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広島城(ひろしまじょう、広島県広島市中区基町)は広島市の中心部を流れる大田川(旧名佐東川)の軟弱地盤の三角州五箇(ごか)村に立地し、毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571))の孫である毛利輝元(もうり・てるもと、1553~1625))が天正17年(1589)頃から慶長4年(1599)にかけて築いた平城で、豊臣秀吉の京都における居城であった聚楽第を参考にしたといわれています。<br /><br />毛利氏の遠祖は鎌倉幕府の重鎮大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)でその子孫が安芸国吉田荘の地頭となって移住、南北朝時代から吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)を本拠とする国人領主として発展、中国地方の覇権を競って出雲国の尼子氏、周防及び長門国の大内氏に打ち勝った元就の時代に中国地方の大半を領地とする戦国大名に成長します。<br /><br />慶長5年(1600)の関ケ原合戦後に毛利氏に代わって安芸・備後の領主として入城したのが福島正則(ふくしま・まさのり、1561~1624)で、外堀や外郭の整備を進め毛利氏が手掛けた広島城を完成させます。<br /><br />しかしながら、台風による水害で破損した広島城の修築に際し幕府の許可を得なかったとして武家諸法度に違反するとして正則は元和5年(1619)に50万石の全知行地を没収され信濃国川中島へ転封、その後は浅野長晟(あさの・ながあきら、1586~1632)が紀伊国から42万石に加増され、安芸及び備後半国の領主としてこの地に入城、以降藩政奉還まで広島城主として支配します。<br /><br /><br />現地で入手した広島城パンフレットによれば「広島城の歩み」と題する紹介は次の通りです。<br /><br />「 広 島 城 の 歩 み<br /><br /> 広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。<br /><br />『城地の選定と築城』<br />毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・政治の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日に鍬入式を行ないました。<br /><br />築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。<br /><br />『城下の整備』<br />慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ケ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道U(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。<br /><br />しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備がとがめられた正則は元和5年(1619)に芸備二ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一ヶ国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までのおおよそ250年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めました。<br /><br />『明治以降の広島城』<br />廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿も焼失し、大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同33年(1958)に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。」<br /><br />

安芸広島 関白秀吉に臣従し大坂城・聚楽第の壮大な姿に接し山城が時代遅れと覚った毛利輝元が軟弱地盤の三角州に手掛けた『広島城』訪問

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2017/01/08 - 2017/01/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

広島城(ひろしまじょう、広島県広島市中区基町)は広島市の中心部を流れる大田川(旧名佐東川)の軟弱地盤の三角州五箇(ごか)村に立地し、毛利元就(もうり・もとなり、1497~1571))の孫である毛利輝元(もうり・てるもと、1553~1625))が天正17年(1589)頃から慶長4年(1599)にかけて築いた平城で、豊臣秀吉の京都における居城であった聚楽第を参考にしたといわれています。

毛利氏の遠祖は鎌倉幕府の重鎮大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)でその子孫が安芸国吉田荘の地頭となって移住、南北朝時代から吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)を本拠とする国人領主として発展、中国地方の覇権を競って出雲国の尼子氏、周防及び長門国の大内氏に打ち勝った元就の時代に中国地方の大半を領地とする戦国大名に成長します。

慶長5年(1600)の関ケ原合戦後に毛利氏に代わって安芸・備後の領主として入城したのが福島正則(ふくしま・まさのり、1561~1624)で、外堀や外郭の整備を進め毛利氏が手掛けた広島城を完成させます。

しかしながら、台風による水害で破損した広島城の修築に際し幕府の許可を得なかったとして武家諸法度に違反するとして正則は元和5年(1619)に50万石の全知行地を没収され信濃国川中島へ転封、その後は浅野長晟(あさの・ながあきら、1586~1632)が紀伊国から42万石に加増され、安芸及び備後半国の領主としてこの地に入城、以降藩政奉還まで広島城主として支配します。


現地で入手した広島城パンフレットによれば「広島城の歩み」と題する紹介は次の通りです。

「 広 島 城 の 歩 み

 広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。

『城地の選定と築城』
毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・政治の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17年(1589)4月15日に鍬入式を行ないました。

築城工事は穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元側近)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。

『城下の整備』
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、輝元に代わって安芸・備後二ケ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道U(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。

しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備がとがめられた正則は元和5年(1619)に芸備二ヶ国を没収され、代わって和歌山から浅野長晟が安芸一ヶ国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までのおおよそ250年間、浅野氏が十二代にわたって広島城主を勤めました。

