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新日山安国寺不動院(ふどういん、広島県広島市東区牛田新町)は元の名は安国寺といい、戦国大名となった毛利家の外交僧として活躍、秀吉治世下では秀吉の交渉役としての功績により僧籍に属するも、伊予国和気郡を知行地とする2万3千石(後に加増され6万石)の大名に遇されます。<br /><br />関ケ原合戦では西軍が敗れ毛利元就の孫輝元(てるもと)を西軍の総大将にまつり上げる交渉を実現させたことにより首謀者の一人として京都六条河原にて斬首された安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい、1539?~1600))が住職を務めた寺院で、恵瓊が死亡した後は犯罪者扱いされたため安国寺の名を憚り『不動院』に改名したとされます。<br /><br />もともと恵瓊は八幡太郎義家を兄とする新羅三郎義光を遠祖とし、甲斐武田氏の流れを汲む鎌倉時代以来の安芸国守護を任じた武田氏一族に生まれ、父は安芸守護を務めた武田信重(たけだ・のぶしげ)と伝えられます。戦国時代では対立関係にあった大内氏の命を受けた毛利元就によって本拠の銀山城を攻められ当主信重は自害し武田氏が滅亡、信重嫡男竹若丸は家臣らに守られて脱出し太田川の対岸の安国寺に逃れて出家し命が救われます。<br /><br />後に竹若丸は京に上り東福寺の竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となり恵瓊(えけい)と名乗る事になりますが、毛利元就の長男である隆元(たかもと)と親交あった恵心は恵瓊の優秀さを見抜き彼を毛利家の外交交渉を担う外交僧に抜擢します。<br /><br /><br /><br />桜門に至る参道の途中に配されている掲示板には不動院内の見取図と共に歴史が次の通り記されています。<br /><br />「新日山安国寺 不動院の歴史<br /><br />新日山安国寺不動院は江戸時代の『新山雑記』では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。<br /><br />ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は足利尊氏、直義兄弟が日本六十余国に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。<br /><br />しかし、戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。<br /><br />当寺を復興したのが、戦国大名毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間この間当寺の伽藍復興に努め、金堂、桜門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ケ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。<br /><br />毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後、藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に入り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。<br /><br />原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして罹災を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。」

安芸広島 中国の太守毛利氏の外交僧として活躍し秀吉治世では大名に遇せられ関ケ原合戦で敗れ首謀者として斬首の安国時恵瓊ゆかりの『不動院』散歩

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2017/01/08 - 2017/01/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

新日山安国寺不動院(ふどういん、広島県広島市東区牛田新町)は元の名は安国寺といい、戦国大名となった毛利家の外交僧として活躍、秀吉治世下では秀吉の交渉役としての功績により僧籍に属するも、伊予国和気郡を知行地とする2万3千石(後に加増され6万石)の大名に遇されます。

関ケ原合戦では西軍が敗れ毛利元就の孫輝元(てるもと)を西軍の総大将にまつり上げる交渉を実現させたことにより首謀者の一人として京都六条河原にて斬首された安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい、1539?~1600))が住職を務めた寺院で、恵瓊が死亡した後は犯罪者扱いされたため安国寺の名を憚り『不動院』に改名したとされます。

もともと恵瓊は八幡太郎義家を兄とする新羅三郎義光を遠祖とし、甲斐武田氏の流れを汲む鎌倉時代以来の安芸国守護を任じた武田氏一族に生まれ、父は安芸守護を務めた武田信重(たけだ・のぶしげ)と伝えられます。戦国時代では対立関係にあった大内氏の命を受けた毛利元就によって本拠の銀山城を攻められ当主信重は自害し武田氏が滅亡、信重嫡男竹若丸は家臣らに守られて脱出し太田川の対岸の安国寺に逃れて出家し命が救われます。

後に竹若丸は京に上り東福寺の竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となり恵瓊(えけい)と名乗る事になりますが、毛利元就の長男である隆元(たかもと)と親交あった恵心は恵瓊の優秀さを見抜き彼を毛利家の外交交渉を担う外交僧に抜擢します。



桜門に至る参道の途中に配されている掲示板には不動院内の見取図と共に歴史が次の通り記されています。

「新日山安国寺 不動院の歴史

新日山安国寺不動院は江戸時代の『新山雑記』では、当寺の開基は僧空窓であると伝えられていますが、創建の時代や由緒については判然としていません。

ただ金堂内に安置されている本尊薬師如来が定朝様式であることから、当寺は平安時代には創建されていたと推察されています。当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は足利尊氏、直義兄弟が日本六十余国に設立した安国寺の一寺であったことに由来します。以後、安芸安国寺として、又、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄しました。

しかし、戦国時代の大永年間(1521~27)、武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼け落ちてしまいました。その後五十年は藁屋に本尊薬師如来を安置する有様であったと記録されています。

当寺を復興したのが、戦国大名毛利氏の外交僧として、又、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊です。恵瓊はこの間この間当寺の伽藍復興に努め、金堂、桜門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めました。しかし、関ケ原の合戦で西軍に組した恵瓊は非業の死をとげ、毛利氏も防長二国に国替えとなりました。恵瓊なき後、寺領は没収となり、寺運は次第に衰えてゆきました。

毛利氏が去った後、福島正則が芸備両国四十九万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍が入り、住持となりました。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称しました。後に当寺全体を不動院と称するようになりました。正則公の治世は二十年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主として広島に入りました。以後、藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続きました。やがて明治に入り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となりました。

