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岩国城(いわくにじょう、山口県岩国市横山)は毛利元就の二男元春(もとはる、1530~1586)が吉川家を継ぎ、その二男で関ケ原合戦後出雲国月山富田城から移封された吉川広家(きっかわ・ひろいえ、1561~1625)が横山の頂上に造った山城で慶長13年(1608)完成させますが、元和元年(1615)に『一国一城の令』適用を受けて廃城となり、以降麓の政庁にて藩政がなされた経緯があります。<br /><br />関ケ原合戦が起こる前、西軍の総大将に主家の毛利輝元(もうり・てるもと、1553~1625)を担ぐという石田三成の策に同心した安国寺恵瓊(あんbこくじ・えけい、1539~1600)らの働きかけに反発した吉川広家は、輝元を説得して東軍に加担するよう働きかけるも実現できず、遂に内密で東軍に内応し毛利所領の安堵を取りつけ、同合戦では南宮山に布陣するも軍勢を動かさず、その為東軍勝利に貢献しますが、逆に西軍に与した各大名らは厳しく改易に処されます。<br /><br />戦後大坂城にて発見された西軍の数々の連判状には輝元の花押が散見され、責任追及せざるを得ずとして毛利家の本領安堵の密約は反古にされ毛利領は没収のうえ改易、そして同時に吉川広家に対しては周防・長門の二国を与えるとの沙汰が発せられます。<br /><br />これに対して広家は毛利本家の存続のため家康に対し起請文を提出した結果、家康から広家の願いを考慮して輝元に対して広家に付与されるはずであった周防・長門の二国を毛利本家に安堵する旨の起請文が差し出されます。<br /><br />かくして広家の働きかけによって改易を免れた毛利家は安芸国を中心とする山陽・山陰の112万石の大大名から防長二国の36万9千石へと大幅減封を甘んずる事になります。<br /><br />防長に閉じ込められた毛利氏は長門国萩に新城を築き拠点とし、長府及び徳山を分家として支藩と認めるも岩国の吉川領については支藩とせずあくまでも家臣として扱われます<br /><br />上述の如く毛利本家からの冷遇に反して幕府からは江戸に藩邸を構え参勤交代も行われるという大名として遇せられ、更に岩国の地に築城が許されるに至り、吉川広家に対する厚遇ぶりが顕著であったがため以後の吉川氏の動きが微妙な立場となったようです。<br /><br /><br /><br />現地で入手したパンフレットでは岩国城の沿革について下記の通り記載されています。<br /><br /><br />「城下町岩国の沿革<br /><br />岩国地方には、平安末期に「岩国氏」と称する「平家」に属する一族がいて、相当の勢力をもっていましたが、寿永4年(1185)「壇ノ浦合戦」で阿蘇の地位を失いました。之に代わって勢力をふるったのが「弘中氏」で、鎌倉時代末期には周防国守護職であった「大内氏」の武将となっていました。しかし、弘治元年(1555)「厳島戦争」で毛利元就に敗れ滅亡しました。<br /><br />戦国時代末期、中国地方のほとんど(8か国3郡)を領有し、112万石の大大名となった「毛利氏」も、慶長5年(1600)、「関ケ原の役」ののち、防長二国に減封され、出雲の国富田城(12万石)にあった「吉川広家」も岩国3万石(のち6万石)に転封されました。吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、もともと関東が地盤でした。「吉川氏」の始祖「経義」は駿河の国に始まり、正和2年(1313)5代「経高」は安芸国に移り、13代271年の間活躍しました。<br /><br />なお、初代岩国藩主「吉川広家」は、サンフレッチェ(3本の矢)の教訓状を書いた「毛利元就」の子「元春(吉川氏の養子)」の三男にあたります。<br /><br />岩国藩は271年の間、藩政の方針として、文武両道の振興と人材育成、ン文化の向上につとめ、なお、2000余町歩に及ぶ大干拓を行い、産業の振興、勤勉貯蓄の美風に努めました。<br /><br />この結果、岩国藩の石高は、幕末には実質10万石以上と言われる程になりました。」<br /><br /><br />また同パンフレットにも「非運の岩国城」と題する説明文が掲載されています。<br /><br />「非運の岩国城<br /><br />岩国に移った「吉川広家」は、要衛の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、慶長8年(1603)に山頂の起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成しました。横山の三方を迂回する錦川は天然の外堀で、川向こうに町割を行い、城下町が形成されていきました。<br /><br />緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃山風南蛮造りの山城で、藩の象徴として仰がれていましたが、元和元年(1615)、幕府の『一国一城令』により、完成からわずか7年で破却の運命に見舞われました。<br /><br />以来、山下の居館だけで藩政が行われました。<br />第2次世界大戦後、岩国城再建の動きが活発になり、昭和32年には遠く「ハワイ岩国市人会」をはじめ、市民より多額の募金が寄せられ、復元されることになりました。<br /><br />          起工 昭和36年3月12日<br />          竣工 昭和37年3月21日<br /><br />再建された岩国城は、錦帯橋付近からの景観を考え、本丸南側に移動させました。」<br />

