・説明板

    洞雲寺由緒・説明板

  • 洞雲寺・山門<br /><br />表側から見ると不明ですが上層部は鐘楼部となっています。<br /><br />

    洞雲寺・山門

    表側から見ると不明ですが上層部は鐘楼部となっています。

  • 洞雲寺・山門裏側<br /><br />山門の裏側に廻ると二階部には鐘楼が納められていることがわかります。

    洞雲寺・山門裏側

    山門の裏側に廻ると二階部には鐘楼が納められていることがわかります。

  • 洞雲寺・本堂

    洞雲寺・本堂

  • 洞雲寺本堂・扁額<br /><br />本堂上部には「應龍山」と揮毫された洞雲寺の山号が掲載されています。

    洞雲寺本堂・扁額

    本堂上部には「應龍山」と揮毫された洞雲寺の山号が掲載されています。

  • 洞雲寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を一望します。

    洞雲寺・境内

    本堂から山門方向を一望します。

  • 陶晴賢(すえ・はるかた)供養塔<br /><br />供養塔の傍に建てられた説明板には次のように書かれています。<br /><br />「陶晴賢の墓 (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)<br /><br />陶晴賢は戦国時代の武将で、陶興房の二男である。大内氏の家臣として活躍していたが天文20年(1551)8月、大内義隆父子を襲い自刃させ大内氏の領国を制圧した。<br /><br />弘治元年(1555)10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲戦に敗れ、厳島で自刃し桜尾城において首実験の後、この洞雲寺に葬られた。<br /><br />晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。墓石は三段の花崗岩製と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。<br /><br />総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が篤くなるなど、各部の形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。歴史上著名な武将の墓として貴重である。<br />                平成 12 年 3 月<br />                     廿日市市教育委員会」<br /><br />

    イチオシ

    陶晴賢(すえ・はるかた)供養塔

    供養塔の傍に建てられた説明板には次のように書かれています。

    「陶晴賢の墓 (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

    陶晴賢は戦国時代の武将で、陶興房の二男である。大内氏の家臣として活躍していたが天文20年(1551)8月、大内義隆父子を襲い自刃させ大内氏の領国を制圧した。

    弘治元年(1555)10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲戦に敗れ、厳島で自刃し桜尾城において首実験の後、この洞雲寺に葬られた。

    晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。墓石は三段の花崗岩製と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。

    総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が篤くなるなど、各部の形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。歴史上著名な武将の墓として貴重である。
                    平成 12 年 3 月
                         廿日市市教育委員会」

  • 藤原興藤の墓  <br /><br />供養塔の傍らに建てられた説明板には次のように書かれています。<br /><br />「友田(藤原)興藤の墓  (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)<br /><br />友田興藤は厳島神社の藤原神主の一族である。永正15(1518)年大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々桜尾城を中心に攻防をくり返した。天文10(1541)年大内氏の攻撃に抗しきれず城に火を懸け自刃した。<br /><br />友田興藤は墓は、総高199.5cmの花こう岩製の宝篋印塔である。塔身部の正面格狭間の中に「興藤」、その横に「天文九年庚子八月日」と刻んでいる。<br /><br />興藤の没年は天文10年4月6日といわれるので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔であろう。 造りに無骨さが感じられるが、力量感のある宝篋印塔である。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要である。」<br />

    藤原興藤の墓  

    供養塔の傍らに建てられた説明板には次のように書かれています。

    「友田(藤原)興藤の墓  (市指定史跡 昭和50年1月14日指定)

    友田興藤は厳島神社の藤原神主の一族である。永正15(1518)年大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々桜尾城を中心に攻防をくり返した。天文10(1541)年大内氏の攻撃に抗しきれず城に火を懸け自刃した。

    友田興藤は墓は、総高199.5cmの花こう岩製の宝篋印塔である。塔身部の正面格狭間の中に「興藤」、その横に「天文九年庚子八月日」と刻んでいる。

    興藤の没年は天文10年4月6日といわれるので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔であろう。 造りに無骨さが感じられるが、力量感のある宝篋印塔である。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要である。」

  • 藤原興藤を示す柱標<br /><br />宝篋印塔の傍らには「櫻尾城主上野之介興藤之墓」と刻されています。<br /><br />

    藤原興藤を示す柱標

    宝篋印塔の傍らには「櫻尾城主上野之介興藤之墓」と刻されています。

  • 友田(藤原)興藤及び陶晴賢説明板

    友田(藤原)興藤及び陶晴賢説明板

  • 毛利元清夫妻の宝篋印塔

    毛利元清夫妻の宝篋印塔

  • 毛利元清夫妻の宝篋印塔<br /><br />奥の宝篋印塔は元清、手前の宝篋印塔は元清夫人のものです。

    毛利元清夫妻の宝篋印塔

    奥の宝篋印塔は元清、手前の宝篋印塔は元清夫人のものです。

  • 毛利元清の宝篋印塔<br /><br />元清(もときよ、1551~1597)は毛利元就の四男で、厳島の桜尾城主として26年間在城しています。

    毛利元清の宝篋印塔

    元清(もときよ、1551~1597)は毛利元就の四男で、厳島の桜尾城主として26年間在城しています。

  • 毛利元清夫人の宝篋印塔

    毛利元清夫人の宝篋印塔

  • 桂元澄夫妻の宝篋印塔<br /><br />左が元澄、右が元澄夫人の宝篋印塔で、元澄は毛利氏一族の重臣で、厳島の桜尾城を約15年に亘り城代として在城した経緯があります。

    桂元澄夫妻の宝篋印塔

    左が元澄、右が元澄夫人の宝篋印塔で、元澄は毛利氏一族の重臣で、厳島の桜尾城を約15年に亘り城代として在城した経緯があります。

  • 廿日市市指定史跡説明板

    廿日市市指定史跡説明板

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