2016/11/01 - 2016/11/03
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T04さん
急遽の広島市内観光で訪れたのは「広島城」。その前半は天守閣を中心とする本丸を見学しました。後半は「広島護国神社」から二の丸辺りの見学です。
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「広島城」本丸上段で天守閣や大本営跡などを見学し、本丸下段とをつなぐ石段まで戻って来ました。そう広島駅からのタクシーで到着した場所です。目の前には「広島護国神社」の大鳥居が見えます。
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護国神社らしい大鳥居です。そもそも聖域の始まりを示す鳥居を出入りする際、一礼をしない人々が増えましたねぇ。文化の継承がなされていないことは大変に残念に思います。
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社殿は新しいながらも、護国神社らしい凛とした雰囲気なのですが…
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こんな鯉の像がありました。ベタすぎるとは思いますが、広島らしくはありますね(笑)。護国神社と言えども、地方分権・地方創成の時代にあるのでしょう。
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もちろん、護国神社らしい碑もあります。
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こちらに広島護国神社の由緒を刻んだ碑がありました。護国神社がこの場所に移されたのは戦後になってから、現在の社頭は平成に入ってから再整備されたものということでした。
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社殿への参拝を終えましたが…
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その帰り際、大鳥居の横手に…
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こんな顕彰碑がありました。刻まれていた文字は以下の通りです。
中支派遣獨立混成第十二旅團望部隊は昭和十四年四月を以て江蘇省蘇州に於て編成せられ同十八年六月楊州に於て第六十四師団開部隊に擴充改変されたが旧第五師團管下の将兵を主軸としている本部隊は昭和二十年八月終戰を迎えるまで揚子江湘江を中心として江北湖南等の各地に轉戦し赫々たる戦果を挙げたのである但この間将兵合わせて三千九百七十四柱の戦歿者を出したことは洵に哀惜に堪えない次第である。ここに部隊生存者一同は遺族と相謀り戰後の物故者をも併せてその功績を称え華表一基を建立して永くその偉功を顕彰し以て後世に傳えるものである。
昭和四十八年一月吉日
元望部隊
開部隊 生存者一同
文学博士 池田末利撰 桂團 井上正雄書
この独立混成第12旅団って、少し調べたら善通寺だったりしますが、広島とどのような関係が? -
そのまま護国神社を出ると、目の前にはこのような慰霊碑がありました。
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これは…?
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この碑は「中国軍管区司令部原爆慰霊碑」とありました。刻まれていた文字は以下の通りです。
明治6年此処広島城内に広島第五鎮台が設置され、その後第五師団司令部となりました。爾来その隷下舞台は、萩の乱、西南の役、日清戦争、日露戦争、北清事変、シベリア出兵、など幾多の戦役に際し、常に我が国軍の一翼として活動しました。
一連の日華事変、太平洋戦争において第五師団出兵後の広島では、留守第五師団司令部、広島師団司令部、広島師管区司令部、中国軍管区司令部と名称、組織、使命はその都度変化しながらも多くの師団、旅団を編成して送り出し、補充を行ってきましたが、昭和20年8月6日午前8時15分 原子爆弾の一閃により壊滅し、事実上の終焉を迎えました。被爆当時中国軍管区司令部に勤務しておりました軍人軍属の死没者数につきましては諸説があり定かではありませんが、この地で被爆した軍人軍属並びに学徒動員のさなかにこの地で被爆した旧比治山高等女学校関係者を中心に結成した「広島師友会」は、以来、盟友の慰霊碑の建設と慰霊式の開催を中心に活動してまいりました。
毎年8月6日午前8時より、この地におきまして比治山女子中学高等学校の主催により原爆死没者の慰霊と共に二度と戦争のない平和な社会の実現を目指す誓いの場として追悼式が執り行われております。
連絡先 比治山女子中学高等学校 広島市南区西霞町5-16
平成19年7月8日
広島師友会 -
向かって右側のプレートには「中国軍管区防空作戦室」と記されていました。書かれていた文字は以下の通りです。
広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。 -
たしかに、碑の横の壁などは厚いコンクリートで補強されており、普通ではない雰囲気です。久しぶりに戦跡らしい戦跡を見た気がします。
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この場所にあった地図で現在位置を確認、二の丸へ向かいます。
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この石垣の間から二の丸へ向かうようです。
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石垣の反対側は、原爆による熱線・火災によって、表面に焼けた痕跡が残されています。
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城内に唯一残る堀の向こう側が二の丸です。
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この水堀の大きさから、かつての広大な城郭の規模が想像できますね。
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二の丸に入りました。広い堀に突き出す出丸のように造られた二の丸は、かつて櫓群が築かれ、堅固な防御陣地であったのでしょう。現在は櫓群の復元工事も終わり、内部も公開されています。写真左手、一番高い建物が「太鼓櫓」、正面から右手には「多聞櫓」が続いています。
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さすがの「多聞櫓」、このままずっと「表御門」近くまで続きます。
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「多聞櫓」沿いに歩いて行くと「表御門」に到着します。門の向かって左側の建物が「多聞櫓」と「表御門」とを結ぶ「平櫓」です。
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二の丸の紹介がありました。
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左手に見える階段を上がったところから、櫓内に入ることができます。
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櫓の入口を入ったところは、ちょうど「平櫓」と「多聞櫓」の連結部分。右手が「平櫓」です。
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櫓内には展示らしい展示もありません。さすがにまずいと思ったのか、毛利元就の有名な『三子教訓状』の複製が、現代訳付で置かれていました。床に裸の状態で広げてあるだけという展示方法は、内部で色々とあったのでしょうねぇ…。それ以上の詮索はしません(笑)。
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「平櫓」と結ばれた櫓門である「表御門」、その櫓部分に入りました。かつては江戸時代以来の品々が保管されていたらしいのですが、原爆で灰燼に帰したようで残念です。
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「平櫓」に戻って「多聞櫓」内部をパチリ。一番奥では「太鼓櫓」に連結されています。ここは展示物やパネルなどが多く展示されています。
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「太鼓櫓」部分に到着しました。本来は、櫓の2階部分に大太鼓があって時を告げたらしいのですが、残念ながら2階に上がる階段にはロープが張られ、上がることはできませんでした。
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見学を終え「御門橋」を渡ったところでの写真です。正面が「表御門」、その右手が「平櫓」です。この後、広島駅までバスを利用し、ホテルまで戻りました。
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