周防岩国 関ケ原敗戦で毛利氏の所領没収を家康に断念させた毛利元就孫吉川広家が山頂に築城するも「一国一城令」で7年後に破却した『岩国城』訪問

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2017/01/08 - 2017/01/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

岩国城(いわくにじょう、山口県岩国市横山)は毛利元就の二男元春(もとはる、1530~1586)が吉川家を継ぎ、その二男で関ケ原合戦後出雲国月山富田城から移封された吉川広家(きっかわ・ひろいえ、1561~1625)が横山の頂上に造った山城で慶長13年(1608)完成させますが、元和元年(1615)に『一国一城の令』適用を受けて廃城となり、以降麓の政庁にて藩政がなされた経緯があります。

関ケ原合戦が起こる前、西軍の総大将に主家の毛利輝元(もうり・てるもと、1553~1625)を担ぐという石田三成の策に同心した安国寺恵瓊(あんbこくじ・えけい、1539~1600)らの働きかけに反発した吉川広家は、輝元を説得して東軍に加担するよう働きかけるも実現できず、遂に内密で東軍に内応し毛利所領の安堵を取りつけ、同合戦では南宮山に布陣するも軍勢を動かさず、その為東軍勝利に貢献しますが、逆に西軍に与した各大名らは厳しく改易に処されます。

戦後大坂城にて発見された西軍の数々の連判状には輝元の花押が散見され、責任追及せざるを得ずとして毛利家の本領安堵の密約は反古にされ毛利領は没収のうえ改易、そして同時に吉川広家に対しては周防・長門の二国を与えるとの沙汰が発せられます。

これに対して広家は毛利本家の存続のため家康に対し起請文を提出した結果、家康から広家の願いを考慮して輝元に対して広家に付与されるはずであった周防・長門の二国を毛利本家に安堵する旨の起請文が差し出されます。

かくして広家の働きかけによって改易を免れた毛利家は安芸国を中心とする山陽・山陰の112万石の大大名から防長二国の36万9千石へと大幅減封を甘んずる事になります。

防長に閉じ込められた毛利氏は長門国萩に新城を築き拠点とし、長府及び徳山を分家として支藩と認めるも岩国の吉川領については支藩とせずあくまでも家臣として扱われます

上述の如く毛利本家からの冷遇に反して幕府からは江戸に藩邸を構え参勤交代も行われるという大名として遇せられ、更に岩国の地に築城が許されるに至り、吉川広家に対する厚遇ぶりが顕著であったがため以後の吉川氏の動きが微妙な立場となったようです。



現地で入手したパンフレットでは岩国城の沿革について下記の通り記載されています。


「城下町岩国の沿革

岩国地方には、平安末期に「岩国氏」と称する「平家」に属する一族がいて、相当の勢力をもっていましたが、寿永4年(1185)「壇ノ浦合戦」で阿蘇の地位を失いました。之に代わって勢力をふるったのが「弘中氏」で、鎌倉時代末期には周防国守護職であった「大内氏」の武将となっていました。しかし、弘治元年(1555)「厳島戦争」で毛利元就に敗れ滅亡しました。