『明治以降の広島城』
廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿も焼失し、大天守、中・裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945)8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同33年(1958)に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 広島城北側<br /><br />JR新白島駅から広島城に向かい、城北通りから外堀を経て広島城本丸北西に位置する天守閣を望みます。

    広島城北側

    JR新白島駅から広島城に向かい、城北通りから外堀を経て広島城本丸北西に位置する天守閣を望みます。

  • 本丸連絡橋<br /><br />東側には車輌が入退できる程の橋を渡って本丸に入ります。

    本丸連絡橋

    東側には車輌が入退できる程の橋を渡って本丸に入ります。

  • 裏御門跡<br /><br />本丸の東側に配された城門跡で、現在残る櫓台石垣の間に門扉があって、その上部に渡り櫓が築かれています。

    裏御門跡

    本丸の東側に配された城門跡で、現在残る櫓台石垣の間に門扉があって、その上部に渡り櫓が築かれています。

  • 広島城見取図

    広島城見取図

  • 広島大本営跡<br /><br />明治27~28年における日清戦争の際、天皇が戦争を指揮するとして配された建物ですが原爆によって倒壊して礎石などが残っています。

    広島大本営跡

    明治27~28年における日清戦争の際、天皇が戦争を指揮するとして配された建物ですが原爆によって倒壊して礎石などが残っています。

  • 広島大本営跡説明板

    広島大本営跡説明板

  • 天守閣への道

    天守閣への道

  • 広島城天守閣<br /><br />原爆により破壊され、昭和33年(1958)鉄筋コンクリ-ト製にて復元されます。

    イチオシ

    広島城天守閣

    原爆により破壊され、昭和33年(1958)鉄筋コンクリ-ト製にて復元されます。

  • 本丸内堀<br /><br />北西設置の天守入口地点から堀幅が50mかと思われる堀を一望します。

    本丸内堀

    北西設置の天守入口地点から堀幅が50mかと思われる堀を一望します。

  • 市街展望<br /><br />天守閣最階の展望台から市街を望みます。

    市街展望

    天守閣最階の展望台から市街を望みます。

  • 市街展望

    市街展望

  • 天守閣礎石

    天守閣礎石

  • 「礎石について」説明板

    「礎石について」説明板

  • 史跡広島城跡説明板

    史跡広島城跡説明板

  • 史跡広島城跡見取図<br /><br />現在残されているのは本丸と二の丸だけでいずれも国の史跡となっています。

    史跡広島城跡見取図

    現在残されているのは本丸と二の丸だけでいずれも国の史跡となっています。

  • 本丸上段

    本丸上段

  • 本丸下段

    本丸下段

  • 本丸大手虎口<br /><br />二の丸に向かう途中には大手虎口が控えています。

    本丸大手虎口

    二の丸に向かう途中には大手虎口が控えています。

  • 本丸大手虎口<br /><br />振り返って二の丸側から本丸虎口を見渡します。

    本丸大手虎口

    振り返って二の丸側から本丸虎口を見渡します。

  • 本丸石垣<br /><br />本丸と二の丸を結ぶ橋から堀を通して本丸石垣を展望します。

    本丸石垣

    本丸と二の丸を結ぶ橋から堀を通して本丸石垣を展望します。

  • 本丸虎口

    本丸虎口

  • 本丸石垣

    本丸石垣

  • 二の丸太鼓櫓<br /><br />二の丸には復元された太鼓櫓が建てられています。

    二の丸太鼓櫓

    二の丸には復元された太鼓櫓が建てられています。

  • 二の丸・表御門<br /><br />

    二の丸・表御門

  • 二の丸跡<br /><br />石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出(うまだし:防御力を高めるため虎口の外側に築いた廓)機能を持ち広島城の特徴を有しています。<br /><br />

    二の丸跡

    石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出(うまだし:防御力を高めるため虎口の外側に築いた廓)機能を持ち広島城の特徴を有しています。

  • 二の丸跡説明板<br /><br /><br />

    二の丸跡説明板


  • 二の丸御門橋・表御門

    二の丸御門橋・表御門

  • 二の丸堀<br /><br />二の丸御門橋から堀を展望します。

    二の丸堀

    二の丸御門橋から堀を展望します。

  • 二の丸平櫓<br /><br />

    二の丸平櫓

  • 二の丸表御門(復元)説明板<br /><br />焼失以前の表御門写真が添付されています。

    二の丸表御門(復元)説明板

    焼失以前の表御門写真が添付されています。

  • 二の丸大手門

    二の丸大手門

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