原子爆弾投下に際しても地理的条件が幸いして罹災を免れ、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっています。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル
  • 不動院入口<br /><br />所在地は広島市の国道54号が分かれた祇園新道側の太田川にかかる祇園新橋にあり、アクセスは広島高速交通(通称:アストラムライン)不動院前下車して徒歩2分の地にあります。<br /><br />

    不動院入口

    所在地は広島市の国道54号が分かれた祇園新道側の太田川にかかる祇園新橋にあり、アクセスは広島高速交通(通称:アストラムライン)不動院前下車して徒歩2分の地にあります。

  • 不動院・桜門

    不動院・桜門

  • 不動院・案内板<br /><br />桜門に向かう参道の途中に不動院の見取図と歴史を説明する案内板が配されています。

    不動院・案内板

    桜門に向かう参道の途中に不動院の見取図と歴史を説明する案内板が配されています。

  • 「新日山安国寺 不動院の歴史」説明板

    「新日山安国寺 不動院の歴史」説明板

  • 新日山安国寺 不動院の案内

    新日山安国寺 不動院の案内

  • 不動院の文化財紹介

    不動院の文化財紹介

  • 不動院・楼門(重要文化財)<br /><br />この門は文禄3年(1594)に建てられたもので、秀吉の朝鮮出兵に軍監として現地に派遣され恵瓊が朝鮮から材木を持帰って建てたそうです。<br />

    不動院・楼門(重要文化財)

    この門は文禄3年(1594)に建てられたもので、秀吉の朝鮮出兵に軍監として現地に派遣され恵瓊が朝鮮から材木を持帰って建てたそうです。

  • 「国宝重要文化財 別格本山 不動院」石標

    「国宝重要文化財 別格本山 不動院」石標

  • 不動院金堂(国宝)<br /><br />この金堂は山口に本拠を置く大内氏の菩提寺である禅宗寺院凌雲寺にあったもので、その後大内氏は毛利氏に攻められて没落し廃寺となったため、この寺の住職であった安国寺恵瓊が天正年間(1573~1592)この地に移築したと言われています。

    イチオシ

    不動院金堂(国宝)

    この金堂は山口に本拠を置く大内氏の菩提寺である禅宗寺院凌雲寺にあったもので、その後大内氏は毛利氏に攻められて没落し廃寺となったため、この寺の住職であった安国寺恵瓊が天正年間(1573~1592)この地に移築したと言われています。

  • 本堂(近景)

    本堂(近景)

  • 鐘楼堂(重要文化財)<br /><br />境内には室町時代中期に建てられたという鐘楼があります。

    鐘楼堂(重要文化財)

    境内には室町時代中期に建てられたという鐘楼があります。

  • 不動院本堂

    不動院本堂

  • 安国寺恵瓊らが眠る墓地

    安国寺恵瓊らが眠る墓地

  • 恵瓊らの供養塔案内板

    恵瓊らの供養塔案内板

  • 豊臣秀吉遺髪塔

    豊臣秀吉遺髪塔

  • 豊臣秀吉の遺髪塔(近景)

    豊臣秀吉の遺髪塔(近景)

  • 武田刑部少輔之墓<br /><br />永正14年(1517)有田中井出の戦いで元繁が死亡、刑部少輔である光和が家督を継ぎ、父親の遺志を継ぎ尼子氏と同盟のもと大内氏と敵対関係を続け、大内氏の意を受けた毛利氏としばしば抗争しています。

    武田刑部少輔之墓

    永正14年(1517)有田中井出の戦いで元繁が死亡、刑部少輔である光和が家督を継ぎ、父親の遺志を継ぎ尼子氏と同盟のもと大内氏と敵対関係を続け、大内氏の意を受けた毛利氏としばしば抗争しています。

  • 安国時恵瓊の墓

    安国時恵瓊の墓

  • 福島正則供養塔<br /><br />秀吉の恩顧でありながら石田三成と敵対し、関ケ原合戦では家康方の先鋒として活躍、戦後は表向き戦功とされながら尾張清洲から安芸広島に遠ざけられ、晩年は芸備50万石を没収され信濃川中島に減封転封、正則は同地にて没となっています。

    福島正則供養塔

    秀吉の恩顧でありながら石田三成と敵対し、関ケ原合戦では家康方の先鋒として活躍、戦後は表向き戦功とされながら尾張清洲から安芸広島に遠ざけられ、晩年は芸備50万石を没収され信濃川中島に減封転封、正則は同地にて没となっています。

  • 境内風景

    境内風景

  • 不動堂(護摩堂)

    不動堂(護摩堂)

  • 弘法大師立像<br /><br />境内に配された弘法大師から真言宗の寺院ですが、福島正則入城以前は禅宗とされていました。

    弘法大師立像

    境内に配された弘法大師から真言宗の寺院ですが、福島正則入城以前は禅宗とされていました。

  • 不動院・境内<br /><br />境内から不動院入口方向を一望します。参道を囲む左右は住居が並びかつての広大な寺域は失われています。

    不動院・境内

    境内から不動院入口方向を一望します。参道を囲む左右は住居が並びかつての広大な寺域は失われています。

  • 被爆建物・説明板<br /><br />昭和20年(1945)の原爆投下では爆心地から約4Kmにあったにもかかわらずその原形を守っている旨記載されています。

    被爆建物・説明板

    昭和20年(1945)の原爆投下では爆心地から約4Kmにあったにもかかわらずその原形を守っている旨記載されています。

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