戦国時代末期、中国地方のほとんど(8か国3郡)を領有し、112万石の大大名となった「毛利氏」も、慶長5年(1600)、「関ケ原の役」ののち、防長二国に減封され、出雲の国富田城(12万石)にあった「吉川広家」も岩国3万石(のち6万石)に転封されました。吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、もともと関東が地盤でした。「吉川氏」の始祖「経義」は駿河の国に始まり、正和2年(1313)5代「経高」は安芸国に移り、13代271年の間活躍しました。

なお、初代岩国藩主「吉川広家」は、サンフレッチェ(3本の矢)の教訓状を書いた「毛利元就」の子「元春(吉川氏の養子)」の三男にあたります。

岩国藩は271年の間、藩政の方針として、文武両道の振興と人材育成、ン文化の向上につとめ、なお、2000余町歩に及ぶ大干拓を行い、産業の振興、勤勉貯蓄の美風に努めました。

この結果、岩国藩の石高は、幕末には実質10万石以上と言われる程になりました。」


また同パンフレットにも「非運の岩国城」と題する説明文が掲載されています。

「非運の岩国城

岩国に移った「吉川広家」は、要衛の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、慶長8年(1603)に山頂の起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成しました。横山の三方を迂回する錦川は天然の外堀で、川向こうに町割を行い、城下町が形成されていきました。

緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃山風南蛮造りの山城で、藩の象徴として仰がれていましたが、元和元年(1615)、幕府の『一国一城令』により、完成からわずか7年で破却の運命に見舞われました。

以来、山下の居館だけで藩政が行われました。
第2次世界大戦後、岩国城再建の動きが活発になり、昭和32年には遠く「ハワイ岩国市人会」をはじめ、市民より多額の募金が寄せられ、復元されることになりました。

          起工 昭和36年3月12日
          竣工 昭和37年3月21日

再建された岩国城は、錦帯橋付近からの景観を考え、本丸南側に移動させました。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • 錦帯橋<br /><br />JR岩国駅からバスで約15分、錦川を渡る錦帯橋は五連の木橋で日本三大橋に数えられています。

    錦帯橋

    JR岩国駅からバスで約15分、錦川を渡る錦帯橋は五連の木橋で日本三大橋に数えられています。

  • 岩国城跡<br /><br />あいにくの雨天ですが錦帯橋を通して横山山頂に建つ岩国城微かにが見えます。

    岩国城跡

    あいにくの雨天ですが錦帯橋を通して横山山頂に建つ岩国城微かにが見えます。

  • 名勝 錦帯橋<br /><br />錦川に臨む傍らには「名勝 錦帯橋」の説明板が建てられています。

    名勝 錦帯橋

    錦川に臨む傍らには「名勝 錦帯橋」の説明板が建てられています。

  • 錦帯橋・説明板

    錦帯橋・説明板

  • 錦帯橋<br /><br />錦帯橋は山口最大の河川である錦川にかかっている五連の木像橋で、延宝元年(1673)に第三代藩主吉川広嘉によって建てられています。しかし翌年5月に梅雨の洪水によって流失、同年10月に改良された二代目の錦帯橋が完成します。<br />昭和25年(1950)9月岩国を襲った台風により2度目の流失を経験しています。<br /><br />

    錦帯橋

    錦帯橋は山口最大の河川である錦川にかかっている五連の木像橋で、延宝元年(1673)に第三代藩主吉川広嘉によって建てられています。しかし翌年5月に梅雨の洪水によって流失、同年10月に改良された二代目の錦帯橋が完成します。
    昭和25年(1950)9月岩国を襲った台風により2度目の流失を経験しています。

