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旧吉川氏居館跡の奥には寺院の庭園を公園化した「紅葉谷公園」がありそのなかに初代吉川広家(きっかわ・ひろいえ、1561~1625)から6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓があります。<br /><br />そもそも吉川氏は本姓藤原氏、武智麻呂の後裔と称され武智麻呂十五代の孫に経義がが出て、駿河国有度郡吉川郷(現在の静岡県清水市)に居住したことから吉川氏と称します。二代友兼は鎌倉時代初期に謀反を起した梶原景時(かじわら・かげとき)が京都に向けて出奔する途中、駿河の狐ケ崎にてこれを討取りその名を挙げます。<br /><br />その功によって傷を被って死去した父に代わって息子の朝経は播磨国福井荘(現在の兵庫県姫路市)の地頭職に補されます。<br /><br />更に承久の乱では四代経光は執権北条氏に属して武功を挙げ、安芸国大朝本荘の地頭職を与えられ、これまでの駿河・播磨と共に勢力を拡大させ、正和2年(1313)経高の代に駿河から大朝本荘に本拠を移し安芸の国人として成長します。<br /><br />大朝本荘は安芸国の石見国よりに在しているため戦国時代は尼子氏との関係が強く毛利元就の妹を嫁に迎えた元経(もとつね、1459~1522)は大内氏に従属した毛利氏とは敵対関係が続きます。<br /><br />しかしながら天文9年(1540)における尼子詮久の率いる3万の軍勢は毛利氏本拠である吉田郡山城攻略した際、大内義隆の援軍の活躍により敗退、これを機に吉川氏は毛利方に接近し次第に連携を深めます。<br /><br />ところが天文11年(1542)、大内義隆による尼子氏本拠出雲国月山冨田城攻略に従軍した元就は元経の子興経は裏切られるなどで大内軍は大敗、これに危機感を抱いた元就は興経に不満を持つ吉川氏家中に働きかけて興経を隠居にに追い込み、その後に二男の元春(もとはる、1530~1586)を養子として送り込むことに成功します。<br /><br />かくして安芸石見国境地帯に勢力を有する吉川氏は毛利一族となり、以後三男隆景の小早川氏と並んで宗家毛利氏を支える「毛利両川」と呼ばれることになります。<br /><br />後に薩摩国島津氏征伐のため従軍中の元春と長男元長は急死したため三男広家が家督を継ぎ天正19年(1591)秀吉命により月山富田城に入り出雲・伯耆・隠岐・安芸で14万石の所領を支配することになります。<br /><br />慶長5年(1600)の関ケ原の戦にで、宗主毛利輝元は西軍の盟主に担がれますが、家康の東軍の勝利を予測した広家は密かに家康に内通し宗家毛利氏の存続を図りますが、戦後は毛利氏の改易は免れたものの防長二国の29万8千石に大幅減封され、広家はその内3万石(後に6万石)が与えられ吉川氏は岩国領藩主として明治維新まで続くことなります。<br /><br /><br />墓所入口を入った所に配された案内板には次の通り説明が記されています。<br /><br /><br />「岩国藩主 吉川家墓所<br /><br />岩国藩主吉川家墓所は、岩国藩3万石(後に6万石)を領有した吉川家一族の墓所です。<br /><br />墓所内には、6代藩主経永を除く藩主の墓と妻子の墓や石灯籠・手水鉢があり大名の墓所を知る上での貴重な史跡として、昭和63年(1988)3月29日に山口県の史跡に指定されました。<br /><br />吉川家は、元春が養子に入ってから、毛利家の縁戚となり、慶長5年(1600)の「関ケ原の戦」以後、約270年にわたり、岩国藩主を継承しました。また、その一方で岩国文化の発展にも力を注ぎ、岩国の基礎を築き上げました。」

周防岩国 鎌倉幕府御家人後裔で安芸北部国人から発展し毛利両川の一翼を担い関ヶ原合戦では家康と内通して敗戦後の毛利家を救った『吉川家墓所』訪問

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2017/01/08 - 2017/01/08

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滝山氏照

滝山氏照さん

旧吉川氏居館跡の奥には寺院の庭園を公園化した「紅葉谷公園」がありそのなかに初代吉川広家(きっかわ・ひろいえ、1561~1625)から6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓があります。

そもそも吉川氏は本姓藤原氏、武智麻呂の後裔と称され武智麻呂十五代の孫に経義がが出て、駿河国有度郡吉川郷(現在の静岡県清水市)に居住したことから吉川氏と称します。二代友兼は鎌倉時代初期に謀反を起した梶原景時(かじわら・かげとき)が京都に向けて出奔する途中、駿河の狐ケ崎にてこれを討取りその名を挙げます。

その功によって傷を被って死去した父に代わって息子の朝経は播磨国福井荘(現在の兵庫県姫路市)の地頭職に補されます。

更に承久の乱では四代経光は執権北条氏に属して武功を挙げ、安芸国大朝本荘の地頭職を与えられ、これまでの駿河・播磨と共に勢力を拡大させ、正和2年(1313)経高の代に駿河から大朝本荘に本拠を移し安芸の国人として成長します。

大朝本荘は安芸国の石見国よりに在しているため戦国時代は尼子氏との関係が強く毛利元就の妹を嫁に迎えた元経(もとつね、1459~1522)は大内氏に従属した毛利氏とは敵対関係が続きます。

しかしながら天文9年(1540)における尼子詮久の率いる3万の軍勢は毛利氏本拠である吉田郡山城攻略した際、大内義隆の援軍の活躍により敗退、これを機に吉川氏は毛利方に接近し次第に連携を深めます。

