2015/01/10 - 2015/01/10
217位(同エリア377件中)
滝山氏照さん
上毛電鉄大胡(おおご)駅から北西方向高台に位置する長興寺(ちょうこうじ、群馬県前橋市茂木町)は文明年間(1469~1486)に伊勢国から東三河牛窪(牛久保)に移り住み、有力国人牧野成定(まきの・なりさだ)に仕えた稲垣重賢(いながき・しげかた、生誕不詳~1528)の孫である長茂(ながしげ、1539~1612)が伊勢崎藩主時代の慶長年間(1596~1614)中に稲垣家菩提寺として開基し、父重宗(しげむね、1517~1594)と母の霊を供養したとされる漕洞宗寺院です。
重宗が仕えていた当時の牧野氏は駿河・遠江の太守で三河国にその勢力を有してきた今川氏に臣従していましたが義元が織田信長に討たれ今川氏の影響力低下を機に自立しその勢力を東三河に進攻して優勢になってきた徳川家康方に帰順し家康の東海道平定戦に活躍します。
重宗の嫡男長茂も祖父・父親同様に牧野氏に仕えた後家康に属して、永禄元年(1658)成定の嗣子となった康成(やすなり、1555~1609)に与力し康成と共に各地を転戦し数々の合戦で勝利に導きます。
天正3年(1575)遠江国領有を巡る徳川・武田との戦いでは、武田勝頼の重臣である馬場信春(ばば・のぶはる)築城の諏訪原城を奪ったのち、当城の城代となった康成を補佐して8年余の間勝頼の奪還を阻止した事で高天神城への補給路を断ち切り結果高天神城の落城と遠江からの武田氏撤退に繋がっていきます。
天正18年(1590)小田原北条氏没落、関東入部後は牧野氏から離れ再び家康の直臣となり、上野国山田・勢田及び下野国足利の3郡で3千石の知行を与えられ、慶長6年(1601)には上野国佐位郡(現伊勢崎市)で加増を受け1万石の大名に列せられ初代伊勢崎藩主となります。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
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長興寺・山門
上毛電鉄に沿った高台の道路から参道に入ると正面に山門が視野に入ります。 -
長興寺山門・扁額
「碧雲堂」と記された扁額が山門上部に掲載されています。 -
長興寺・本堂
正式には有鷲山長興寺という漕洞宗の寺院で、愛知県豊川市の妙厳寺(「豊川稲荷」の正式寺号)の末寺にあたります。稲垣家は東三河の牛窪(現臼久保)で牧野氏と関わりを持つことで発展してきた経緯がある事から日頃から同郷の豊川稲荷を篤く崇敬してきたと思われます。 -
長興寺本堂・扁額
上部には山号「有鷲山」が掲載されています。 -
豊川稲荷神社
境内には本寺院の本寺に当たる豊川稲荷が祀られています。 -
狛狐
当該寺院には珍しいことに、狛犬ならぬ「狛狐」が本堂前の両側に設置されています。さすがに本寺が妙厳寺(「豊川稲荷」の正式寺号)であることから配されていると思われます。 -
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史跡墓碑概説
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稲垣重宗夫妻墓石
説明板によれば当寺創立後伊勢崎藩主となった長茂(ながしげ)の両親とのことです。 -
山本帯刀(たてわき)夫妻の宝篋印塔
稲垣氏同様大胡城主である牧野氏を支える家老職を勤めた人物です。山本家は牧野氏が東三河の牛久保城主時代からの重臣で代々「帯刀」名を世襲しています。ここに眠る帯刀は山本成行と思われます。尚山本家は牧野氏が元和4年(1618)に越後長岡藩に移封後も代々家老として仕えます。 -
前橋藩酒井氏家臣村上氏数代の墓
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前橋藩酒井氏家臣大河内二右衛門墓石
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松平家家臣赤羽三蔵宗忠墓石
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(近隣の長善寺にも参りました)
長善寺山門
豊国山長善寺(ちょうぜんじ、群馬県前橋市堀越町)は上毛電鉄大胡駅から約10分北進の地にあり漕洞宗の寺院です。 -
重染寺・本堂
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境内風景
本堂から山門方向を捉えます。 -
鐘楼
高台に建つ小規模の鐘楼が見えます。 -
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