  • 錦川下流

    錦川下流

  • 錦帯橋と錦川

    錦帯橋と錦川

  • 錦帯橋

    錦帯橋

  • 錦川下流<br /><br />錦帯橋の中央部から錦川の下流を一望します。

    錦川下流

    錦帯橋の中央部から錦川の下流を一望します。

  • 吉香公園<br /><br />旧吉川氏の居館跡を明治維新後に整備して、後に旧岩国高校跡を併せ、昭和48年(1973)に現在の城山を背景にした公園を実現させました。

    吉香公園

    旧吉川氏の居館跡を明治維新後に整備して、後に旧岩国高校跡を併せ、昭和48年(1973)に現在の城山を背景にした公園を実現させました。

  • 吉川広嘉立像<br /><br />錦帯橋を造った偉業を讃えて岩国藩三代藩主吉川広嘉(きっかわ・ひろよし)の立像があります。

    吉川広嘉立像

    錦帯橋を造った偉業を讃えて岩国藩三代藩主吉川広嘉(きっかわ・ひろよし)の立像があります。

  • 吉香公園絵図

    吉香公園絵図

  • 吉香公園<br /><br />関ケ原合戦後、本家の毛利氏減封に伴い、慶長5年(1600)一門の吉川広家は出雲・石見・伯耆の12万石から岩国3万石(後に6万石)に転封、慶長7年(1602)から錦川を天然の守りとする横山の麓に居館を構え、翌年には横山山頂に本丸・二ノ丸・北ノ丸を築城、更に本丸北隅には天守を配します。

    吉香公園

    関ケ原合戦後、本家の毛利氏減封に伴い、慶長5年(1600)一門の吉川広家は出雲・石見・伯耆の12万石から岩国3万石(後に6万石)に転封、慶長7年(1602)から錦川を天然の守りとする横山の麓に居館を構え、翌年には横山山頂に本丸・二ノ丸・北ノ丸を築城、更に本丸北隅には天守を配します。

  • ロ-プウェイ山麓駅<br /><br />横山頂上に建つ岩国城と連絡するロ-プウェイの駅があります。錦帯橋・ロ-プウェイ・岩国城をセットした券(¥950)にて岩国城に向かいます。標高約200mの山頂駅まで所要時間は約3分で到着します。

    ロ-プウェイ山麓駅

    横山頂上に建つ岩国城と連絡するロ-プウェイの駅があります。錦帯橋・ロ-プウェイ・岩国城をセットした券(¥950)にて岩国城に向かいます。標高約200mの山頂駅まで所要時間は約3分で到着します。

  • 大釣井<br /><br />ロ-プウェイで横山山頂に着き、そこから天守に向けて歩く途中に「大釣井」なるものがあります。

    大釣井

    ロ-プウェイで横山山頂に着き、そこから天守に向けて歩く途中に「大釣井」なるものがあります。

  • 大釣井(近景)<br /><br />井戸の傍に配された説明板には次のように記載されています。<br /><br />「慶長13年(1609)築城と同時に造られたもので非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられています」

    大釣井(近景)

    井戸の傍に配された説明板には次のように記載されています。

    「慶長13年(1609)築城と同時に造られたもので非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられています」

  • 大釣井説明板

    大釣井説明板

  • 岩国城旧天守台<br /><br />旧天守台に関する説明板には下記の通り記されています。<br /><br />「岩国城旧天守台について<br /><br />岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。<br /><br />城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。<br /><br />天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の隅石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる」<br /><br /><br /><br />

    岩国城旧天守台

    旧天守台に関する説明板には下記の通り記されています。

    「岩国城旧天守台について

    岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城令により破却された。

    城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。

    天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の隅石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる」



  • 岩国城跡旧天守台<br /><br />修復または復元された旧天守台石垣が認められます。

    岩国城跡旧天守台

    修復または復元された旧天守台石垣が認められます。

  • 岩国城跡旧天守台・説明板

    岩国城跡旧天守台・説明板

  • 岩国城跡旧天守台説明板(近景)<br /><br />「 岩国城跡旧天守台について<br /><br />岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城により破却された。<br /><br />城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。<br /><br />天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの医師からなり、隅部の角石(すみいし)は算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ一直線上に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造学上の安全性に重点を置いた造理になっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。」