ところが天文11年(1542)、大内義隆による尼子氏本拠出雲国月山冨田城攻略に従軍した元就は元経の子興経は裏切られるなどで大内軍は大敗、これに危機感を抱いた元就は興経に不満を持つ吉川氏家中に働きかけて興経を隠居にに追い込み、その後に二男の元春(もとはる、1530~1586)を養子として送り込むことに成功します。

かくして安芸石見国境地帯に勢力を有する吉川氏は毛利一族となり、以後三男隆景の小早川氏と並んで宗家毛利氏を支える「毛利両川」と呼ばれることになります。

後に薩摩国島津氏征伐のため従軍中の元春と長男元長は急死したため三男広家が家督を継ぎ天正19年(1591)秀吉命により月山富田城に入り出雲・伯耆・隠岐・安芸で14万石の所領を支配することになります。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦にで、宗主毛利輝元は西軍の盟主に担がれますが、家康の東軍の勝利を予測した広家は密かに家康に内通し宗家毛利氏の存続を図りますが、戦後は毛利氏の改易は免れたものの防長二国の29万8千石に大幅減封され、広家はその内3万石(後に6万石)が与えられ吉川氏は岩国領藩主として明治維新まで続くことなります。


墓所入口を入った所に配された案内板には次の通り説明が記されています。


「岩国藩主 吉川家墓所

岩国藩主吉川家墓所は、岩国藩3万石(後に6万石)を領有した吉川家一族の墓所です。

墓所内には、6代藩主経永を除く藩主の墓と妻子の墓や石灯籠・手水鉢があり大名の墓所を知る上での貴重な史跡として、昭和63年(1988)3月29日に山口県の史跡に指定されました。

吉川家は、元春が養子に入ってから、毛利家の縁戚となり、慶長5年(1600)の「関ケ原の戦」以後、約270年にわたり、岩国藩主を継承しました。また、その一方で岩国文化の発展にも力を注ぎ、岩国の基礎を築き上げました。」

交通手段
高速・路線バス JRローカル

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  • 吉川家墓所入口

    吉川家墓所入口

  • 吉川家墓所・説明板

    吉川家墓所・説明板

  • 墓所案内図

    墓所案内図

  • 八代藩主吉川経忠・墓石<br /><br />八代藩主である吉川経忠(きっかわ・つねただ、1766~1803)と経忠正室喬松院(きょうしょういん)の墓石が見えます。

    八代藩主吉川経忠・墓石

    八代藩主である吉川経忠(きっかわ・つねただ、1766~1803)と経忠正室喬松院(きょうしょういん)の墓石が見えます。

  • 経忠及び喬松院墓標

    経忠及び喬松院墓標

  • 十二代藩主吉川経幹(きっかわ・つねまさ、1829~1867)墓石<br /><br /><br /><br />

    十二代藩主吉川経幹(きっかわ・つねまさ、1829~1867)墓石



  • 十二代藩主吉川経幹墓標

    十二代藩主吉川経幹墓標

  • 初代藩主吉川広家・墓所<br /><br />広家の墓は吉川家墓所の奥の石段を登った所にあります。

    初代藩主吉川広家・墓所

    広家の墓は吉川家墓所の奥の石段を登った所にあります。

  • 初代藩主吉川広家・墓標

    初代藩主吉川広家・墓標

  • 初代藩主吉川広家墓所・入口<br /><br />さすがに初代藩主だけあって特別に石柵で囲まれています。

    初代藩主吉川広家墓所・入口

    さすがに初代藩主だけあって特別に石柵で囲まれています。

  • 初代藩主吉川広家・墓石<br /><br />歴代の墓石に比してシンプルな墓石となっています。

    初代藩主吉川広家・墓石

    歴代の墓石に比してシンプルな墓石となっています。

  • 初代藩主吉川広家・墓標

    初代藩主吉川広家・墓標

  • みみずくの手水鉢<br /><br />広家の墓石の脇には「みみずくの手水鉢」が置かれています。丹羽長秀の家臣で茶人でもあった上田宗箇より広家が贈った桜の返礼として贈られたものです。

    みみずくの手水鉢

    広家の墓石の脇には「みみずくの手水鉢」が置かれています。丹羽長秀の家臣で茶人でもあった上田宗箇より広家が贈った桜の返礼として贈られたものです。

  • 「みみずくの手水鉢」説明板

    「みみずくの手水鉢」説明板

  • 初代藩主吉川広家・墓所(全景)

    初代藩主吉川広家・墓所(全景)

  • 吉川家墓所・説明板

    吉川家墓所・説明板

  • 吉川元春正室の墓石<br /><br />岩国藩初代藩主吉川広家の生母にあたる慈光院の墓石も見られます。

    吉川元春正室の墓石

    岩国藩初代藩主吉川広家の生母にあたる慈光院の墓石も見られます。

  • 慈光院墓標

    慈光院墓標

  • 十代藩主吉川経礼墓石<br /><br />十代藩主吉川経礼(きっかわ・つねひろ、1793~1836)の墓石があります。

    十代藩主吉川経礼墓石

    十代藩主吉川経礼(きっかわ・つねひろ、1793~1836)の墓石があります。

  • 十代藩主吉川経礼の墓標

    十代藩主吉川経礼の墓標

  • 四代藩主吉川広紀墓石<br /><br />四代藩主吉川広紀(きっかわ・ひろのり、1658~1696)の五輪塔が見えます。<br /><br />

    四代藩主吉川広紀墓石

    四代藩主吉川広紀(きっかわ・ひろのり、1658~1696)の五輪塔が見えます。

  • 四代藩主吉川広紀の墓標

    四代藩主吉川広紀の墓標

  • 五代藩主吉川広ミチ墓石

    五代藩主吉川広ミチ墓石

  • 吉川広ミチ墓標

    吉川広ミチ墓標

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