    岩国城跡旧天守台説明板(近景)

    「 岩国城跡旧天守台について

    岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和(げんな)元年(1615)一国一城により破却された。

    城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。

    天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの医師からなり、隅部の角石(すみいし)は算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反(そ)りはなく、ほぼ一直線上に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造学上の安全性に重点を置いた造理になっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。」

  • 岩国城旧天守台(遠景)<br />

    岩国城旧天守台(遠景)

  • 岩国城<br /><br />昭和36年(1961)に復元された3層4階で展望を付した復興天守はもともと天守台より東へ約50m離れた展望が優れた場所に建てられています。ロ-プウェイ山頂駅から天守まで徒歩約5分の距離にあります。

    イチオシ

    岩国城

    昭和36年(1961)に復元された3層4階で展望を付した復興天守はもともと天守台より東へ約50m離れた展望が優れた場所に建てられています。ロ-プウェイ山頂駅から天守まで徒歩約5分の距離にあります。

  • 岩国城

    イチオシ

    岩国城

  • 城郭案内図

    城郭案内図

  • 錦川と錦帯橋<br /><br />岩国城展望階から蛇行する錦川と錦帯橋を一望します。

    錦川と錦帯橋

    岩国城展望階から蛇行する錦川と錦帯橋を一望します。

  • 錦帯橋

    イチオシ

    錦帯橋

  • 吉香公園

    吉香公園

  • 本丸跡石垣

    本丸跡石垣

  • 土橋<br /><br />手前の郭(本丸)と左側の郭(北の丸)とを遮断する堀切を繋ぐ土橋が見えます。<br /><br />

    土橋

    手前の郭(本丸)と左側の郭(北の丸)とを遮断する堀切を繋ぐ土橋が見えます。

  • 深い堀切(空堀)<br /><br />手前の郭に沿って堀切(空堀)を見ながら進みます。

    深い堀切(空堀)

    手前の郭に沿って堀切(空堀)を見ながら進みます。

  • 堀切<br /><br />土橋の途中からから空堀状の堀切を一望します。

    堀切

    土橋の途中からから空堀状の堀切を一望します。

  • 堀堀<br /><br />更に土橋からもう一方の堀切(空堀)を見渡します。

    堀堀

    更に土橋からもう一方の堀切(空堀)を見渡します。

  • 北の丸跡

    北の丸跡

  • 北の丸跡

    北の丸跡

  • 岩国城石垣

    岩国城石垣

  • 城山案内図

    城山案内図

  • 大手門跡

    大手門跡

  • 岩国城天守<br /><br />二の丸跡から岩国城天守を見上げます。

    岩国城天守

    二の丸跡から岩国城天守を見上げます。

  • 岩国市街展望<br /><br />ロ-プウェイ山頂駅付近からの展望は雨天のため市街展望は望めません。

    岩国市街展望

    ロ-プウェイ山頂駅付近からの展望は雨天のため市街展望は望めません。

  • 岩国パノラマ写真地図<br /><br />参考として大型パノラマ写真地図が建てられ市街の景色がよくわかります。

    岩国パノラマ写真地図

    参考として大型パノラマ写真地図が建てられ市街の景色がよくわかります。

  • 吉香公園

    吉香公園

  • 吉川資料館

    吉川資料館

  • 吉川資料館

    吉川資料館

  • 「名称 昌明館付属屋及び門」標柱

    「名称 昌明館付属屋及び門」標柱

  • 昌明館付属屋及び門説明

    昌明館付属屋及び門説明

  • 佐々木小次郎像

    佐々木小次郎像

  • 錦帯橋<br /><br />今度は吉香公園側から錦帯橋を展望します。

    錦帯橋

    今度は吉香公園側から錦帯橋を展望します。

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